蜀書

蜀書 巻十四 蔣琬費禕姜維伝

本文 3,894字 登場人物 53人 登場地名 45件 記された年 223 · 228 · 230 · 238 · 244 · 252 · 258 裴松之注 20ブロック

蜀書 巻十四 蔣琬費禕姜維伝

蒋琬

蔣琬

蒋琬は字を公琰といい、零陵郡湘郷県の人である。二十歳のころ、母方の従弟である泉陵の劉敏とともに名を知られた。蒋琬は州の書佐として先主に従って蜀に入り、広都県長に任じられた。先主はあるとき遊覧に出たついでに不意に広都に至り、蒋琬が諸事を処理せず、しかもそのとき泥酔しているのを見て、大いに怒り、罪に問うて誅殺しようとした。軍師将軍の諸葛亮が願い出て言った。「蒋琬は社稷を担う器であって、百里の地を治める程度の才ではありません。

蔣琬字公琰,零陵湘鄉人也。弱冠與外弟泉陵劉敏俱知名。琬以州書佐隨先主入蜀,除廣都長。先主嘗因遊觀奄至廣都,見琬眾事不理,時又沉醉,先主大怒,將加罪戮。軍師將軍諸葛亮請曰:「蔣琬,社稷之器,非百里之才也。

その政治は民を安んずることを根本とし、飾り立てることを先にいたしません。どうか主公にはよくよくお察しください。」先主はもとより諸葛亮を敬っていたので、罪を加えず、慌ただしく官を免じただけであった。蒋琬は咎めを受けたのち、夜に夢を見た。一つの牛の頭が門前にあって、血がおびただしく流れていた。ひどく不吉に思い、夢占いの趙直を呼んで尋ねた。趙直は言った。「そもそも血を見るのは、事が明らかになるということです。牛の角と鼻は『公』の字の形であり、あなたの位は必ず公に至りましょう。大吉の兆しです。」まもなく什邡県令となった。先主が漢中王となると、蒋琬は中央に入って尚書郎となった。

其為政以安民為本,不以修飾為先,願主公重加察之。」先主雅敬亮,乃不加罪,倉卒但免官而已。琬見推之後,夜夢有一牛頭在門前,流血滂沱,意甚惡之,呼問占夢趙直。直曰:「夫見血者,事分明也。牛角及鼻,『公』字之象,君位必當至公,大吉之征也。」頃之,為什邡令。先主為漢中王,琬入為尚書郎。

建興元年、丞相の諸葛亮が府を開くと、蒋琬を召して東曹掾とした。茂才に推挙されると、蒋琬は劉邕・陰化・龐延・廖淳に固く譲ったが、諸葛亮は教書で答えた。「思うに、親に背き徳を捨てて民を損なうようなことであれば、人々は心中に隠しておかないものだ。そなたの辞退はまことに遠近の者にその意味をわからなくさせる。だからそなたは功績と推挙をはっきり示し、この選抜の清く重いことを明らかにすべきである。」参軍に遷った。五年、諸葛亮が漢中に駐屯すると、蒋琬は長史の張裔とともに留府の事務を統べた。

建興元年,丞相亮開府,辟琬為東曹掾。舉茂才,琬固讓劉邕、陰化、龐延、廖淳,亮教答曰:「思惟背親捨德,以殄百姓,眾人既不隱於心,實又使遠近不解其義,是以君宜顯其功舉,以明此選之清重也。」遷為參軍。五年,亮住漢中,琬與長史張裔統留府事。

八年、張裔に代わって長史となり、撫軍将軍を加えられた。諸葛亮がしばしば出征すると、蒋琬は常に食糧と兵を十分にして供給した。諸葛亮はいつも言っていた。「公琰は志を忠と雅正に託しており、わたしとともに王業を助ける者である。」ひそかに後主に上表して言った。「臣にもしものことがあれば、後事は蒋琬に託されるのがよろしいでしょう。」

八年,代裔為長史,加撫軍將軍。亮數外出,琬常足食足兵以相供給。亮每言:「公琰托志忠雅,當與吾共贊王業者也。」密表後主曰:「臣若不幸,後事宜以付琬。」

諸葛亮が死ぬと、蒋琬を尚書令とし、まもなく行都護・仮節を加え、益州刺史を兼ねさせ、大将軍・録尚書事に遷し、安陽亭侯に封じた。このとき元帥を失ったばかりで、遠近の者は危ぶみ恐れていた。蒋琬は抜きん出て群臣の上位にあったが、悲しむ顔色もなく喜ぶ様子もなく、心の持ちようも立ち居振る舞いも平生と変わらなかったので、これによって人々はしだいに心服した。延熙元年、蒋琬に詔して言った。「賊寇の難はいまだ収まらず、曹叡は驕り高ぶって凶暴であり、遼東の三郡はその暴虐に苦しみ、ついに互いに結束して彼から離反した。

亮卒,以琬為尚書令,俄而加行都護、假節、領益州刺史、遷大將軍、錄尚書事、封安陽亭侯。時新喪元帥,遠近危悚。琬出類拔萃,處群僚之右,既無戚容,又無喜色,神守舉止,有如平日,由是眾望漸服。延熙元年,詔琬曰:「寇難未弭,曹叡驕凶,遼東三郡苦其暴虐,遂相糾結,與之離隔。

曹叡は大いに兵と労役を動員して、かえって攻め合っている。むかし秦が滅びたとき、陳勝・呉広が真っ先に難を起こしたが、いまこの変事があるのは、まさに天の時である。そなたは軍装を整え、諸軍をすべて率いて漢中に駐屯し、呉が動くのを待って、東西から挟み撃ちにし、その隙に乗じよ。」また蒋琬に府を開くよう命じ、翌年、その任地で大司馬を加えた。

睿大興眾役,還相攻伐。囊秦之亡,勝、廣首難,今有此變,斯乃天時。君其治嚴,總帥諸軍屯住漢中,須吳舉動,東西掎角,以乘其釁。」又命琬開府,明年就加為大司馬。

東曹掾の楊戯はもともと性格が簡略で、蒋琬が話しかけても、ときに返事をしなかった。ある者が楊戯を蒋琬に讒言しようとして言った。「公が楊戯とお話しになっても応答がありません。楊戯が上をあなどるのは、ひどすぎるのではありませんか。」蒋琬は言った。「人の心が同じでないのは、それぞれの顔が違うようなものだ。面前では従って陰で別のことを言うのは、古人の戒めたところである。楊戯がわたしを正しいと賛成しようとすれば本心ではなく、わたしの言に反対しようとすればわたしの非を明らかにすることになる。だから黙っているのであり、これこそ楊戯の率直なところなのだ。」

