正直接の記録なし — 賈逵の跡を継いだ記録程度魏書 巻15 §84
賈充
人物紹介
賈充は魏の豫州刺史賈逵の子で、父が死ぬと跡を継いだ。正史の陳寿の本文には独立した伝がなく、賈逵伝の末尾に「咸熙年間に中護軍となった」という一行があるだけである。 正史 魏書 巻15 §76 · 84 · 86–87
咸熙元年(264)正月に鄧艾を檻車で召還する際、司馬昭は中護軍賈充に歩兵・騎兵一万を与えて斜谷に入らせ、楽城に駐屯させた。天紀3年(279)冬に晋が呉を攻めたときには、晋の太尉として大都督となった。彼の生年と没年は陳寿の本文にない。 正史 魏書 巻4 §128正史 魏書 巻28 §121 · 123正史 呉書 巻3 §74 · 78
演義では第111回に司馬昭の腹心として初めて登場し、全120回のうち6回に登場するが、回目に名が載る回はない。第114回では禁軍を率いて出て、成済に魏主曹髦を殺させ、第119回では司馬炎が曹奐から禅譲を受ける受禅台の儀式を先頭に立って取り仕切る。 演義 第111回 §24演義 第114回 §12–13演義 第119回 §41 · 43
正史の記録
賈充は賈逵の子である。賈逵は河東郡襄陵県の人で、豫州刺史であったとき文帝から「真の刺史」と言われ、病が重くなって死ぬと粛侯と諡された。子の賈充が跡を継いだ。陳寿は賈逵伝の末尾に子賈充の項目を設けたが、その内容は「咸熙年間に中護軍となった」という一行だけである。 正史 魏書 巻15 §68 · 76–77 · 84 · 86–87
蜀が平定されたのち、鍾会が鄧艾に謀反の形跡があるとひそかに上奏し、咸熙元年(264)正月、詔によって鄧艾を檻車に載せて召還することになった。司馬昭は鄧艾が命に従わないことを恐れて鍾会に書簡を送り、「中護軍賈充に歩騎一万を率いさせてまっすぐ斜谷に入り楽城に駐屯させた。私は自ら十万を率いて長安に駐屯する。相見える日は近い」と言った。鍾会は書簡を受け取って驚き、司馬昭は自分の異心に気づいたのだから急いで事を起こさねばならないと言った。 正史 魏書 巻4 §128正史 魏書 巻28 §121 · 123
司馬昭が西へ向かおうとすると、邵悌は鍾会に鄧艾を捕らえさせればよく、自ら行く必要はないと言った。司馬昭はこの言葉を広めるなと言い、「先日賈護軍が私に鍾会を少しでも疑っているかと尋ねたので、今あなたを派遣するのに、どうしてあなたまで疑えようかと答えたところ、賈護軍も私の言葉に何も言い返せなかった」と語った。軍が長安に着いたとき、鍾会はすでに死んでいた。 正史 魏書 巻28 §134–135
天紀3年(279)冬、晋は司馬伷を涂中へ、王渾と周浚を牛渚へ、杜預を江陵へ向かわせ、王濬と唐彬には長江に沿って東へ下らせるなど、複数の道から呉を攻めた。このとき太尉賈充を大都督とし、状況に応じて要地に陣取り、全軍勢の中央に位置させた。 正史 呉書 巻3 §74 · 78
演義の描写
演義第111回で賈充は司馬昭の腹心として登場する。姓は賈、名は充、字は公閭で、亡き建威将軍賈逵の子であり、司馬昭の府中で長史を務めている。彼は軍を慰労するという名目で淮南へ行き、酒席で諸葛誕に、司馬大将軍の家が魏の大統の禅譲を受けるにふさわしいと探りを入れる。諸葛誕が「お前は賈豫州の子で、代々魏の禄を食んできた」と叱りつけると、他人の言葉を伝えただけだと引き下がり、帰ってからは諸葛誕を早く除くべきだと言う。諸葛誕が挙兵すると、太后と天子をともに出征させるよう勧める。 演義 第111回 §24–27 · 33
