司馬炎
人物紹介
司馬炎は魏の禅譲を受けた晋の君主である。正史には別に伝がなく、陳寿の本文では魏書巻4三少帝紀の陳留王の記録に名が5回見える。甘露5年(260)に使持節・行中護軍・中塁将軍として常道郷公曹璜を迎えに行き、咸熙元年(264)に撫軍大将軍・新昌郷侯として晋の世子となった。 正史 魏書 巻4 §105 · 144
咸熙2年(265)8月に相国・晋王が死ぬと、翌日、晋の太子として封爵と地位を継ぎ、同年12月(西暦266年初め)、魏は晋の嗣王に禅位した。陳寿の本文はその後のことを彼の名を出さずに「晋室」と「晋」として記し、天紀4年(280)に呉の孫皓が降伏して帰命侯とされたことも晋の詔として記す。 正史 魏書 巻4 §148 · 150正史 呉書 巻3 §85
陳寿の本文は彼の字・出生・死を記さず、彼に対する評もない。演義では第114回に司馬昭が意を寄せる息子として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が見える回はない。第119回で魏主曹奐から禅譲を受けて国号を大晋とし、第120回で呉を平定し、演義は三国が晋の皇帝司馬炎に帰したと結ぶ。 正史 魏書 巻4 §152–153演義 第114回 §22演義 第119回 §45演義 第120回 §61
正史の記録
甘露5年(260)5月に高貴郷公が死んだのち、使持節・行中護軍・中塁将軍司馬炎を北に遣わして常道郷公曹璜を迎え、明帝の跡を継がせた。陳寿の本文で司馬炎の名が初めて現れる箇所である。 正史 魏書 巻4 §98 · 105
咸熙元年(264)8月庚寅の日、中撫軍司馬炎に命じて相国の事を補佐させたが、これは魯公を後継に立てた義と同じくするものであった。9月戊午の日には中撫軍から撫軍大将軍となり、10月丙午の日には撫軍大将軍・新昌郷侯として晋の世子に任じられた。 正史 魏書 巻4 §130 · 134 · 139 · 144
咸熙2年(265)5月の詔は、晋王に十二旒の冕を冠らせ、天子の旌旗を建て、金根車を六頭の馬に引かせ、王妃を王后に、世子を太子に進めた。8月辛卯の日に相国・晋王が死ぬと、翌日壬辰の日に晋の太子司馬炎が封爵を継いで位を襲い、百揆を総べ、備える物と典冊はすべて以前のとおりであった。この月、襄武県は、身の丈3丈余りの大人が現れ、民の王始を呼んで「今まさに太平となるであろう」と語ったと上言した。 正史 魏書 巻4 §146–148
9月戊午の日、司徒何曽が晋の丞相となり、癸亥の日に驃騎将軍司馬望を司徒に、征東大将軍石苞を驃騎将軍に、征南大将軍陳騫を車騎将軍とした。乙亥の日に晋の文王を葬った。 正史 魏書 巻4 §148–149
12月壬戌の日、天禄が永く終わり暦数が晋にあるとして、詔して群公卿士に儀礼を整えて南郊に壇を設けさせ、使者に皇帝の璽綬と冊を奉じさせて晋の嗣王に禅位し、漢・魏の故事のとおりにした。甲子の日に使者に策を奉じさせ、陳留王は居所を金墉城に移し、最後は鄴に留まって暮らした。陳寿は評で、陳留王が前の例にならって揖譲して禅位し、晋の賓客となったと記した。 正史 魏書 巻4 §150 · 153
陳寿の本文はこの後のことを司馬炎の名を出さずに「晋室」として記す。泰始元年(西暦266年初め)、晋室が践祚すると詔を下し、鄧艾は功を誇って節を失い、まことに死罪にあたるが、詔を受けた日に人衆を解散して帰らせ、手を縛って罪を受けたのであるから、大赦によって帰還できる今、子孫がなければ後継を立てて祭祀が絶えないようにせよとした。また何度も詔を下して蜀の譙周を送らせ、譙周は病身のまま泰始3年(267)に洛陽に至り、その場で騎都尉に任じられた。 正史 魏書 巻28 §83正史 蜀書 巻12 §76