東曹掾楊戲索性簡略,琬與言論,時不應答。或欲構戲於琬,曰:「公與戲語而不見應,戲之慢上,不亦甚乎!」琬曰:「人心不同,各如其面;面從後言,古人之所誡也。戲欲贊吾是耶,則非其本心,欲反吾言,則顯吾之非,是以默然,是戲之快也。」

また督農の楊敏がかつて蒋琬をそしって言った。「仕事ぶりがぼんやりしていて、まことに前任者に及ばない。」ある者がこれを蒋琬に告げ、担当の役人が楊敏を取り調べて処罰するよう願い出た。蒋琬は言った。「わたしはまことに前任者に及ばないのだから、取り調べることはない。」役人は取り調べないという許しを重ねて確かめたうえで、ぼんやりしているというのはどのような様子かを尋ねたいと願った。蒋琬は言った。「もし及ばないのであれば、事は理にかなわない。事が理にかなわなければ、ぼんやりしているということだ。このうえ何を問うのか。」のちに楊敏が事件に連座して獄につながれると、人々はなお彼が必ず死ぬだろうと恐れた。しかし蒋琬の心には偏りがなく、楊敏は重罪を免れることができた。蒋琬の好悪が道にかなっていたことは、みなこの類であった。

又督農楊敏曾毀琬,曰:「作事憒憒;誠非及前人。」或以白琬,主者請推治敏。琬曰:「吾實不如前人,無可推也。」主者重據聽不推,則乞問其憒憒之狀。琬曰:「苟其不如,則事不當理,事不當理,則憒憒矣。復何問邪?」後敏坐事繫獄,眾人猶懼其必死。琬心無適莫,得免重罪。其好惡存道,皆此類也。

蒋琬は、かつて諸葛亮がしばしば秦川をうかがったが、道は険しく輸送は困難で、ついに勝てなかったので、水に乗って東へ下るに越したことはないと考えた。そこで船を多く造り、漢水・沔水から魏興・上庸を襲おうとした。ちょうど持病が続けて起こり、すぐには出発できなかった。しかも衆議はみな、もし勝てなければ帰路がきわめて困難であり、長期の策ではないと言った。そこで尚書令の費禕、中監軍の姜維らを遣わして、朝廷の意向を伝えさせた。

琬以為昔諸葛亮數窺秦川,道險運艱,竟不能克,不若乘水東下。乃多作舟船,欲由漢、沔襲魏興、上庸。會舊疾連動,未時得行。而眾論咸謂如不克捷,還路甚難,非長策也。於是遣尚書令費禕、中監軍姜維等喻指。

蒋琬は命を受けて上疏して言った。「穢れを刈り難を収めるのは、臣の職掌であります。臣が命を奉じて漢中に来てから、すでに六年を経ましたが、臣は愚かで弱いうえに病にもかかり、計画は成らず、朝夕に憂え悲しんでおります。いま魏は九州にまたがり、根もへたもはびこっていて、平定して除くのは容易ではありません。もし東西が力を合わせ、首尾から挟み撃ちにすれば、すぐに思いどおりにはならなくとも、分裂させて蚕食し、まずその枝葉の党を砕くべきです。

琬承命上疏曰:芟穢弭難,臣職是掌。自臣奉辭漢中,已經六年,臣既闇弱,加嬰疾疢,規方無成,夙夜憂慘。今魏跨帶九州,根蒂滋蔓,平除未易。若東西並力,首尾掎角。雖未能速得如志,且當分裂蠶食,先摧其枝黨。

しかし呉との約束は二転三転して、たびたび果たされず、進むも退くもただ困難ばかりで、まことに寝食を忘れるほどです。そこで費禕らと協議しましたところ、涼州は胡との辺塞の要地であり、進退の拠り所となり、賊の惜しむところです。しかも羌や胡は、渇いた者が水を求めるように漢を慕っております。またかつて偏軍が羌の地に入り、郭淮を破って敗走させました。その長短を計ってみますと、これを事の始めとすべきであり、姜維を涼州刺史とするのがよろしいと存じます。もし姜維が征討に出て河右を押さえれば、臣は軍を率いて姜維の後ろ盾となりましょう。いま涪は水陸が四方に通じ、急な所にただちに応じることができます。もし東北に憂いがあっても、駆けつけるのは難しくありません。」

然吳期二三,連不克果,俯仰惟艱,實忘寢食。輒與費禕等議,以涼州胡塞之要,進退有資,賊之所惜;且羌、胡乃心思漢如渴。又昔偏軍入羌,郭淮破走,算其長短,以為事首,宜以姜維為涼州刺史。若維征行,銜持河右,臣當帥軍為維鎮繼。今涪水陸四通,惟急是應。若東北有虞,赴之不難。

こうして蒋琬はついに引き返して涪に駐屯した。病はしだいに重くなり、九年になって死んだ。諡を恭という。

由是琬遂還住涪。疾轉增劇,至九年卒,謚曰恭。

子の蒋斌が後を継ぎ、綏武将軍・漢城護軍となった。魏の大将軍鍾会は漢城に至ると、蒋斌に書を送って言った。「巴蜀には賢く知恵ある文武の士が多いが、足下と諸葛思遠にいたっては、草木にたとえれば、わたしと同類である。郷里の先人を敬うことは、古今を通じて重んじられてきた。西に到ったならば、尊父公侯の墓を拝し、墳墓を掃き清め、祭りを奉じて敬意を尽くしたい。その所在を教えてほしい。」

子斌嗣,為綏武將軍、漢城護軍。魏大將軍鍾會至漢城,與斌書曰:「巴蜀賢智文武之士多矣,至於足下、諸葛思遠,譬諸草木,吾氣類也。桑梓之敬,古今所敦。西到,欲奉瞻尊大君公侯墓,當灑掃墳塋,奉祠致敬。願告其所在!」