第114回で曹髦の作った潜龍の詩を聞いて司馬昭が怒ると、賈充は主公のために近いうちに事を図ると言う。曹髦が宿衛ら三百余人を率い剣を手に南闕へ出ると、賈充は軍装で馬に乗り、成倅・成済と鉄甲の禁兵数千を率いて立ち向かう。成済が「殺すべきですか、縛るべきですか」と問うと、賈充は「司馬公の命がある。死んだものだけをお望みだ」と答え、成済の戟で曹髦は死ぬ。後から追ってきて逆賊と罵る王経は縛らせる。 演義 第114回 §6 · 10 · 12–14
その後、陳泰は「賈充一人を斬ってこそ、わずかながら天下に謝することができる」と言うが、司馬昭は成済だけに罪を問うて三族を滅ぼし、成済は「賈充がお前の命を伝えたのだ」と司馬昭を罵る。賈充らは司馬昭に魏の禅譲を受けるよう勧めるが、司馬昭が周の文王の故事を挙げて辞退すると、その意が子の司馬炎にあると悟ってやめる。 演義 第114回 §16 · 22
第115回では沓中の姜維を刺客で除こうと言ったが、荀顗の反対に阻まれる。第118回では鄧艾を牽制するために鍾会を封じるよう提案し、司馬昭の命で三万の軍を率いて斜谷に入る。賈充も鍾会に変事があるのではと疑ってひそかに申し上げると、司馬昭は「もしそなたを派遣していたら、そなたも疑わねばならぬのか」と答える。第119回では鍾会と姜維が死んで十日ほどのち、賈充が先に成都に着き、高札を立てて民を安んじる。 演義 第115回 §31–32演義 第118回 §27 · 33–34演義 第119回 §22
第119回で司馬昭が司馬攸を世子に立てようとすると、賈充は何曽・裴秀とともに長男の司馬炎を立てるよう諫める。司馬炎が晋王になると、賈充は裴秀とともに曹丕が漢を継いだ故事に倣って受禅台を築くよう勧め、魏主曹奐には「天数は尽きた」として漢の献帝の故事どおりに禅譲するよう言う。12月甲子の日、賈充は裴秀とともに剣を執って壇の左右に立ち、曹奐をひれ伏させて、天命は晋にあると宣言する。 演義 第119回 §32 · 35–37 · 40–41 · 43
第120回では、呉に対して羊祜に防がせ、変事を待って攻めるべきだと言い、のちに羊祜が征伐を願い出ると強く反対する。晋軍が牛渚に勝ったのちも、張華を叱りつけて軍を呼び戻すよう主張するが、司馬炎は進軍を命じる。降伏した孫皓に、人の目をえぐり顔の皮を剥いだのはどういう刑罰かと尋ね、「臣下でありながら君主を弑した者と、邪悪で不忠な者に用いる」という答えを聞いて、黙り込んでひどく恥じ入る。 演義 第120回 §10 · 22 · 49–50 · 59–60
演義と異なる点
最初の地位:演義第111回で賈充は司馬昭の府中の長史として初めて登場する。陳寿の本文が賈充に付けた官職は咸熙年間の中護軍と晋の太尉だけで、司馬昭の長史であったという記録はない。 演義 第111回 §24正史 魏書 巻15 §86–87正史 魏書 巻28 §123正史 呉書 巻3 §78
諸葛誕を探ったこと:演義第111回では賈充が淮南で諸葛誕を探って戻り、除くべきだと言ったので、司馬昭は諸葛誕を司空として召す。正史の諸葛誕伝では、朝廷が諸葛誕の疑心をうすうす察知し、旧臣であるので召し入れて内心を推し量ろうと、甘露2年(257)5月に司空として召した。賈充は登場しない。 演義 第111回 §26–28正史 魏書 巻28 §34–35
曹髦の死:演義第114回では賈充が禁軍を率いて成済に曹髦を殺せと言う。正史の魏書巻4は甘露5年(260)5月己丑の日に高貴郷公が死んだと記し、司馬昭の上奏文は、太子舎人成済がみだりに兵陣に突入して公を害したとして、彼を軍法で処断したと述べる。陳寿の本文には賈充の名はない。 演義 第114回 §12–13正史 魏書 巻4 §97–98 · 107
