演義の場面

姜維背水破大敵

事件紹介

この場面は演義第110回の回目「姜維背水破大敵」の場面で、狄道の戦いにおいて姜維が洮水を背に陣を敷いて魏の雍州刺史王経を大いに破り、狄道城を包囲したが、陳泰・鄧艾の救援軍に阻まれて退くくだりである。演義は、司馬師が死んだ年に姜維が張翼の反対を退け、5万で枹罕へ向けて出陣したという。 演義 第110回 §30–31 · 34–37 · 41–43

陳寿はこの戦いを蜀書巻14姜維伝・巻3後主伝・巻15張翼の伝と魏書巻22陳泰の記事、巻4三少帝紀に記した。後主伝は、延熙18年(255)夏に姜維が狄道に出て洮水の西で王経を大いに破り、王経が狄道城を守ると姜維は退いて鍾題に留まったという。 正史 蜀書 巻14 §37正史 蜀書 巻3 §35正史 蜀書 巻15 §15–16正史 魏書 巻22 §43–50正史 魏書 巻4 §57–58

演義の描写

演義第110回で姜維は、司馬師が死に司馬昭が権力を握ったばかりなので洛陽を離れられないだろうとして出兵を願う。漢中で張翼は蜀の地は狭く銭と糧食が乏しいと止めるが、姜維は丞相の遺命を継がねばならないと言い、夏侯覇は軽騎で枹罕に出て洮水の西と南安を得ようと言う。姜維が5万で枹罕へ向けて進むと、雍州刺史王経が騎兵・歩兵7万で迎え撃ちに来る。 演義 第110回 §30–34

姜維は張翼と夏侯覇に計を授けて送り出した後、自ら洮水を背に陣を敷く。王経は蜀軍は水を背にしているので負ければみな溺れ死ぬだろうとして四人の将を出し、姜維が数合で逃げると大軍で追う。水辺に至った姜維が「事は急だ!」と叫ぶと将兵は向き直って攻め返し、張翼と夏侯覇が魏軍の背後に回って囲んだので、洮水に落ちた者は数知れず、斬った首は1万余に及ぶ。王経は騎兵百で狄道城へ逃げ込み、門を閉ざして守る。 演義 第110回 §34–37

張翼は蛇を描いて足を添えるようなものだと止めたが、姜維は狄道城を囲んで八方から攻める。陳泰を助けに来た兗州刺史鄧艾は、姜維が羌人を集めて関隴を争わず堅固な狄道城を狙っているので、項嶺に兵を展開すれば勝てると言い、陳泰は旗や太鼓、烽火を携えた二十隊を狄道城の東南の山の谷間に伏せておく。数日攻めても城が落ちないうちに陳泰・鄧艾の二路の軍が来て四方で火の光と太鼓の音が起こると、姜維は鄧艾の計にはまったとして狄道を捨てて退き、剣閣に入って初めてそれが偽りだったと知って鍾提に駐屯する。 演義 第110回 §38–43

演義と異なる点

洮水の西の戦い:演義第110回では姜維がわざと洮水を背に陣を敷いて王経を誘い出し、斬った首は1万余である。正史陳泰の記事では、陳泰が王経に狄道に駐屯して本軍を待てと命じたが、王経は故関で不利になると勝手に洮水を渡り、姜維に大敗して1万余人で狄道城に戻った。姜維伝は王経の軍勢のうち死者は数万とし、三少帝紀の詔は死んだ将兵は数千とする。 演義 第110回 §34–37正史 魏書 巻22 §43正史 蜀書 巻14 §37正史 魏書 巻4 §58

救援の計略:演義第110回では鄧艾が計略を出し、陳泰が烽火と太鼓を携えた部隊を狄道の東南の山に伏せておく。正史陳泰の記事では、鄧艾らが険しい所を守って敵が疲れるのを待とうと言ったが、陳泰は速やかに進むべきだとして高城嶺を越え、夜に狄道の東南の高い山の上で烽火を多く上げ、太鼓と角笛を鳴らした。 演義 第110回 §39–40正史 魏書 巻22 §44–49

姜維の撤退:演義第110回で姜維は戦わずに狄道を捨てて退き、剣閣に入って初めて偽りの軍勢だったと知る。正史陳泰の記事では、陳泰が南の道を行くふりをすると姜維は三日間伏兵を置き、陳泰が南に出ると姜維は山沿いに突進して交戦した後に退き、陳泰が王経と退路を攻めることを約すと姜維は逃げ去った。 演義 第110回 §42–43正史 魏書 巻22 §50

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (5)