蒋斌は返書して言った。「同じ気質の者として厚く心を寄せてくださり、雅やかに交わりを託してくださることを知り、お申し出をお断りいたしません。亡父はかつて病にかかり、涪県で亡くなりましたが、占うと吉と出たので、そこに葬りました。あなたが西へ来られるにあたり、わざわざ車駕をまげて墳墓に敬意を表そうとなさることを知りました。人の父をわが父のように見るのは顔子の仁であり、お言葉を聞いて感じ入り悲しみ、思いを深くいたしました。」鍾会は蒋斌の返書を受け取ると、その意と義をほめたたえ、涪に至ると書にあるとおりにした。

斌答書曰:「知惟臭味意眷之隆,雅托通流,未拒來謂也。亡考昔遭疾疢,亡於涪縣,卜云其吉,遂安厝之。知君西邁,乃欲屈駕修敬墳墓。視予猶父,顏子之仁也,聞命感愴,以增情思。」會得斌書報,嘉歎意義,及至涪如其書云。

後主が鄧艾に降伏すると、蒋斌は涪へ行って鍾会に会い、鍾会は交友の礼をもって待遇した。蒋斌は鍾会に従って成都に至り、乱兵に殺された。蒋斌の弟の蒋顕は太子僕となった。鍾会はその才学をも愛したが、蒋顕は蒋斌と同時に死んだ。

後主既降鄧艾,斌詣會於涪,待以交友之禮。隨會至成都,為亂兵所殺。斌弟顯,為太子僕。會亦愛其才學,與斌同時死。

劉敏は左護軍・揚威将軍として、鎮北大将軍の王平とともに漢中を鎮守した。魏が大将軍の曹爽を遣わして蜀を襲ったとき、論者のなかには、ただ城を守って出て敵を防がなければ、敵は必ず自ら引き揚げるだろうと言う者もいた。劉敏は、男女が野に散らばり、穀物が畑にそのまま残っているのに、もし敵を入るにまかせれば大事は去ってしまうと考えた。そこで配下を率いて王平とともに興勢に拠り、旗を多く張り連ね、百余里にわたらせた。

劉敏,左護軍、揚威將軍,與鎮北大將軍王平俱鎮漢中。魏遣大將軍曹爽襲蜀時,時議者或謂但可守城,不出拒敵,必自引退。敏以為男女布野,農穀棲畝,若聽敵人,則大事去矣。遂帥所領與平據興勢,多張旗幟,彌亙百餘里。

ちょうど大将軍の費禕が成都から到着すると、魏軍はすぐに退いた。劉敏は功によって雲亭侯に封じられた。

會大將軍費禕從成都至,魏軍即退。敏以功封雲亭侯。

費禕

費禕

費禕は字を文偉といい、江夏郡鄳県の人である。幼くして父を失い、一族のおじにあたる伯仁に身を寄せた。伯仁の父の姉妹は益州牧劉璋の母であった。劉璋が使者を遣わして伯仁を迎えると、伯仁は費禕を連れて遊学のため蜀に入った。ちょうど先主が蜀を平定したので、費禕はそのまま益州の地にとどまり、汝南の許叔龍、南郡の董允と名声を等しくした。そのころ許靖が子を亡くし、董允と費禕はそろってその葬儀の場に行こうとした。董允が父の董和に車を願うと、董和は後ろの開いた鹿車を出して与えた。

費禕字文偉,江夏鄳人也。1少孤,依族父伯仁。伯仁姑,益州牧劉璋之母也。璋遣使迎仁,仁將禕遊學入蜀。會先主定蜀,禕遂留益土,與汝南許叔龍、南郡董允齊名。時許靖喪子,允與禕欲共會其葬所。允白父和請車,和遣開後鹿車給之。

裴松之注(1)

1鄳音盲。

董允は乗るのをためらう様子であったが、費禕はすぐに前から先に乗り込んだ。葬儀の場に着くと、諸葛亮や貴人たちがみな集まっていて、車はたいへん立派であった。董允はなお顔色が落ち着かなかったが、費禕は泰然自若としていた。車を御した者が帰ると、董和は尋ねてその様子を知り、董允に言った。「わたしは常々、おまえと文偉の優劣がつかないと思っていた。だが今からは、わたしの考えははっきりした。」

允有難載之色。禕便從前先上。及於喪所,諸葛亮及諸貴人悉集,車乘甚鮮,允猶神色未泰,而禕晏然自若。持車人還,和問之,知其如此,乃謂允曰:「吾常疑汝於文偉優劣未別也。而今而後,吾意了矣。」

先主が太子を立てると、費禕は董允とともに太子舎人となり、庶子に遷った。後主が即位すると、黄門侍郎となった。丞相の諸葛亮が南征から帰還したとき、群臣は数十里の先まで出迎え、年齢や官位が費禕より上の者が多かったが、諸葛亮は特に費禕に命じて同じ車に乗せた。これによって人々はみな費禕を見直した。諸葛亮は南から帰ったばかりで、費禕を昭信校尉として呉に使者として遣わした。孫権は性格がおどけていて、とめどなく嘲り、諸葛恪・羊衜らは才知が広く弁舌が鋭く、論難が鋭く迫ってきたが、費禕は言葉は穏やかで義は篤く、理に基づいて答えたので、ついに屈服させることはできなかった。

先主立太子,禕與允為舍人,遷庶子。後主踐位,為黃門侍郎。丞相亮南征還,群僚於數十里逢迎,年位多在禕右,而亮特命禕同載,由是眾人莫不易觀。亮以初從南歸,以禕為昭信校尉使吳。孫權性既滑稽,嘲啁無方,諸葛恪、羊衜等才博果辯,論難鋒至,禕辭順義篤,據理以答,終不能屈。1

裴松之注(1)

1禕別傳曰:孫權每別酌好酒以飲禕,視其已醉,然後問以國事,并論當世之務,辭難累至。禕輒辭以醉,退而撰次所問,事事條答,無所遺失。

孫権は彼を大いに評価し、費禕に言った。「君は天下の淑徳の士であるから、必ず蜀の朝廷の股肱となるであろう。おそらくたびたびは来られまい。」帰国すると侍中に遷った。諸葛亮が北上して漢中に駐屯すると、費禕を招いて参軍とした。使者の務めを意にかなって果たしたので、しばしば呉に赴いた。

權甚器之,謂禕曰:「君天下淑德,必當股肱蜀朝,恐不能數來也。」1還,遷為侍中。亮北住漢中,請禕為參軍。以奉使稱旨,頻煩至吳。

裴松之注(1)