陳泰の言葉:演義第114回で陳泰は賈充を斬ってこそ天下に謝することができると言い、成済は賈充が命を伝えたと叫ぶ。正史の魏書巻4には、司馬昭が成済の家族を捕らえて廷尉に引き渡し罪を裁かせたという上奏があるだけで、これらの言葉はない。 演義 第114回 §16正史 魏書 巻4 §107–109
蜀へ率いた軍:演義第118回で賈充は三万の軍を率いて斜谷に入る。正史の司馬昭の書簡では、歩騎一万を率いて斜谷に入り楽城に駐屯させたとある。演義第119回で賈充が先に成都に着いて民を安んじる話は陳寿の本文にない。 演義 第118回 §33演義 第119回 §22正史 魏書 巻28 §123 · 135
禅譲の儀式:演義第119回では賈充が受禅台を築き、壇上で天命は晋にあると宣言する。正史の魏書巻4は、咸熙2年(265)12月壬戌の日に南郊に壇を設けさせ、使者を遣わして璽綬と冊書を奉じて晋の嗣王に禅位したと記すのみで、賈充は登場しない。 演義 第119回 §41 · 43正史 魏書 巻4 §145 · 150
呉の征伐:演義第120回で賈充は征伐を阻み、牛渚に勝ったのちも軍を呼び戻すよう主張する。正史の三嗣主伝では、天紀3年(279)冬に晋が複数の道から呉を攻めたとき、太尉賈充が大都督となって全軍勢の中央に位置した。賈充が征伐に反対したという話は陳寿の本文にない。 演義 第120回 §22 · 49–50正史 呉書 巻3 §74 · 78
孫皓との問答:演義第120回で賈充は孫皓の刑罰について問い、君主を弑した者に用いるという答えに恥じ入る。正史の三嗣主伝は、孫皓が人の顔の皮を剥ぎ目をえぐったと記し、孫皓が降伏して太康元年(280)に洛陽に至り帰命侯となったことを記すが、賈充との問答はない。 演義 第120回 §59–60正史 呉書 巻3 §79–80 · 85
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5050±0
- 武力3530−5
- 知力5270+18
- 政治4550+5
- 魅力4025−15
- 徳456−39
- 処世5070+20
- 文芸4040±0
- 弁舌4045+5
- 用人4055+15
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 文王のそばでの事績から推定魏書 巻28 §135
正文王(司馬昭)に鍾会を疑っているかと尋ねた魏書 巻28 §135
正直接の記録なし魏書 巻15 §87
演陳泰が賈充を斬ってこそ天下に謝せると言った第114回 §16
正直接の記録なし魏書 巻15 §87
演司馬炎は聡明神武で人臣となる相ではないと諫めた第119回 §32
近い項目 5件 — 根拠を見る
正歩騎一万を率いて斜谷に入り、呉征伐で大都督となった魏書 巻28 §123呉書 巻3 §78
正直接の記録なし — 中護軍の職から推定魏書 巻15 §87
演直接の記録なし — 禁軍を率いた記録程度第114回 §12
正直接の記録なし — 中護軍の職から推定魏書 巻15 §87
演乱の収まった成都に高札を立て民を安んじた第119回 §22
正直接の記録なし魏書 巻15 §87
演直接の記録なし — 禅譲の儀式を取り仕切った記録程度第119回 §43
正直接の記録なし — 文王に尋ねて言い返せなかった記録魏書 巻28 §135
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。