泰始10年(274)2月、陳寿は諸葛亮の旧記録を24篇にまとめて上呈し、表の中で、先に著作郎であったとき荀勖と和嶠の上奏によってこの仕事を任されたと述べ、諸葛亮の言葉を保存して記録させたことを大晋の至徳であるとした。また陛下は敵国の誹謗の言葉までもすべて述べさせ、改めたり隠したりなさらないと記した。 正史 蜀書 巻5 §45 · 54
呉の天紀3年(279)冬、晋は鎮東大将軍司馬伷を涂中に、安東将軍王渾と揚州刺史周浚を牛渚に、建威将軍王戎を武昌に、平南将軍胡奮を夏口に、鎮南将軍杜預を江陵に向かわせ、龍驤将軍王濬と広武将軍唐彬に長江を東へ下らせ、太尉賈充を大都督として、形勢を量って要地に拠らせた。翌年3月、孫皓は王濬・司馬伷・王渾に書を送って降伏した。 正史 呉書 巻3 §78 · 83–85
孫皓は一族を挙げて西に移り、太康元年(280)5月丁亥の日に都に着いた。それに先立つ4月甲申の日に詔を下し、孫皓は窮して帰順し降伏したので、先の詔のとおり死なせず、帰命侯の号を与え、衣服・車乗、田30頃、毎年穀物5千斛、銭50万、絹5百匹、綿5百斤を与えるとした。孫皓の太子孫瑾は中郎に、王であった諸子は郎中に任じられた。陳寿は三嗣主伝の評で、孫皓は本来腰と首を断たれて百姓に謝すべきであったのに、死なせないという詔を蒙り、さらに帰命侯の寵まで加えられたのは、限りなく寛大な恩であると記した。 正史 呉書 巻3 §85–86 · 89–90
演義の描写
演義第114回で曹髦が死んだのち、賈充らが司馬昭に魏の禅譲を受けて天子の位に即くよう勧めると、司馬昭は周の文王が天下の三分の二を保ちながら殷に仕えたことを挙げて辞退する。賈充らはこれを聞いて、司馬昭が息子司馬炎に意を寄せていることを悟り、二度と勧めない。 演義 第114回 §22
第119回で司馬昭が晋王となると、演義はその長男司馬炎を、人となり魁偉で、立てば髪が地に垂れ、両手は膝を過ぎ、聡明英武で胆力は人に勝ると描く。司馬昭が兄司馬師の跡を継がせた次男司馬攸を世子に立てようとすると山涛が諫め、賈充・何曽・裴秀は長男が人臣の相ではないと言い、太尉王祥と司空荀顗も幼い子を立てれば国が乱れると諫める。司馬昭はついに司馬炎を世子に立てる。 演義 第119回 §31–33
大臣たちは、襄武県に天から降りた人が自ら「われは民王である」と名乗り、天下の主が替われば直ちに太平を見るであろうと言った事を瑞兆として奏上し、世子を太子に立てるよう請う。司馬昭は中風で言葉を失い、翌日、手で太子司馬炎を指して死ぬ。その日は8月辛卯の日であり、何曽の言に従ってその日のうちに司馬炎が晋王の位に即き、何曽を晋の丞相に、司馬望を司徒に、石苞を驃騎将軍に、陳騫を車騎将軍に封じ、父に文王の諡を贈る。 演義 第119回 §33–35
葬儀を終えた司馬炎は賈充と裴秀に、曹操が「周の文王となろう」と言ったというのは本当かと尋ね、曹丕でさえ漢の大統を継いだのに、自分がどうして魏の大統を継げないことがあろうかと言う。翌日、剣を帯びて宮中に入り、魏主曹奐に魏の天下は誰の力で得たものかと問い、才徳ある者に譲るよう言う。黄門侍郎張節が立ち向かうと、天下を得たのは司馬氏の力であり、自分は漢室のために仇を討つのだと怒り、武士を叱りつけて張節を殿下で棍棒で打ち殺させる。 演義 第119回 §35–40