1禕別傳曰:權乃以手中常所執寶刀贈之,禕答曰:“臣以不才,何以堪明命?然刀所以討不庭、禁暴亂者也,但原大王勉建功業,同獎漢室,臣雖闇弱,終不負東顧。”

建興八年、中護軍に転じ、のちにまた司馬となった。おりしも軍師の魏延と長史の楊儀が互いに憎み合っていた。並んで座るたびに言い争い、魏延はときに刀を振り上げて楊儀に突きつけ、楊儀は涙をぼろぼろと流した。費禕はいつも二人の座の間に入り、諫めさとして引き分けた。諸葛亮の存命中、魏延と楊儀をそれぞれ十分に用いることができたのは、費禕が正し救った力によるものである。諸葛亮が死ぬと、費禕は後軍師となった。まもなく蒋琬に代わって尚書令となった。蒋琬が漢中から涪に戻ると、費禕は大将軍・録尚書事に遷った。

建興八年,轉為中護軍,後又為司馬。值軍師魏延與長史楊儀相憎惡。每至並坐爭論,延或舉刀擬儀,儀泣涕橫集。禕常入其坐間,諫喻分別,終亮之世。各盡延、儀之用者,禕匡救之力也。亮卒,禕為後軍師。頃之,代蔣琬為尚書令。1琬自漢中還涪,禕遷大將軍,錄尚書事。

裴松之注(1)

1禕別傳曰:于時軍國多事,公務煩猥,禕識悟過人,每省讀書記,舉目暫視,已究其意旨,其速數倍於人,終亦不忘。常以朝晡聽事,其間接納賓客,飲食嬉戲,加之博弈,每盡人之歡,事亦不廢。董允代禕爲尚書令,欲斅禕之所行,旬日之中,事多愆滯。允乃歎曰:“人才力相縣若此甚遠,此非吾之所及也。聽事終日,猶有不暇爾。”

延熙七年、魏軍が興勢に駐屯すると、費禕に節を仮し、兵を率いて防ぎに行かせた。光禄大夫の来敏が費禕のもとへ別れを告げに来て、ともに囲碁を打とうと求めた。そのとき羽檄が飛び交い、人馬は鎧をつけ、出陣の支度はすでに整っていた。費禕は来敏と対局に心を注ぎ、飽きた様子もなかった。来敏は言った。「先ほどはちょっとあなたを試してみただけです。あなたはまことに頼もしい人物で、必ず賊を片づけることができましょう。」費禕が到着すると、敵はついに退き、費禕は成郷侯に封じられた。

延熙七年,魏軍次於興勢,假禕節,率眾往禦之。光祿大夫來敏至禕許別,求共圍棋。於時羽檄交馳,人馬擐甲,嚴駕已訖。禕與敏留意對戲,色無厭倦。敏曰:「向聊觀試君耳!君信可人,必能辦賊者也。」禕至,敵遂退,封成鄉侯。1

裴松之注(1)

1殷基通語曰:司馬懿誅曹爽,禕設甲乙論平其是非。甲以爲曹爽兄弟凡品庸人,苟以宗子枝屬,得蒙顧命之任,而驕奢僭逸,交非其人,私樹朋黨,謀以亂國。懿奮誅討,一朝殄盡,此所以稱其任,副士民之望也。乙以爲懿感曹仲付己不一,豈爽與相干?事勢不專,以此陰成疵瑕。初無忠告侃爾之訓,一朝屠戮,攙其不意,豈大人經國篤本之事乎!若爽信有謀主之心,大逆已構,而發兵之日,更以芳委爽兄弟。懿父子從後閉門舉兵,蹙而向芳,必無悉寧,忠臣爲君深慮之謂乎?以此推之,爽無大惡明矣。若懿以爽奢僭,廢之刑之可也,滅其尺口,被以不義,絕子丹血食,及何晏子魏之親甥,亦與同戮,爲僭濫不當矣。

蒋琬が州の職を固辞したので、費禕がまた益州刺史を兼ねた。費禕が国政を担っての功名は、ほぼ蒋琬と並ぶものであった。十一年、出て漢中に駐屯した。蒋琬から費禕に至るまで、身は外にあっても、褒賞や刑罰はすべて遠くからまず彼らに諮って決裁を受けたうえで施行した。その信任はこのようであった。その後十四年の夏、成都に戻ったが、成都の気を望む者が、都には宰相の位がないと言ったので、冬にまた北上して漢寿に駐屯した。

琬固讓州職,禕復領益州刺史。禕當國功名,略與琬比。1十一年,出住漢中,自琬及禕,雖自身在外,慶賞刑威,皆遙先諮斷,然後乃行。其推任如此。後十四年夏,還成都,成都望氣者云都邑無宰相位,故冬復北屯漢壽。

裴松之注(1)

1禕別傳曰:禕雅性謙素,家不積財。兒子皆令布衣素食,出入不從車騎,無異凡人。

延熙十五年、費禕に府を開くよう命じた。十六年の年頭の大宴会に、魏からの降人の郭循が列席していた。費禕は楽しく飲んで泥酔し、郭循にみずから刃で刺されて殺された。諡を敬侯という。子の費承が後を継ぎ、黄門侍郎となった。費承の弟の費恭は公主をめとった。費禕の長女は太子劉璿に嫁いで妃となった。

延熙十五年,命禕開府。十六年歲首大會,魏降人郭循在坐。禕歡飲沉醉,為循手刃所害,謚曰敬侯。子承嗣,為黃門侍郎,承弟恭,尚公主。1禕長女配太子璿為妃。

裴松之注(1)

1禕別傳曰:恭爲尚書郎,顯名當世,早卒。

姜維

姜維

姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。幼くして父を失い、母と暮らし、鄭氏(鄭玄)の学問を好んだ。郡に仕えて上計掾となり、州に召されて従事となった。父の姜冏がかつて郡の功曹であったとき、羌や戎が反乱を起こし、身をもって郡将を守って戦場で死んだので、姜維に中郎の官を賜り、本郡の軍事に参与させた。建興六年、丞相諸葛亮の軍が祁山に向かったとき、天水太守はたまたま巡察に出ていた。

姜維,字伯約,天水冀人也。少孤,與母居,好鄭氏學。1仕郡上計掾,州辟為從事。以父冏昔為郡功曹,值羌、戎叛亂,身衛郡將,沒於戰場,賜維官中郎,參本郡軍事。建興六年,丞相諸葛亮軍向祁山,時天水太守適出案行。

裴松之注(1)

