正直接の記録なし — 司徒の歴任から推定魏書 巻4 §149
演荊南に遊学し、崔州平・石広元と陣法を講論した第113回 §33
司馬望は魏の武将である。正史の姜維伝によれば、延熙20年(257)に姜維が駱谷から出て長城をうかがうと、鄧艾とともに長城に陣を構えて防ぎ、渭水のほとりに堅く陣を構えたまま姜維の挑戦に応じなかった。 正史 蜀書 巻14 §39–40
三少帝紀によれば、咸熙元年(264)に衛将軍から驃騎将軍となり、翌年司馬炎が晋王の位を継いだのち司徒となった。陳寿の本文は彼の字・出身・家系と死を記していない。 正史 魏書 巻4 §128 · 134 · 145 · 148–149正史 蜀書 巻14 §39–40
演義では第112回に長城を守る将軍で司馬昭の族兄として初めて登場し、全120回のうち6回に現れるが、名が回目に入った回はない。鄧艾と組んで姜維を防ぎ、第113回では姜維の長蛇巻地陣に閉じ込められた鄧艾を救い出す。 演義 第112回 §29演義 第113回 §33
延熙20年(257)、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反乱を起こすと、魏は関中の兵力を分けて東へ下らせた。姜維は手薄に乗じて秦川へ向かおうと、再び数万人を率いて駱谷から出て、まっすぐ沈嶺に至った。その時、長城には蓄えた穀物がたいへん多かったが守備兵は少なく、姜維が来たという知らせに皆恐れおののいた。姜維伝は「魏の大将軍司馬望」がこれを防ぎ、鄧艾も隴右から来て、ともに長城に陣を構えたと記す。 正史 蜀書 巻14 §39
姜維は前進して芒水に駐屯し、山に拠って陣営を築いた。司馬望と鄧艾は渭水のほとりに堅く陣を構え、姜維が何度も下りてきて戦いを挑んだが応じなかった。景耀元年(258)、姜維は諸葛誕が敗れたとの知らせを聞いて成都へ帰った。 正史 蜀書 巻14 §40
三少帝紀によれば、咸熙元年(264)癸卯の日、衛将軍司馬望は驃騎将軍となった。咸熙2年(265)8月、相国・晋王が死去して太子司馬炎がその地位を継ぎ、戊午の日に司徒何曽が晋の丞相となり、癸亥の日に驃騎将軍司馬望が司徒となった。陳寿の本文で司馬望は姜維伝と三少帝紀のこの数か所にしか現れず、その字・出身・家系と死は記されていない。 正史 魏書 巻4 §128 · 134 · 145 · 148–149正史 蜀書 巻14 §39–40
演義第112回で司馬望は長城を守る将軍で、司馬昭の族兄である。城内に兵糧とまぐさは多いが人馬が少なく、蜀軍が来ると聞いて王真・李鵬とともに城から20里離れた所に陣営を築く。姜維が司馬昭を李傕・郭汜になぞらえて降伏を求めると、司馬望は「お前たちは無礼にも何度も上国を犯した」と言い返す。しかし王真は傅僉に生け捕られたのち蜀兵の槍に刺されて死に、李鵬は傅僉の鉄簡に打たれて死に、司馬望は陣営を捨てて城に入り門を閉ざす。 演義 第112回 §29–32
蜀軍が火矢と乾いた薪で城を焼き、陥落が目前に迫った時、鄧艾とその子鄧忠が姜維の背後に現れて戦う。鄧艾は渭水に拠って陣営を築いたのち、司馬望に手紙を送って、決して戦わず堅く守って関中の軍を待とうと言い、長男の鄧忠を送って城の守りを助けさせる。 演義 第112回 §32–33 · 36–37
第113回で鄧艾が姜維の長蛇巻地陣に閉じ込められると、司馬望が西北の隅から攻め込んで彼を救い出す。司馬望は、幼い頃に荊南に遊学した際、崔州平・石広元と友となってこの陣を講論したことがあり、陣の頭が西北にあるのを見てそちらを撃ったと語る。翌日、司馬望は陣前で姜維と陣法を競い、八卦の陣を布いて81通りに変化すると言うが、姜維は365通りに変化すると言い、彼を井の中の蛙と呼ぶ。姜維が鄧艾の奇襲の計を見抜いて両翼の兵を出すと、魏軍は大敗する。 演義 第113回 §33–34 · 37–39
同じ回で司馬望は、蜀主劉禅が宦官黄皓を寵愛しているので反間の計で姜維を呼び戻させようと鄧艾に言い、鄧艾は党均を成都に送って黄皓と結託させる。姜維が詔を受けて軍を返すと、鄧艾と司馬望は渭水南岸の兵を引き抜いて後を追う。第114回で党均が戻って報告すると、鄧艾は司馬望に、君臣が和合していないので必ず内部で変事が起こるだろうと言う。 演義 第113回 §41–43演義 第114回 §4
