陳泰

正史演義 魏 字 玄伯 Chen TaiXuanbo진태현백陈泰

プロフィール
職業正演武将 · 征西将軍所属魏
登場正演収録魏書
出生正? 推定出身地潁川郡 許昌県 推定
死去正260年 推定死去地
実在実在言及正32回

人物紹介

陳泰は字を玄伯といい、魏の司空陳群の子である。青龍4年(236)に父が死ぬと跡を継ぎ、并州刺史を経て嘉平の初めに雍州刺史となり、郭淮とともに麴山の蜀軍を降伏させた。 正史 魏書 巻22 §36 · 38–41

郭淮の死後、征西将軍・都督雍涼諸軍事となり、正元2年(255)、姜維に大敗して狄道城に閉じ込められた雍州刺史王経を救った。のちに朝廷に戻って尚書左僕射に昇り、景元元年(260)に死去して司空を追贈された。 正史 魏書 巻22 §42–50 · 54 · 56正史 魏書 巻4 §57

正史を著した陳寿は評で、彼を「度量が広く事をよくなし遂げ、簡明で行き届いており、まことに家業を継ぐにふさわしい」とした。演義には第107回に初めて登場し、全120回のうち5回に登場するが、回目に名が挙がる回はない。第114回では、曹髦の死後、賈充を斬るよう司馬昭に言う。 正史 魏書 巻22 §108演義 第107回 §9演義 第114回 §15–16

正史の記録

陳泰は字を玄伯といい、司空陳群の子である。陳群が青龍4年(236)に死ぬと陳泰が跡を継ぎ、明帝は陳群の功徳を追憶してその食邑を分け、子の一人を列侯に封じた。陳泰は青龍年間に散騎侍郎となった。 正史 魏書 巻22 §36 · 38

正始年間に遊撃将軍に移って并州刺史となり、振威将軍を加えられ、使持節・護匈奴中郎将となった。異民族の民を懐柔し、威厳と恩恵が大いにあった。都の貴人たちが宝物を預けて陳泰を通じて奴婢を買おうとすると、陳泰はそれをすべて壁に掛けたまま封を切らず、尚書として召されるとすべて返した。 正史 魏書 巻22 §38

嘉平元年(249)正月、司馬宣王が大将軍曹爽を免職させたとき、尚書の陳泰は侍中許允とともに、曹爽に早く自ら罪を認めるよう説いた。曹爽は二人を司馬宣王のもとに遣わして罪を謝し、死を請うた。 正史 魏書 巻4 §28正史 魏書 巻9 §85

嘉平の初めに郭淮に代わって雍州刺史となり、奮威将軍を加えられた。蜀の姜維が麴山に二つの城を築いて句安・李歆らに守らせると、陳泰は、麴城は蜀から遠く兵糧を運ばねばならず、羌族は姜維の労役に苦しんで従わないであろうから、包囲すれば刃に血を塗らずに落とせると述べた。郭淮はこの策に従って陳泰に徐質・鄧艾らを率いて城を包囲させ、陳泰は補給路と城外の水を断った。句安らは雪を集めて日をしのいだ。 正史 魏書 巻22 §38–40

姜維が救援に牛頭山へ出てくると、陳泰は、戦わずに屈服させることこそ兵法の尊ぶところだとして、諸軍に塁を守らせるだけにした。そして、自分は白水を渡って川沿いに東へ進み、郭淮は牛頭山へ向かって退路を断てば、姜維まで捕らえられると知らせた。郭淮が洮水に進むと姜維は恐れて逃げ、孤立した句安らはみな降伏した。郭淮伝はこれを、嘉平元年に郭淮が雍州刺史陳泰と計略を合わせて成し遂げたこととして記す。 正史 魏書 巻22 §40–41正史 魏書 巻26 §77

姜維伝によれば、蜀の延熙16年(253)に姜維が南安を包囲すると、雍州刺史陳泰が包囲を解こうと洛門まで来て、姜維は兵糧が尽きて退いた。郭淮の死後、陳泰は征西将軍・仮節・都督雍涼諸軍事となった。 正史 蜀書 巻14 §36正史 魏書 巻22 §42正史 魏書 巻26 §78

雍州刺史王経が、姜維と夏侯覇が三つの道から出てくるとして軍を分けて送ることを求めると、陳泰は、敵は三つの道から出てくることはできず、軍勢は分けることを忌むとして、敵の向かう先を知り、東西の軍勢が合わさってから進むよう答えた。正元2年(255)8月、姜維が数万人で狄道に向かうと、陳泰は王経に狄道にとどまって本軍を待たせ、自らは陳倉に進んだ。しかし王経は故関で不利になると勝手に洮水を渡り、姜維に大敗して、一万余人だけを率いて狄道城に戻って守った。 正史 魏書 巻22 §42–43正史 魏書 巻4 §57