1《傅子》曰:維爲人好立功名,陰養死士,不脩布衣之業。

姜維は功曹の梁緒、主簿の尹賞、主記の梁虔らとともに随行した。太守は蜀軍がまもなく到着し、諸県がこれに呼応していると聞き、姜維らがみな異心を抱いていると疑って、夜に逃げて上邽に立てこもった。姜維らは太守が去ったのに気づいて追いかけたが遅れ、城門に着いたときには門はすでに閉ざされ、入れてもらえなかった。姜維らは連れ立って冀に戻ったが、冀もまた姜維を入れなかった。姜維らはそこでそろって諸葛亮のもとに赴いた。おりしも馬謖が街亭で敗れた。

維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等從行。太守聞蜀軍垂至而諸縣響應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上邽。維等覺太守去,追遲,至城門,城門已閉,不納。維等相率還冀,冀亦不入維。維等乃俱詣諸葛亮。會馬謖敗於街亭。

諸葛亮は西県の千余家と姜維らを引き抜いて連れ帰ったので、姜維はそのまま母と離ればなれになった。諸葛亮は姜維を召して倉曹掾とし、奉義将軍を加え、当陽亭侯に封じた。時に年二十七であった。諸葛亮は留府長史の張裔と参軍の蒋琬に書を送って言った。「姜伯約は時務に忠実で勤勉であり、思慮は精密である。その持てるものを考えると、永南や季常らも及ばない。その人は涼州の上士である。」

亮拔將西縣千餘家及維等還,故維遂與母相失。1亮辟維為倉曹掾,加奉義將軍,封當陽亭侯,時年二十七。亮與留府長史張裔、參軍蔣琬書曰:「姜伯約忠勤時事,思慮精密,考其所有,永南、季常諸人不如也。其人,涼州上士也。」

裴松之注(1)

1《魏略》曰:天水太守馬遵將維及諸官屬隨雍州刺史郭淮偶自西至洛門案行,會聞亮已到祁山,淮顧遵曰:“是欲不善!”遂驅東還上邽。遵念所治冀縣界在西偏,又恐吏民樂亂,遂亦隨淮去。時維謂遵曰:“明府當還冀。”遵謂維等曰:“卿諸人(回)復信,皆賊也。”各自行。維亦無如遵何,而家在冀,遂與郡吏上官子脩等還冀。冀中吏民見維等大喜,便推令見亮。二人不獲已,乃共詣亮。亮見,大悅。未及遣迎冀中人,會亮前鋒爲張郃、費繇等所破,遂將維等卻縮。維不得還,遂入蜀。諸軍攻冀,皆得維母妻子,亦以維本無去意,故不沒其家,但系保官以延之。此語與本傳不同。

また言った。「まず中虎歩兵五、六千人を教練させねばならぬ。姜伯約は軍事にきわめて敏く、胆力と義心を備え、用兵の意を深く理解している。この人は心を漢室に寄せ、才は人に倍する。軍事の教練を終えたら、宮中に遣わして主上にお目通りさせよう。」のちに中監軍・征西将軍に遷った。

又曰:「須先教中虎步兵五六千人。姜伯約甚敏於軍事,既有膽義,深解兵意。此人心存漢室而才兼於人,畢教軍事,當遣詣宮,覲見主上。」1後遷中監軍、征西將軍。

裴松之注(1)

1孫盛雜記曰:初,姜維詣亮,與母相失,復得母書,令求當歸。維曰:“良田百頃,不在一畝,但有遠志,不在當歸也。”

十二年、諸葛亮が死ぬと、姜維は成都に戻り、右監軍・輔漢将軍となって諸軍を統べ、平襄侯に進封された。延熙元年、大将軍の蒋琬に従って漢中に駐屯した。蒋琬が大司馬に遷ると、姜維を司馬とし、姜維はしばしば偏軍を率いて西に入った。六年、鎮西大将軍に遷り、涼州刺史を兼ねた。十年、衛将軍に遷り、大将軍の費禕とともに録尚書事となった。

十二年,亮卒,維還成都,為右監軍、輔漢將軍,統諸軍,進封平襄侯。延熙元年,隨大將軍蔣琬住漢中。琬既遷大司馬。以維為司馬,數率偏軍西入。六年,遷鎮西大將軍,領涼州刺史。十年,遷衛將軍,與大將軍費禕共錄尚書事。

この年、汶山の平康の夷が反乱を起こし、姜維は兵を率いて討伐し平定した。また隴西・南安・金城の境に出て、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮西で戦った。胡王の治無戴らが部落を挙げて降伏したので、姜維は彼らを連れ帰って安住させた。十二年、姜維に節を仮して再び西平に出たが、勝てずに帰った。姜維は自ら西方の風俗に通じていると思い、そのうえ才能と武勇を自負して、諸々の羌や胡を誘って羽翼とすれば、隴より西は切り取って保有できると考えた。

是歲,汶山平康夷反,維率眾討定之。又出隴西、南安、金城界,與魏大將軍郭淮、夏侯霸等戰於洮西。胡王治無戴等舉部落降,維將還安處之。十二年,假維節復出西平,不克而還。維自以練西方風俗,兼負其才武,欲誘諸羌、胡以為羽翼,謂自隴以西可斷而有也。

大軍を起こして大挙しようとするたびに、費禕はいつも抑えて従わず、与える兵は一万人を超えなかった。

每欲興軍大舉,費禕常裁制不從,與其兵不過萬人。1

裴松之注(1)

1《漢晉春秋》曰:費禕謂維曰:“吾等不如丞相亦已遠矣;丞相猶不能定中夏,況吾等乎!且不如保國治民,敬守社稷,如其功業,以俟能者,無以爲希冀徼倖而決成敗於一舉。若不如志,悔之無及。”

十六年の春、費禕が死んだ。夏、姜維は数万人を率いて石営に出て、董亭を経て南安を包囲した。魏の雍州刺史陳泰が包囲を解きに洛門まで来ると、姜維は食糧が尽きて退却した。翌年、督中外軍事を加えられた。再び隴西に出ると、狄道を守る県長の李簡が城を挙げて降伏した。進んで襄武を包囲し、魏の将の徐質と刃を交え、首を斬って敵を破り、魏軍は敗退した。姜維は勝ちに乗じて多くを降し、河関・狄道・臨洮三県の民を連れて帰った。

