陳騫
人物紹介
陳騫は魏の司徒陳矯の子で、陳本の弟である。甘露2年(257)、尚書として皇帝が辟雍で催した詩作の席に出て、同年には安東将軍として、寿春で兵を挙げた諸葛誕を王基らとともに包囲した。咸熙2年(265)には征南大将軍から車騎将軍となった。 正史 魏書 巻22 §65正史 魏書 巻4 §81 · 149正史 魏書 巻28 §37
正史には彼の伝も評もなく、陳寿の本文では父陳矯の伝、三少帝紀、諸葛誕の伝に名が見える。陳寿は彼の年齢と死を記していない。演義では第111回に諸葛誕討伐に向かう司馬昭の副先鋒として初めて登場し、全120回のうち3回に登場する。名が回目に入った回はない。 正史 魏書 巻22 §65正史 魏書 巻4 §81正史 魏書 巻28 §37演義 第111回 §35演義 第112回 §7演義 第119回 §35
正史の記録
陳矯伝によれば、陳矯は広陵郡東陽県の人で、景初元年(237)に司徒として死去し、諡を貞侯といった。子の陳本が跡を継いで郡守と九卿を歴任し、鎮北将軍に移って仮節を受け、河北の諸軍を都督した。陳本が死ぬと子の陳粲が跡を継いだ。陳矯伝は、陳本の弟陳騫が咸熙年間に車騎将軍となったと記す。 正史 魏書 巻22 §58 · 64–65
甘露2年(257)5月辛未の日、皇帝は辟雍に行幸し、群臣を集めて詩を作らせた。侍中和逌と尚書陳騫らが詩作に手間取ると、担当の役人が彼らの免官を上奏した。皇帝は詔を下し、文雅を好んで広く詩賦を求め、その得失を知ろうとしたのに、このように混乱が生じたのはまことに心穏やかでないとして和逌らを赦させ、担当者に、今後群臣はみな古義に習熟し経典を修め明らかにするよう諭させた。 正史 魏書 巻4 §81
同年5月、司空に召す詔を受けた諸葛誕はますます恐れて反乱を起こし、6月、皇帝の車駕が東征して項県に至った。大将軍司馬昭(司馬文王)は中央と地方の軍26万人を率いて淮水に臨み、丘頭に駐屯した。司馬昭は王基と安東将軍陳騫らに寿春を四方から包囲させ、内外二重の囲みとし、塹壕と堡塁はきわめて険しかった。監軍石苞と兗州刺史州泰らは精鋭で遊軍を編成して外からの敵に備え、文欽らがたびたび出て包囲を衝いたが、迎え撃って追い払った。 正史 魏書 巻28 §35 · 37
咸熙2年(265)秋8月辛卯の日、相国の晋王(司馬昭)が死去し、翌日、晋の太子司馬炎が封爵と地位を継いだ。9月癸亥の日、驃騎将軍司馬望を司徒に、征東大将軍石苞を驃騎将軍に、征南大将軍陳騫を車騎将軍とした。 正史 魏書 巻4 §148–149
陳寿の本文は陳騫の年齢と死を記さず、彼の伝を別に立てることも、彼を評することもしなかった。陳騫は陳矯伝・三少帝紀・諸葛誕伝にそれぞれ一度名が見えるだけである。 正史 魏書 巻22 §65正史 魏書 巻4 §81 · 149正史 魏書 巻28 §37
演義の描写
演義第111回で諸葛誕が淮南で兵を挙げると、司馬昭は賈充の言に従って太后と天子曹髦をともに出征させる。そして両都の兵26万をすべて動員し、鎮南将軍王基を正先鋒、安東将軍陳騫を副先鋒、監軍石苞を左軍、兗州刺史州泰を右軍として車駕を護衛させ、淮南へ進む。 演義 第111回 §33–35
第112回で司馬昭は鍾会の計に従い、石苞と州泰を石頭城に伏兵とし、王基と陳騫には精兵を率いて後方に控えさせる。偏将成倅が敵を誘い出し、野に満ちた牛・馬・驢馬・騾馬を南の兵が争って奪う間に、石苞と州泰が左右から攻め込み、王基と陳騫の精兵が押し寄せる。大敗した諸葛誕は寿春へ逃げ込み、城門を閉ざして固く守る。 演義 第112回 §1–3