陳泰が上邽に駐屯すると、鄧艾・胡奮・王祕が到着した。鄧艾らは、勝ちに乗じた敵には当たれないので、要害を分けて守り、敵が疲れるのを待ってから救援しようと言った。陳泰は、姜維は高い城の下でくじけつつあり、孤立した軍で兵糧が続かないのだから、いまこそ速やかに進んで破るときであり、高所に登ってうなじを見下ろせば戦わずとも逃げるだろうと反論した。 正史 魏書 巻22 §44–48

陳泰は高城嶺を越えてひそかに進み、夜に狄道の東南の高い山に着いて、多くの烽火を上げ、太鼓と角笛を鳴らした。城中の将兵は救援軍を見てみな奮い立った。陳泰が南の道を行くふりをすると、姜維は三日間伏兵を置いたが、陳泰の軍はひそかにその南に出た。姜維が山沿いに突進してくると陳泰は迎え撃って退け、王経とともに退路に向かう約束をすると、姜維は逃げて鍾提にとどまった。王経は、兵糧は十日分も残っておらず、救援が遅れていれば城中が皆殺しにされ、一州を失っていただろうと嘆いた。 正史 魏書 巻22 §49–50正史 蜀書 巻14 §37

朝廷の大勢は大軍が四方から集まるのを待ってから討とうという意見だったが、大将軍司馬文王は、征西将軍が急いで救援したのが上策だと言った。陳泰は、一地方に事が起こるたびに虚報で天下が揺れると考え、上に報告することを少なく簡略にしていた。司馬文王は荀顗に「玄伯は沈着で勇敢、決断力がある」と言い、兵の増援を求めずに陥落寸前の城を救ったのは、都督や大将がまさになすべきことだと述べた。 正史 魏書 巻22 §52–53

のちに召されて尚書右僕射となり、人材の選挙を司り、侍中・光禄大夫を加えられた。呉の大将孫峻が淮水・泗水方面に出てくると、鎮軍将軍・仮節・都督淮北諸軍事となり、孫峻が退くと左僕射に移った。諸葛誕が寿春で反乱を起こし、司馬文王が丘頭に駐屯したときには行台を総括した。司馬景王・司馬文王の兄弟はともに陳泰の親しい友であった。司馬文王が父と比べてどうかと尋ねると、武陔は、天下の教化を自らの責任とする点では父に及ばないが、功を立て事を成し遂げる点では父にまさると答えた。 正史 魏書 巻22 §54–55

陳泰は前後の功によって食邑2600戸を加増された。景元元年(260)に死去して司空を追贈され、穆侯と諡された。子の陳恂が跡を継いだが跡継ぎなく死に、弟の陳温が封爵を継いだ。陳寿は評で、陳泰は度量が広く事をよくなし遂げ、簡明で行き届いており、まことに家業を継ぐにふさわしいとした。 正史 魏書 巻22 §55–56 · 108

演義の描写

演義第107回で司馬懿が曹爽を討つとき、陳泰は侍中許允とともに曹爽のもとへ行き、太傅は兵権を取り上げようとしているだけだから城内に戻るよう勧め、まず印綬を司馬懿に差し出させる。同じ回で郭淮が夏侯覇に押されると、背後から兵を率いて攻め込み、夏侯覇を大敗させる。 演義 第107回 §9 · 16 · 19 · 33

同じ回の秋8月、陳泰は雍州刺史郭淮の部将として兵5万を率いて麴山の二城を包囲し、漢中から来る兵糧の道を断つ。李歆が城を抜け出すと、姜維が牛頭山を回って背後を突くと見抜き、郭淮に洮水を押さえさせて自らは牛頭山へ向かう。牛頭山で姜維と戦って三合も経ずに敗れ、山頂に退くが、郭淮が兵糧の道を断つと、軍を五手に分けて退く姜維を追う。 演義 第107回 §42–43 · 49–51 · 53

第109回では、姜維と手を結んだ羌王迷当の軍を破るため、郭淮を恨んで降ると称して羌兵の陣営に入る。羌兵を率いて魏の陣営を襲うふりをして俄何焼戈を落とし穴に陥れ、郭淮とともに迷当を生け捕りにする。 演義 第109回 §16–18

第110回で王経が姜維に敗れると、征西将軍陳泰は兵を率いて来た鄧艾に計略を尋ね、項嶺に兵を布こうという彼の言葉を「まことに妙論である」として従い、旗・太鼓・烽火を持たせた兵を狄道城東南の高い山と深い谷に潜ませる。第111回では鄧艾の功を魏主曹髦に上奏して彼を安西将軍に昇らせ、蜀軍が再び出てくる五つの理由を聞くと感服して忘年の交わりを結ぶ。鄧艾が武城山へ向かうと、陳泰は祁山の蜀の陣営を攻め、退く姜維の前に立ちはだかる。 演義 第110回 §39–41演義 第111回 §1–2 · 4 · 13 · 20