十六年春,禕卒。夏,維率數萬人出石營,經董亭,圍南安。魏雍州刺史陳泰解圍至洛門,維糧盡退還。明年,加督中外軍事。復出隴西,守狄道長李簡舉城降。進圍襄武,與魏將徐質交鋒,斬首破敵,魏軍敗退。維乘勝多所降下,拔河關狄道、臨洮三縣民還。

その後十八年、再び車騎将軍の夏侯覇らとともに狄道に出て、魏の雍州刺史王経を洮西で大いに破り、王経の兵の死者は数万人にのぼった。王経が退いて狄道城に立てこもると、姜維はこれを包囲した。魏の征西将軍陳泰が兵を進めて包囲を解くと、姜維は退いて鍾題に駐屯した。

後十八年,復與車騎將軍夏侯霸等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經眾死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。魏徵西將軍陳泰進兵解圍,維卻住鍾題。

十九年の春、その任地で姜維を大将軍に遷した。姜維はさらに軍馬を整え、鎮西大将軍の胡済と上邽で落ち合う約束をした。胡済が約束を違えて来なかったため、姜維は魏の大将鄧艾に段谷で破られ、星のように散り散りになって流浪し、死者はきわめて多かった。人々はこれによって恨みそしり、隴より西もまた騒がしく落ち着かなかった。姜維は過ちを謝して責任を負い、自ら降格を求めた。後将軍となり、大将軍の事を代行した。

十九年春,就遷維為大將軍。更整勒戎馬,與鎮西大將軍胡濟期會上邽。濟失誓不至,故維為魏大將鄧艾所破於段谷,星散流離,死者甚眾。眾庶由是怨讟,而隴以西亦騷動不寧。維謝過引負,求自貶削。為後將軍,行大將軍事。

二十年、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反乱を起こし、魏は関中の兵を分けて東へ下らせた。姜維は手薄に乗じて秦川に向かおうと、再び数万人を率いて駱谷に出て、まっすぐ沈嶺に至った。当時、長城には蓄えた穀物がきわめて多かったが守兵は少なく、姜維がまさに到着すると聞いて皆おびえ恐れた。魏の大将軍司馬望がこれを防ぎ、鄧艾もまた隴右から来て、ともに長城に陣を布いた。

二十年,魏徵東大將軍諸葛誕反於淮南,分關中兵東下。維欲乘虛向秦川,復率數萬人出駱谷,逕至沈嶺。時長城積穀甚多而守兵乃少,聞維方到眾皆惶懼。魏大將軍司馬望拒之,鄧艾亦自隴右,皆軍於長城。

姜維は進んで芒水に駐屯し、すべて山に依って陣営を築いた。司馬望と鄧艾は渭水のほとりに堅く陣を構えた。姜維はしばしば山を下りて挑戦したが、司馬望と鄧艾は応じなかった。景耀元年、姜維は諸葛誕が敗れたと聞き、成都に帰った。再び大将軍に任じられた。

維前住芒水,皆倚山為營。望、艾傍渭堅圍,維數下挑戰,望、艾不應。景耀元年,維聞誕破敗,乃還成都。復拜大將軍。

かつて先主は魏延を留めて漢中を鎮守させ、諸々の囲(防御陣地)にすべて兵を満たして外敵を防がせた。敵が攻めて来ても、入らせないためである。興勢の役で王平が曹爽を防いだのも、みなこの制度を受け継いだものであった。姜維は建議して、諸囲に兵を分けて守らせるのは、『周易』の「重門」の義には合うが、敵を防ぐことはできても大きな利は得られない、と考えた。敵が来ると聞けば、諸囲はみな兵を収め穀物を集め、漢・楽の二城に退くようにするのがよい、とした。

初,先主留魏延鎮漢中,皆實兵諸圍以御外敵。敵若來攻,使不得入。及興勢之役,王平捍拒曹爽,皆承此制。維建議,以為錯守諸圍,雖合《周易》「重門」之義,然適可禦敵,不獲大利。不若使聞敵至,諸圍皆斂兵聚谷,退就漢、樂二城。

敵を平地に入らせず、さらに関を重ねて鎮守し、これを防ぐ。事ある日には、遊軍をともに進ませてその隙をうかがわせる。敵は関を攻めても落とせず、野には散らばった穀物もなく、千里の遠くから糧を運ばねばならず、自然に疲れ果てる。敵が引き退く日に、諸城がそろって出撃し、遊軍と力を合わせてこれを撃つ。これこそ敵を滅ぼす術である、というのである。そこで督漢中の胡済を退かせて漢寿に駐屯させ、監軍の王含に楽城を、護軍の蒋斌に漢城を守らせ、また西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠にみな囲を立てて守らせた。

使敵不得入平,且重關鎮守以捍之。有事之日,令遊軍並進以伺其虛。敵攻關不克,野無散谷,千里縣糧,自然疲乏。引退之日,然後諸城並出,與遊軍並力搏之,此殄敵之術也。於是令督漢中胡濟卻住漢壽,監軍王含守樂城,護軍蔣斌守漢城,又於西安、建威、武衛、石門、武城、建昌、臨遠皆立圍守。

五年、姜維は兵を率いて漢中から侯和に出たが、鄧艾に破られ、引き返して沓中に駐屯した。姜維はもともと流れ者として国に身を寄せた者であり、年々攻め戦ったが、功績は立たなかった。しかも宦官の黄皓らが宮中で権力をもてあそび、右大将軍の閻宇が黄皓と結託しており、黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てようとしていた。姜維もこれを疑っていたので、身の危険を感じて恐れ、二度と成都に戻らなかった。六年、姜維は後主に上表した。「鍾会が関中で兵を整え、進攻を図っていると聞きます。張翼と廖化をともに遣わして諸軍を督させ、陽安関口と陰平の橋頭を分かれて守らせ、未然に防ぐべきです。」

五年,維率眾出漢、侯和,為鄧艾所破,還住沓中。維本羈旅托國,累年攻戰,功績不立。而宦官黃皓等弄權於內,右大將軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。維亦疑之,故自危懼,不復還成都。1六年,維表後主:「聞鍾會治兵關中,欲規進取,宜並遣張翼、廖化督諸軍分護陽安關口、陰平橋頭,以防未然。」

裴松之注(1)

1《華陽國志》曰;維惡黃皓恣擅,啓後主欲殺之。後主曰:“皓趨走小臣耳,往董允切齒,吾常恨之,君何足介意!”維見皓枝附葉連,懼於失言,遜辭而出。後主敕皓詣維陳謝。維說皓求沓中種麥,以避內逼耳。