第115回で姜維が洮陽に出ると、司馬望は、姜維は実は祁山を攻めるつもりではないかと疑うが、鄧艾の説明を聞いてその計どおり洮陽に兵を潜ませ、四つの城門を開け放っておく。空城だと思って入ってきた夏侯覇は兵500とともに城下で死に、司馬望は城内から打って出て蜀軍を破る。その夜、鄧艾が侯河から蜀軍の陣営を奇襲すると、司馬望も城から打って出て挟み撃ちにする。 演義 第115回 §4–11
第116回で鄧艾は蜀を討てという詔を受けると、司馬望に羌人を防がせる。第119回で司馬炎は晋王の位に就き、司馬望を司徒に封じる。 演義 第116回 §6演義 第119回 §35
家系:演義第112回は司馬望を司馬昭の族兄として紹介し、第113回で彼は幼い頃に荊南で崔州平・石広元と友であったと語る。陳寿の本文は彼の家系と出身を記していない。 演義 第112回 §29演義 第113回 §33正史 蜀書 巻14 §39–40正史 魏書 巻4 §134 · 149
長城の戦い:演義第112回で司馬望は城外で姜維と対峙して王真と李鵬を失い、城に閉じこもって火に焼かれ陥落寸前まで追い込まれ、鄧艾が来てようやく危機を脱する。正史の姜維伝では、司馬望と鄧艾がともに長城に陣を構えて渭水のほとりを堅く守り、姜維が何度も戦いを挑んだが応じなかった。 演義 第112回 §30–33正史 蜀書 巻14 §39–40
姜維が帰った理由:演義第113回では、司馬望の提案で鄧艾が反間の計を用い、姜維を成都に呼び戻させる。正史の姜維伝では、景耀元年(258)に姜維は諸葛誕が敗れたとの知らせを聞いて成都へ帰った。 演義 第113回 §41–43正史 蜀書 巻14 §40
陣法比べ:演義第113回で司馬望は長蛇巻地陣に閉じ込められた鄧艾を救い、姜維と陣法を競う。正史の姜維伝の長城での対峙には陣法の戦いはなく、陳寿の本文には司馬望が祁山で戦った記録もない。 演義 第113回 §33 · 37–39正史 蜀書 巻14 §39–40
洮陽と侯河:演義第115回で司馬望は鄧艾の計どおり洮陽に伏兵して夏侯覇を死なせ、姜維を挟み撃ちにする。正史の姜維伝は、景耀5年(262)に姜維が侯和に進んだが鄧艾に破られて沓中に帰ったとだけ記し、司馬望は登場しない。 演義 第115回 §6–11正史 蜀書 巻14 §43
官職:演義は第112回で彼を長城を守る将軍としてのみ紹介し、第119回で司馬炎が司徒に封じる。正史の姜維伝は延熙20年(257)の彼を「魏の大将軍」と記し、三少帝紀では咸熙元年(264)に衛将軍から驃騎将軍となり、咸熙2年(265)に司馬炎が晋王の地位を継いだのち司徒となった。 演義 第112回 §29演義 第119回 §35正史 蜀書 巻14 §39正史 魏書 巻4 §128 · 134 · 145 · 148–149
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正直接の記録なし — 司徒の歴任から推定魏書 巻4 §149
演荊南に遊学し、崔州平・石広元と陣法を講論した第113回 §33
正鄧艾とともに堅く陣を構え、姜維の挑戦に応じずに防いだ蜀書 巻14 §39
正直接の記録なし — 大将軍としての役割から推定蜀書 巻14 §39
演直接の記録なし — 副将を出陣させた記録から推定第112回 §30
正戦いに応じない守りで姜維を引き返させた蜀書 巻14 §40
演長蛇巻地陣を見抜き反間の計を出したが、陣法を学びきれていなかった第113回 §33第113回 §41第113回 §39
正直接の記録なし — 驃騎将軍・司徒の歴任から推定魏書 巻4 §149
演直接の記録なし — 司徒任命から推定第119回 §35
正直接の記録なし — 高位の歴任から推定魏書 巻4 §134
演直接の記録なし — 長城の守将としての役割から推定第112回 §29
正直接の記録なし — 高位の歴任から推定魏書 巻4 §149
演直接の記録なし — 守将としての役割から推定第112回 §30
正直接の記録なし — 高位の歴任から推定魏書 巻4 §134
演初戦で副将を失うと陣営を捨てて城に入り守った第112回 §32
正直接の記録なし — 高位の歴任から推定魏書 巻4 §149
演陣法の問答で無理に言い返し、計略を見破られた第113回 §38
正直接の記録なし — 高位の歴任から推定魏書 巻4 §149
演直接の記録なし — 守将としての役割から推定第112回 §29
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。