第114回で、曹髦の死後に司馬昭が臣下を集めると、尚書僕射陳泰だけが来ない。司馬昭が陳泰の母方の叔父荀顗を遣わして呼ぶと、陳泰は、世の人は自分を叔父になぞらえてきたが、いま見れば叔父は自分に及ばないと言って大いに泣く。喪服を着て入って哭したのち、どう処置するかという司馬昭の問いに、賈充一人を斬ってこそいくらかでも天下に謝することができると答え、それより下の策は知らないと言う。 演義 第114回 §15–16

演義と異なる点

麴山の戦いでの地位:演義第107回では郭淮が雍州刺史で、陳泰はその部将である。正史では陳泰が郭淮に代わって雍州刺史となり、郭淮は征西将軍・都督雍涼諸軍事であった。 演義 第107回 §42正史 魏書 巻22 §38正史 魏書 巻26 §77

麴山の計略:演義第107回では城の水の上流を断つ計略は郭淮のもので、陳泰は牛頭山で姜維と戦って三合も経ずに敗れる。正史では、城を包囲して補給路と城外の水を断つ計略を陳泰が出して郭淮が従い、陳泰は牛頭山で姜維と対峙したが戦わず、郭淮に退路を断たせて姜維を逃げさせた。 演義 第107回 §43 · 51正史 魏書 巻22 §39–41

夏侯覇:演義第107回で陳泰は郭淮とともに夏侯覇を攻め、蜀へ逃げさせる。正史の陳泰伝にはこのことはなく、後主伝は曹爽が誅殺されると夏侯覇が投降してきたと記すだけである。 演義 第107回 §33正史 魏書 巻22 §37–56正史 蜀書 巻3 §29

羌族との戦い:演義第109回で陳泰は偽りの降伏で羌兵を罠にかけ、迷当を生け捕りにする。正史の陳泰伝にはこのことはない。姜維伝は、延熙16年(253)に南安を包囲した姜維が、陳泰が洛門まで来ると兵糧が尽きて退いたと記す。 演義 第109回 §17–18正史 魏書 巻22 §37–56正史 蜀書 巻14 §36

狄道救援の計略:演義第110回では鄧艾が項嶺に兵を布く計略を出し、陳泰がそれに従って山あいに旗と太鼓を持たせた兵を潜ませる。正史では鄧艾らが要害を守って待とうと言い、陳泰がこれを退けて進み、夜に山上で烽火を上げ太鼓を鳴らした。 演義 第110回 §40正史 魏書 巻22 §44–49

鄧艾の昇進:演義第111回では陳泰が鄧艾の功を上奏し、鄧艾が安西将軍となる。正史の三少帝紀では、朝廷が長水校尉鄧艾に安西将軍の職務を代行させて陳泰と力を合わせさせ、鄧艾伝は狄道の包囲を解いたのちに彼を安西将軍としたと記す。陳泰が上奏したという話はない。 演義 第111回 §1正史 魏書 巻4 §57正史 魏書 巻28 §63

五つの理由:演義第111回では鄧艾が陳泰に、蜀軍が再び出てくる五つの理由を語る。正史の鄧艾伝では、議論する者の多くが姜維は再び出てこられないと言うと鄧艾が五つの理由を挙げたのであり、陳泰の名は出てこない。 演義 第111回 §2正史 魏書 巻28 §63–64

祁山と段谷:演義第111回で陳泰は祁山の蜀の陣営を破り、逃げる姜維の前に立ちはだかる。正史の鄧艾伝と姜維伝は段谷で姜維を破った者を鄧艾とだけ記し、陳泰伝にはこの戦いがない。 演義 第111回 §20正史 魏書 巻28 §65正史 蜀書 巻14 §38正史 魏書 巻22 §37–56

曹髦の死:演義第114回で陳泰は喪服を着て入り、賈充を斬るよう言う。正史の陳泰伝の陳寿の本文にはこのことはなく、景元元年(260)に死去して司空を追贈されたと記すだけである。荀顗も陳泰伝では、司馬文王が陳泰を称える言葉を聞いた人物として出てくるだけで、母方の叔父だという話はない。 演義 第114回 §15–16正史 魏書 巻22 §53 · 56

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率8470−14
  • 武力4545±0
  • 知力8268−14
  • 政治7038−32
  • 魅力6645−21
  • 徳8288+6
  • 処世7050−20
  • 文芸4535−10
  • 弁舌4555+10
  • 用人5252±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

魅力正66演45推定 −21

正異民族への威厳と恩恵が非常に大きく、城中の将兵が奮い立った魏書 巻22 §38魏書 巻22 §49

演直接の記録なし — 鄧艾との忘年の交わりから推定第111回 §4

処世正70演50 −20

正司馬昭:沈着で勇敢、決断力がある。兵の増援を求めなかった魏書 巻22 §53

演司馬昭の前で引き下がらず、保身より義を選んだ第114回 §16

文芸・学術正45推定演35推定 −10

正直接の記録なし — 高雅さでは父に及ばないという評から推定魏書 巻22 §55

演直接の記録なし — 推定第114回 §15

近い項目 3件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(5回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻22 「尚書右僕射陳泰」

家族

父母陳群 正史
子陳温 推定 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(7)

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