演義の場面

鍾会分兵漢中道 鍾會分兵漢中道

事件紹介

この場面は演義第116回の回目「鍾会分兵漢中道」の場面で、蜀漢の滅亡の戦いにおいて魏の鍾会が斜谷・駱谷・子午谷の三つの道から漢中に入り、先鋒の許儀を軍法で斬り、陽安関を奪うくだりである。演義は、この時後主が黄皓の言に従って巫女を信じ、姜維の危急の上表を聞き入れなかったという。 演義 第116回 §4–5 · 15 · 19–20 · 26

陳寿は鍾会の漢中進軍を魏書巻28鍾会伝と蜀書巻14姜維伝に記した。鍾会伝は、景元4年(263)秋に鍾会が10余万の軍勢を率いて斜谷・駱谷から分かれて入り、道を整えていた許儀を斬り、護軍胡烈らを先に進ませて関城を破ったという。 正史 魏書 巻28 §103–105正史 蜀書 巻14 §43–45

演義の描写

演義第116回で鍾会は衛瓘・胡烈・田続ら80余人の将を集めて、山に会えば道を開き川に会えば橋を架ける先鋒を求め、許褚の子許儀に先鋒を任せて中路は斜谷、左軍は駱谷、右軍は子午谷へ進ませた後、10万余の軍勢で後に続く。魏軍が動いたとの知らせに姜維は、張翼に陽安関を、廖化に陰平橋を守らせるよう上表するが、黄皓は姜維が功を立てたいだけだとして巫女を呼び入れ、後主は巫女の言葉を信じて姜維の上表を聞き入れない。 演義 第116回 §3–5 · 11–15

南鄭関を先に攻めようとした許儀は、蜀将盧遜が橋の左右に伏せておいた武侯の連弩に大敗し、様子を見に来た鍾会は橋の土が崩れて馬の蹄がはまったため盧遜の槍に突かれかけたが、荀愷の矢で助かる。関を奪った鍾会は橋を修理しなかった許儀を責め、将たちが許褚の功を挙げて許しを請うたが、軍法が明らかでなければ軍勢を率いることはできないとして首を斬る。 演義 第116回 §15–20

鍾会は李輔に楽城を、荀愷に漢城を囲ませ、自ら陽安関へ向かう。関を守る傅僉は固守しようという蒋舒の言を退けて3千で打って出たが魏軍に囲まれ、その間に蒋舒は関に魏の旗を立てて降伏する。傅僉は「生きては蜀の臣、死しても蜀の鬼となろう」と叫んで戦い、馬が倒れると自ら首をはねて死に、鍾会は陽安関に蓄えられた兵糧と兵器を手に入れる。 演義 第116回 §20–26

演義と異なる点

許儀を斬った場所:演義第116回で鍾会は南鄭関の前の橋で自分の馬の蹄がはまって死にかけたため許儀を斬る。正史鍾会伝では、鍾会が牙門将許儀に先に立って道を整えさせたが、橋に穴があいて馬の足がはまったので彼を斬り、許褚の子で王室に功があったのに許さなかったので諸軍が震えた。南鄭関の戦いと盧遜は陳寿の本文にない。 演義 第116回 §15–20正史 魏書 巻28 §103–104

陽安関の陥落:演義第116回で鍾会は自ら陽安関に至り、傅僉は蒋舒が降伏した後も戦って自ら首をはねる。正史蜀書巻14の姜維の記事では、鍾会が別の将を遣わして関口を攻めると蒋舒が城門を開いて出て降伏し、傅僉は格闘して死んだとし、鍾会伝は護軍胡烈らを先に進ませて関城を破り、倉庫の穀物を得たと記す。 演義 第116回 §20–24正史 蜀書 巻14 §45正史 魏書 巻28 §105

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (2)