曹奐は賈充の言に従って賈充に受禅壇を築かせ、12月甲子の日、自ら伝国の玉璽を捧げて壇上に立つ。司馬炎は壇に上って大礼を受け、賈充は曹奐を陳留王に封じて金墉城に出す。司馬炎は、泣いて最後まで魏に背かないと言う司馬孚を安平王に封じるが、司馬孚は受けない。司馬炎は国号を大晋、年号を泰始元年と改めて大赦し、司馬懿・司馬師・司馬昭に宣帝・景帝・文帝の諡を贈って七廟を立てたのち、毎日朝議を開いて呉を討つ策を議する。 演義 第119回 §40–45 · 47–48
第120回で司馬炎は、陸抗が襄陽をうかがっていると聞き、賈充の言に従って羊祜に詔を下して防がせる。呉を討とうという羊祜の表を見て大いに喜ぶが、賈充・荀顗・馮紞が強く不可を唱えたので実行しない。咸寧4年に入朝して郷里に帰りたいと願う羊祜に国を安んじる策を問い、同年11月に羊祜の病が重くなると自らその家に赴いて見舞い、その策を用いられなかったことを悔やみ、羊祜は杜預を推挙して死ぬ。司馬炎は大いに慟哭し、太傅と鉅平侯を追贈する。 演義 第120回 §9–10 · 21–25
司馬炎は羊祜の言に従って杜預を鎮南大将軍・都督荊州事とし、王濬の上疏を受けながらも王渾の言に従って一時兵を止めるが、杜預の表と張華の勧めで意を固め、杜預を大都督として呉を討たせる。牛渚で勝ったという知らせに賈充が軍を呼び戻そうと言うと、司馬炎は張華は自分と同じ考えだと言って進軍を命じる。呉が平定されると、司馬炎は杯を手に涙を流して羊太傅の功であると言う。洛陽の殿上で稽首した孫皓に、晋の皇帝は「朕はこの座を設けて卿を久しく待っていた」と言い、孫皓が南方でもこの座を設けて陛下をお待ちしていたと答えると大笑する。皇帝は孫皓を帰命侯に封じ、演義はここから三国が晋の皇帝司馬炎に帰し、統一の基となったと結ぶ。 演義 第120回 §28 · 30–33 · 49–50 · 57–61
演義と異なる点
世子となった経緯:演義第119回では、司馬昭が次男司馬攸を立てようとするが、山涛・賈充・何曽・裴秀・王祥・荀顗の諫言によって司馬炎を世子に立てる。正史の陳留王の記録は、咸熙元年(264)8月に中撫軍司馬炎に相国の事を補佐させ、10月に晋の世子に任じたと記すだけで、司馬攸を立てようとしたことや諫言は出てこない。 演義 第119回 §32–33正史 魏書 巻4 §130 · 144
襄武県の大人:演義第119回では、司馬昭の存命中に大臣たちが、身の丈2丈余りの人が天から降りて自ら「民王」と名乗ったと奏上する。正史では、司馬炎が位を継いだ咸熙2年(265)8月に襄武県が、身の丈3丈余りの大人が民の王始を呼んで「今まさに太平となるであろう」と語ったと上言する。 演義 第119回 §33正史 魏書 巻4 §148
冕と太子:演義第119回では、大臣たちが大人の事を挙げて、司馬昭に十二旒の冕と金根車を備え、世子を太子に立てるよう請う。正史の陳留王の記録は、咸熙2年(265)5月に晋王にこの礼を与え、世子を太子に進めたと記し、大人の事は司馬昭の死後に出てくる。 演義 第119回 §33–34正史 魏書 巻4 §146–148
晋王の位を継いだ日:演義第119回では、司馬昭が死んだ8月辛卯の日のうちに司馬炎が晋王に即き、何曽・司馬望・石苞・陳騫を封じる。正史では、辛卯の日に晋王が死に、翌日壬辰の日に司馬炎が封爵と地位を継いだのであり、何曽が晋の丞相となり司馬望・石苞・陳騫がその官に就いたのは、9月戊午の日と癸亥の日のこととして陳留王の記録に記されている。 演義 第119回 §35正史 魏書 巻4 §148–149