黄皓は鬼神や巫の言葉を信じ、敵は結局自分からはやって来ないと言った。後主に申し上げてその件を棚上げにさせ、群臣は知らなかった。鍾会が駱谷に向かおうとし、鄧艾が沓中に入ろうとするに及んで、ようやく右車騎将軍の廖化を沓中に遣わして姜維の援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董厥らを陽安関口に遣わして諸囲の外からの助けとした。彼らが陰平に至ったころ、魏の将諸葛緒が建威に向かっていると聞いたので、とどまってこれを待った。

皓徵信鬼巫,謂敵終不自致。啟後主寢其事,而羣臣不知。及鍾會將向駱谷,鄧艾將入沓中。然後乃遣右車騎廖化詣沓中為維援,左車騎張翼、輔國大將軍董厥等詣陽安關口以為諸圍外助。比至陰平,聞魏將諸葛緒向建威,故住待之。

一月余りして、姜維は鄧艾に打ち破られ、引き返して陰平に駐屯した。鍾会は漢・楽の二城を攻め囲み、別将を遣わして関口を攻めさせると、蒋舒は城を開いて出て降伏し、傅僉は格闘して死んだ。鍾会は楽城を攻めたが、落とせなかった。関口がすでに陥ちたと聞くと、長駆して進んだ。張翼と董厥がようやく漢寿に着いたころ、姜維と廖化も陰平を捨てて退き、ちょうど張翼・董厥と合流し、みな剣閣に退いて守り、鍾会を防いだ。

月餘,維為鄧艾所摧,還住陰平。鍾會攻圍漢、樂二城,遣別將進攻關口,蔣舒開城出降,傅僉格鬥而死。1會攻樂城,不能克。聞關口已下,長驅而前,翼、厥甫至漢壽,維、化亦捨陰平而退。適與翼、厥合,皆退保劍閣以拒會。

裴松之注(1)

1漢晉春秋曰:蔣舒將出降,乃詭謂傅僉曰:“今賊至不擊而閉城自守,非良圖也。”僉曰:“受命保城,惟全爲功,今違命出戰,若喪師負國,死無益矣。”舒曰:“子以保城獲全爲功,我以出戰克敵爲功,請各行其志。”遂率衆出。僉謂其戰也,至陰平,以降胡烈。烈乘虛襲城,僉格斗而死,魏人義之。蜀記曰:蔣舒爲武興督,在事無稱。蜀命人代之,因留舒助漢中守。舒恨,故開城出降。

鍾会は姜維に書を送って言った。「公侯は文武の徳をもって、世に抜きんでた謀略を抱き、功は巴・漢を救い、名声は華夏に響きわたり、遠近でその名に帰服しない者はありません。昔を思うたびに、かつてはともに同じ教化の下にありました。呉の季札と鄭の子産の交わりこそ、このよしみをたとえることができましょう。」姜維は返書せず、陣営を連ねて険要を守った。鍾会は勝てず、糧秣の輸送も遠く隔たっていたので、帰還を議しようとしていた。ところが鄧艾が陰平から景谷道を通って脇から入り、ついに綿竹で諸葛瞻を破った。

會與維書曰:「公侯以文武之德,懷邁世之略,功濟巴、漢、聲暢華夏,遠近莫不歸名。每惟疇昔,嘗同大化,吳札、鄭喬,能喻斯好。」維不答書,列營守險。會不能克,糧運縣遠,將議還歸。而鄧艾自陰平由景谷道傍入,遂破諸葛瞻於綿竹。

後主が鄧艾に降伏を請うと、鄧艾は進んで成都を占拠した。姜維らは初め諸葛瞻が敗れたと聞き、ある者は後主が成都を固守しようとしていると聞き、ある者は東の呉に入ろうとしていると聞き、ある者は南の建寧に入ろうとしていると聞いた。そこで軍を率いて広漢・郪の道を通り、事の虚実を確かめようとした。まもなく後主の勅令を受けて、戈を投げ鎧を脱ぎ、涪の鍾会の軍門に赴いた。将士はみな怒り、刀を抜いて石を斬りつけた。

後主請降於艾,艾前據成都。維等初聞瞻破,或聞後主欲固守成都,或聞欲東入吳,或聞欲南入建寧。於是引軍由廣漢、郪道以審虛實。尋被後主敕令乃投戈放甲,詣會於涪軍前,將士咸怒,拔刀斫石。1

裴松之注(1)

1干寶《晉紀》云:會謂維曰;“來何遲也?”維正色流涕曰:“今日見此爲速矣!”會甚奇之。

鍾会は姜維らを厚遇し、みなに印綬・称号・節・車蓋を仮に返した。鍾会は姜維と、出かけるときは同じ車に乗り、座るときは同じ席につき、長史の杜預に言った。「伯約を中原の名士と比べれば、公休や太初も勝てまい。」鍾会は鄧艾を陥れ、鄧艾が檻車で召還されると、そのまま姜維らを連れて成都に行き、自ら益州牧と称して叛いた。姜維に兵五万人を授けて先鋒にしようとした。魏の将兵は憤激して蜂起し、鍾会と姜維を殺し、姜維の妻子もみな誅殺された。

會厚待維等,皆權還其印號節蓋。會與維出則同輿,坐則同席,謂長史杜預曰:「以伯約比中土名士,公休、太初不能勝也。」1會既構鄧艾,艾檻車征,因將維等詣成都,自稱益州牧以叛。2欲授維兵五萬人,使為前驅。魏將士憤發,殺會及維,維妻子皆伏誅。3

裴松之注(3)

