傅僉

正史演義 蜀 Fu Qian부첨傅佥

プロフィール
職業正武将 · 関中都督所属蜀
登場正演収録
出生正? 演? 推定出身地義陽郡 推定
死去正263年 演(同じ) 推定死去地正演陽安関
死因正戦死 演自害 推定
実在実在言及正4回

人物紹介

傅僉は蜀漢の将で、先主が呉を攻めて兵を退いたとき、殿を務めて戦死した義陽の人傅彤の子である。正史には独立した伝がなく、鄧張宗楊伝の傅彤の記録と姜維伝に一度ずつ登場する。父の死後に左中郎となり、のちに関中都督となったが、景耀6年(263)、魏の鍾会が関口を攻めると、蒋舒は城門を開いて降伏し、傅僉は戦って死んだ。 正史 蜀書 巻15 §75正史 蜀書 巻14 §45

陳寿は、論者たちが傅彤・傅僉父子が代々忠義を守ったことを称えたと記した。演義では第112回に姜維が目をかける西川出身の将として初めて登場し、全120回のうち5回に姿を見せるが、回目に名が載ることはない。長城で魏将王真を生け捕りにし、李鵬を打ち殺し、演義第116回では陽安関で蒋舒が降伏すると、ただ一人戦ったのち自ら首を刺して死ぬ。 正史 蜀書 巻15 §75演義 第112回 §23 · 30–31演義 第116回 §22–24

正史の記録

先主が東へ呉を攻めて猇亭で大敗し、兵を退いたとき、義陽の人傅彤は殿を務めて防ぎ戦い、兵はことごとく死んだ。呉の将が降伏を勧めると、傅彤は「呉の犬め!漢の将軍に降る者などあろうか!」と罵り、戦って死んだ。その子傅僉は左中郎に任じられた。 正史 蜀書 巻15 §74–75

傅僉はのちに関中都督となった。魏の鍾会が駱谷から、鄧艾が沓中から入ろうとすると、蜀は張翼・董厥らを陽安関の入口に遣わして諸陣営を外から援護させた。一か月余りのち、鍾会は漢・楽の二城を包囲し、別の将を遣わして関口を攻めさせたが、蒋舒は城門を開いて出て降伏し、傅僉は戦って死んだ。関口が陥落したと聞いた鍾会は遠く進撃した。鄧張宗楊伝はこれを「景耀6年(263)、また危うきに臨んで命を授けた」と記す。 正史 蜀書 巻14 §44–45正史 蜀書 巻15 §75

陳寿は傅彤の記録の末尾に「論者はその父子が代々忠義であったことを称えた」と記した。正史は傅僉の字と生年を記していない。 正史 蜀書 巻15 §75

演義の描写

演義第112回で、漢中の姜維は西川出身の将二人を選んで毎日兵馬を調練させるが、一人は蒋舒、一人は傅僉である。二人は胆力と勇気があり、姜維はたいへん目をかける。諸葛誕が司馬昭を討つと姜維は魏を討ちに出、傅僉は、魏の兵糧と秣はすべて長城にあるので、駱谷を取って沈嶺を越え、長城に至ってまず兵糧を焼こうと言う。姜維はその見解が自分の計略と合うとして従う。 演義 第112回 §23 · 27–28

長城の前で司馬望の将王真が出てくると、傅僉は十合とたたないうちにわざと隙を見せ、突いてくる槍をかわして馬上で彼を生け捕りにする。救いに来た李鵬が刀を振り下ろそうとした瞬間、王真を地に投げつけ、身をひねって四稜の鉄簡で彼の顔を打って殺す。鄧艾が五、六度も出てこないと、姜維に、これは計略があるに違いないので備えるべきだと言う。 演義 第112回 §30–31 · 39

演義第113回の景耀元年冬の出陣では、蒋舒とともに右軍となる。演義第114回で姜維は王瓘の偽りの降伏を逆手に取り、傅僉にもともと降ってきた魏兵二千を率いさせて兵糧を運ぶ旗を掲げさせる。壇山谷に来た鄧艾の前に傅僉が林の陰から躍り出て「すでにわが主将の計にかかったぞ」と叫び、鄧艾は鎧と馬を捨てて徒歩で逃げる。 演義 第113回 §23演義 第114回 §29 · 31 · 34–35

演義第115回で姜維は張翼の救援に向かうにあたり、傅僉に陣営を守って軽々しく戦うなと言いつけ、沓中へ行って麦を植えるときには蒋舒と傅僉にともに関所と要害を守らせる。 演義 第115回 §17 · 30

演義第116回で鍾会が陽安関に来ると、蒋舒は固く守ろうと言うが、傅僉は、魏軍は遠路を来て疲れているので、関を下りて戦わなければ漢城と楽城はおしまいだと言う。鍾会の降伏勧告に怒って蒋舒に関を任せ、兵三千で打って下りて追撃したのち戻ると、関の上にはすでに魏の旗が立ち、蒋舒が魏に降ったと叫ぶ。傅僉は「恩を忘れ義に背く賊め」と罵って再び戦うが包囲され、「生きては蜀の臣、死しても蜀の鬼となろう」と嘆いたのち、身に幾度も槍を受け、馬が倒れると自ら首を刺して死ぬ。 演義 第116回 §20–24

演義と異なる点

出身:演義第112回で傅僉は姜維が選んだ西川出身の将として登場する。正史は傅僉の本籍を別に記さず、父の傅彤を義陽の人としている。 演義 第112回 §23正史 蜀書 巻15 §75

父の傅彤:正史で傅僉は猇亭の戦いののち殿を務めて死んだ傅彤の子で、父の死後に左中郎に任じられた。演義でも傅彤は第84回で殿を務めて呉軍の中で死ぬが、傅僉がその子であるとは書かれていない。 正史 蜀書 巻15 §75演義 第84回 §33–34演義 第112回 §23

長城と壇山谷:演義第112・114回で傅僉は王真を生け捕りにし、李鵬を殺し、壇山谷で鄧艾を敗走させる。正史での傅僉の事績は、左中郎と関中都督になったこと、関口で戦って死んだことだけである。 演義 第112回 §30–31演義 第114回 §34–35正史 蜀書 巻15 §75正史 蜀書 巻14 §45

官職:演義で傅僉は姜維配下の将として登場し、第116回で陽安関を守る蜀将となる。正史では左中郎に任じられ、のちに関中都督となった。 演義 第112回 §23演義 第116回 §21正史 蜀書 巻15 §75

蒋舒の降伏:演義第116回で蒋舒は、傅僉が関を下りて戦っている間に関の上に魏の旗を立てて降伏する。正史の姜維伝は、鍾会の別将が関口を攻めると、蒋舒は城門を開いて出て降伏したとだけ記す。 演義 第116回 §22正史 蜀書 巻14 §45

死に方:演義第116回で傅僉は包囲されて幾度も槍を受け、馬が倒れると自ら首を刺して死ぬ。正史の姜維伝は傅僉が戦って死んだと記し、鄧張宗楊伝は危うきに臨んで命を授けたと記す。 演義 第116回 §24正史 蜀書 巻14 §45正史 蜀書 巻15 §75

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4855+7
  • 武力4580+35
  • 知力3858+20
  • 政治3533−2
  • 魅力4245+3
  • 徳8692+6
  • 処世4038−2
  • 文芸3131±0
  • 弁舌3131±0
  • 用人3333±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

近い項目 8件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(5回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 演義 · 演義 第114回 「维令傅佥引二千魏兵随征听用」 · Q124657547

関連事件(3)

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