禅位を迫る場面:演義第119回で司馬炎は剣を帯びて宮中に入って曹奐を追い詰め、立ち向かった黄門侍郎張節を打ち殺す。正史の陳留王の記録は、12月壬戌の日に天禄が永く終わったとして詔で壇を設けて禅位したと記すだけで、この場面と張節は出てこない。 演義 第119回 §37–40正史 魏書 巻4 §148–150
禅位の儀式:演義第119回では、12月甲子の日に曹奐が自ら伝国の玉璽を捧げて壇上に立ち、司馬炎が壇に上って大礼を受ける。正史では、12月壬戌の日に詔を下して使者に皇帝の璽綬と冊を奉じさせて晋の嗣王に禅位させ、甲子の日に使者に策を奉じさせた。 演義 第119回 §41–42正史 魏書 巻4 §150
羊祜:演義第120回で司馬炎は羊祜と呉を討つことを議し、病床の羊祜を自ら見舞い、羊祜が杜預を推挙する。陳寿の本文で羊祜は呉書巻7と巻13に、西陵の歩闡を救援に出たが陸抗に阻まれて退いた晋の車騎将軍として現れるだけで、呉を討つことを議したり病床で杜預を推挙したりしたことはない。 演義 第120回 §22–25正史 呉書 巻7 §88正史 呉書 巻13 §72–75
呉征伐の大都督:演義第120回では、鎮南大将軍杜預を大都督として兵10万で江陵に出させ、司馬伷・王渾・王戎・胡奮がそれぞれ5万を率いて杜預の指揮に従う。正史の三嗣主伝では、鎮南将軍杜預を江陵に、安東将軍王渾と揚州刺史周浚を牛渚に向かわせ、太尉賈充を大都督とした。 演義 第120回 §33正史 呉書 巻3 §78
孫皓を迎えた場:演義第120回では、洛陽の殿上で孫皓と皇帝が座をめぐって言葉を交わし、賈充が孫皓に人の顔の皮を剥いだ刑について問う。正史では、太康元年(280)4月甲申の日の詔で孫皓に帰命侯の号と衣服・車乗・田・穀物・銭・絹・綿を与え、太子孫瑾を中郎に、諸子を郎中としたと記すだけで、この問答は出てこない。 演義 第120回 §59–60正史 呉書 巻3 §85–86
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5060+10
- 武力3332−1
- 知力5060+10
- 政治4548+3
- 魅力5062+12
- 徳6230−32
- 処世5065+15
- 文芸4038−2
- 弁舌4245+3
- 用人4562+17
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 即位前後の人事の記録から推定魏書 巻4 §149
正直接の記録なし — 世子を経て位を継いだ記録から推定魏書 巻4 §144魏書 巻4 §148
正直接の記録なし — 禅譲を受けた記録から推定魏書 巻4 §150
正直接の記録なし — 相国の事を補佐した記録から推定魏書 巻4 §130
近い項目 4件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 撫軍大将軍の経歴から推定魏書 巻4 §134
演直接の記録なし — 君主としての事績から推定第119回 §35
正直接の記録なし — 封爵を継いで百揆を総べた記録から推定魏書 巻4 §148
演直接の記録なし — 毎日朝議を開いた記録から推定第119回 §48
正直接の記録なし — 中塁将軍の経歴から推定魏書 巻4 §105
演直接の記録なし — 曹操の故事を尋ねた記録から推定第119回 §36
正直接の記録なし — 使持節として曹奐を迎えた記録から推定魏書 巻4 §105
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。