1《世語》曰:時蜀官屬皆天下英俊,無出維右。

2○《漢晉春秋》曰:會陰懷異圖,維見而知其心,謂可構成擾亂以圖克復也,乃詭說會曰:「聞君自淮南已來,算無遺策,晉道克昌,皆君之力。今復定蜀,威德振世,民高其功,主畏其謀,欲以此安歸乎!夫韓信不背漢於擾攘,以見疑於既平,大夫種不從范蠡於五湖,卒伏劍而妄死,彼豈闇主愚臣哉?利害使之然也。今君大功既立,大德已著,何不法陶朱公泛舟絕跡,全功保身,登峨嵋之嶺,而從赤松游乎?」會曰:「君言遠矣,我不能行,且為今之道,或未盡於此也。」維曰:「其他則君智力之所能,無煩於老夫矣。」由是情好歡甚。○《華陽國志》曰:維教會誅北來諸將,既死,徐欲殺會,盡坑魏兵,還復蜀祚,密書與後主曰:「原陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。」○孫盛《晉陽秋》曰:盛以永和初從安西將軍平蜀,見諸故老,及姜維既降之後密與劉禪表疏,說欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土,會事不捷,遂至泯滅,蜀人於今傷之。盛以為古人云,非所困而困焉名必辱,非所據而據焉身必危,既辱且危,死其將至,其姜維之謂乎!鄧艾之入江由,士眾鮮少,維進不能奮節綿竹之下,退不能總帥五將,擁衛蜀主,思後圖之計,而乃反覆於逆順之間,希違情於難冀之會,以衰弱之國,而屢觀兵於三秦,已滅之邦,冀理外之奇舉,不亦闇哉!○臣松之以為盛之譏維,又為不當。於時鍾會大眾既造劍閣,維與諸將列營守險,會不得進,已議還計,全蜀之功,幾乎立矣。但鄧艾詭道傍入,出於其後,諸葛瞻既敗,成都自潰。維若回軍救內,則會乘其背。當時之勢,焉得兩濟?而責維不能奮節綿竹,擁衛蜀主,非其理也。會欲盡坑魏將以舉大事,授維重兵,使為前驅。若令魏將皆死,兵事在維手,殺會復蜀,不為難矣。夫功成理外,然後為奇,不可以事有差牙,而抑謂不然。設使田單之計,邂逅不會,復可謂之愚闇哉!

3《世語》曰:維死時見剖,膽如(斗)大。

郤正は論を著して姜維を論じた。「姜伯約は上将の重任を担い、群臣の上位にいた。しかし住まいは粗末で、財産に余りはなく、側室には妾を置く淫らさはなく、奥向きには音楽の楽しみもなかった。衣服は用に足るだけ、車馬は備わるだけを取り、飲食は節度があって、贅沢でもなく吝嗇でもなく、官から支給される費用は手に入るそばから使い尽くした。そうした理由を考えてみると、貪欲な者を奮い立たせ濁った者を戒めるために、感情を抑えて自ら断ち切ったのではない。

郤正著論論維曰:「姜伯約據上將之重,處群臣之右。宅舍弊薄,資財無餘,側室無妾媵之褻,後庭無聲樂之娛。衣服取供,輿馬取備,飲食節制,不奢不約,官給費用,隨手消盡;察其所以然者,非以激貪厲濁,抑情自割也。

ただこれで足りると思い、多くを求めなかったのである。およそ世人の話は、常に成功した者をほめて失敗した者をそしり、高い者を持ち上げて低い者を抑える。みな、姜維が身の置きどころを誤り、身は死に一族は滅んだとして、これによって貶め、改めて吟味しようとしない。これは『春秋』の褒貶の義とは異なる。姜維のように学を楽しんで倦まず、清廉質素で節約したことは、おのずから一時代の模範である。」姜維がかつてともに蜀に来た者のうち、梁緒は官が大鴻臚に至り、尹賞は執金吾、梁虔は大長秋となったが、みな蜀の滅亡より先に世を去った。

直謂如是為足,不在多求。凡人之談,常譽成毀敗,扶高抑下,咸以姜維投厝無所,身死宗滅,以是貶削,不復料擿,異乎《春秋》褒貶之義矣。如姜維之樂學不倦,清素節約,自一時之儀表也。」1維昔所俱至蜀,梁緒官至大鴻臚,尹賞執金吾,梁虔大長秋,皆先蜀亡沒。

裴松之注(1)

1孫盛曰:異哉郤氏之論也!夫士雖百行,操業萬殊,至於忠孝義節,百行之冠冕也。姜維策名魏室,而外奔蜀朝,違君徇利,不可謂忠;捐親苟免,不可謂孝;害加舊邦,不可謂義;敗不死難,不可謂節;且德政未敷而疲民以逞,居禦侮之任而致敵喪守,於夫智勇,莫可云也:凡斯六者,維無一焉。實有魏之逋臣,亡國之亂相,而云人之儀表,斯亦惑矣。縱維好書而微自藻潔,豈異夫盜者分財之義,而程、鄭降階之善也?臣松之以為郤正此論,取其可稱,不謂維始終行事皆可準則也。所云「一時儀表」,止在好學與儉素耳。本傳及魏略皆云維本無叛心,以急逼歸蜀。盛相譏貶,惟可責其背母。餘既過苦,又非所以難郤正也。

評

評價

評に曰く:蒋琬は方正で整然として威厳と重みがあり、費禕は寛大で人を救い、博く愛した。ともに諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、それに従って改めなかったので、辺境に憂いはなく、国家は和合して一つにまとまった。しかしなお、小国を治める宜しさと、静かに保つ道理を尽くしてはいなかった。姜維はあらまし文武を備え、功名を立てることを志したが、兵衆をもてあそび軍旅をけがし、明断が行き届かず、ついに身を滅ぼすに至った。老子に「大国を治めるのは小魚を煮るようなものだ」とある。まして取るに足らぬ小国を、どうしてたびたび騒がせてよいであろうか。

評曰:蔣琬方整有威重,費禕寬濟而博愛,咸承諸葛之成規,因循而不革,是以邊境無虞,邦家和一,然猶未盡治小之宜,居靜之理也。1姜維粗有文武,志立功名,而玩眾黷旅,明斷不周,終致隕斃。老子有云:「治大國者猶烹小鮮。」況於區區蕞爾,而可屢擾乎哉?2

裴松之注(2)

1臣松之以為蔣、費為相,克遵畫一,未嘗徇功妄動,有所虧喪,外卻駱谷之師,內保寧緝之實,治小之宜,居靜之理,何以過於此哉!今譏其未盡而不著其事,故使覽者不知所謂也。

2干寶曰:姜維為蜀相,國亡主辱弗之死,而死於鍾會之亂,惜哉!非死之難,處死之難也。是以古之烈士,見危授命,投節如歸,非不愛死也,固知命之不長而懼不得其所也。

日本語現代語訳 — 3KDEX訳(検収前) · 原文:ウィキソース本『三國志』(繁体字、裴松之注を含む) · 裴松之注は原文のみ掲載(翻訳なし)。