同じ回で於詮と全懌・全端・文欽らが南門から寿春城に入ると、司馬昭はこれを朱異と内外から挟撃するためだとみて、王基と陳騫を呼び、兵5千で朱異の来る道を断ち背後から撃たせる。左から王基、右から陳騫が攻め込んで呉軍は大敗し、孫綝は敗戦を重ねた朱異を斬る。 演義 第112回 §6–8
第119回で司馬昭が死んだ8月辛卯の日、何曽が太子をまず晋王に立てるべきだと言うと、司馬炎はその日のうちに晋王の位に即き、何曽を晋の丞相に、司馬望を司徒に、石苞を驃騎将軍に、陳騫を車騎将軍に封じる。 演義 第119回 §34–35
演義と異なる点
家系:正史の陳矯伝は陳騫を司徒陳矯の子、陳本の弟と記す。演義第111・112・119回には陳騫の家系は出てこない。 正史 魏書 巻22 §65演義 第111回 §35演義 第112回 §1演義 第119回 §35
尚書時代:正史の三少帝紀には、甘露2年(257)、尚書陳騫が辟雍の詩作で詩が遅れて免官されかけたが、詔によって赦された件がある。演義にはこの件はない。 正史 魏書 巻4 §81演義 第111回 §35演義 第112回 §1演義 第119回 §35
寿春出征での役目:演義第111回で陳騫は26万の大軍の副先鋒となる。正史の諸葛誕伝は、司馬昭が王基と安東将軍陳騫らに寿春を四方から包囲させたと記すだけで、先鋒を定めたことは記さない。 演義 第111回 §35正史 魏書 巻28 §37
野戦:演義第112回で陳騫は鍾会の計に従い、王基とともに精兵で攻め込んで諸葛誕を破る。正史の諸葛誕伝では、司馬昭は塹壕を深く掘り堡塁を高く築いて兵を動かさず、包囲を破ろうとする攻撃は包囲線上の諸軍が防いだ。諸葛誕は最後に小城門から突き出たところを大将軍司馬胡奮の部隊に斬られた。陳騫が野戦で諸葛誕を破ったことはない。 演義 第112回 §1–2正史 魏書 巻28 §37 · 39 · 42–44
朱異を防いだ者:演義第112回では王基と陳騫が朱異の来る道を断ち、背後から撃って大勝する。正史の諸葛誕伝で、黎漿水を渡ってきた朱異を迎え撃ち、そのたびに鋭鋒を挫いたのは州泰らである。 演義 第112回 §7正史 魏書 巻28 §38
車騎将軍任命:演義第119回では、司馬昭が死んだ8月辛卯の日、その日に晋王となった司馬炎が陳騫を車騎将軍に封じる。正史の三少帝紀は、それより後の9月癸亥の日に征南大将軍陳騫を車騎将軍としたと記す。 演義 第119回 §35正史 魏書 巻4 §148–149
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率6058−2
- 武力3845+7
- 知力4240−2
- 政治4238−4
- 魅力4240−2
- 徳4545±0
- 処世5050±0
- 文芸3233+1
- 弁舌3835−3
- 用人3835−3
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正安東将軍として寿春を包囲し、のちに車騎将軍となった魏書 巻28 §37魏書 巻4 §149
正直接の記録なし魏書 巻28 §37
演直接の記録なし第112回 §2
正直接の記録なし魏書 巻28 §37
演直接の記録なし第112回 §1
正直接の記録なし魏書 巻4 §149
演直接の記録なし第119回 §35
正直接の記録なし魏書 巻4 §149
演直接の記録なし第119回 §35
正直接の記録なし — 魏末に車騎将軍に昇った事績から推定魏書 巻4 §149
演直接の記録なし — 晋建国後に車騎将軍となった事績から推定第119回 §35
正直接の記録なし魏書 巻28 §37
演直接の記録なし第111回 §35
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。