王瓘
人物紹介
王瓘は演義第114回に登場する魏の鄧艾の参軍である。景元元年(260)、姜維が三方から祁山を攻めに来ると、王瓘は計略を書いて鄧艾に献じ、王経の甥と称して兵5千を率い、姜維に降伏しに行く。しかし姜維はその偽りを見抜いて計略を逆手に取り、壇山谷で鄧艾を大いに破り、追い詰められた王瓘は兵糧車を焼いて漢中に攻め入り、桟道を焼き払った末に黒龍江に身を投げて死ぬ。 演義 第114回 §23–25 · 27 · 29–30 · 34–38
演義120回のうち第114回の1回にのみ登場し、名が回目に入った回はない。回目の「姜維、糧を棄てて魏兵に勝つ」が、彼の偽りの降伏を逆手に取った戦いである。陳寿の本文にも裴松之の注にも見えない。 演義 第114回 §29–31 · 34–35
演義の描写
演義第114回で、司馬昭が曹髦を弑して曹奐を皇帝に立てると、姜維は魏を討つ名分がまたできたと喜ぶ。姜維は兵15万を起こし、廖化は子午谷、張翼は駱谷、自らは斜谷から進んで祁山の前で合流することにする。知らせを聞いた鄧艾が諸将と協議すると、参軍王瓘は密計を書いて献じ、姜維を欺けないのではと案じる鄧艾に、命を捨てて行くと言う。 演義 第114回 §23–25
兵5千を与えられた王瓘は夜通し斜谷の方へ進み、蜀軍の斥候の騎兵に出くわすと、降伏しに来た魏の兵だと叫ぶ。姜維の前にひれ伏した王瓘は、自分は王経の甥で、司馬昭が主君を弑し叔父の一門をことごとく殺したのが無念で、本部の兵5千を率いて降伏しに来たと言う。姜維が大いに喜んで川口にある兵糧車数千両を祁山へ運んで来るよう命じると、王瓘は計略にかかったと思って内心喜び、命を受ける。姜維がさらに3千人だけ連れて行き、2千人は残して道案内にすると言うと、王瓘は疑われるのを恐れて3千の兵を率いて去る。 演義 第114回 §26–29
夏侯覇は、魏にいた時に王瓘が王経の甥だとは聞いたことがないと疑い、姜維は、司馬昭が王経の三族を滅ぼしたのに、どうして実の甥を生かして兵を率いさせるだろうか、偽りと知って兵力を分けておいたのだと答える。姜維の伏兵は10日もたたないうちに、王瓘が鄧艾に送る手紙を持った者を捕らえる。手紙には、8月20日に間道から兵糧を運ぶので、鄧艾は壇山谷で迎えるようにと書かれていた。姜維は使いの者を殺し、日付を8月15日に改めて鄧艾が自ら大軍を率いて来るようにしたうえで、兵糧車数百両に米の代わりに乾いた薪と茅を積んで青い布で覆わせ、傅僉に降ってきた魏兵2千を率いさせて兵糧運搬の旗を掲げさせる。 演義 第114回 §29–31
8月15日、精兵5万を率いて壇山谷に来た鄧艾は、王将軍が兵糧を持って境を越えようとして追われているとの知らせを聞き、兵を急がせる。しかし林の陰から傅僉の軍が躍り出て、四方から蜀軍が押し寄せると、鄧艾は鎧と兜、乗っていた馬まで捨てて徒歩で逃げる。一方、王瓘は兵糧と車を整えて時を待つばかりでいたが、事が漏れて鄧将軍が大敗したとの知らせと、四方に道がないとの知らせを受ける。 演義 第114回 §32–36
王瓘は兵糧と秣、車をことごとく焼かせ、死ぬ気で戦えと叫んで西へ打って出る。姜維は彼が魏へ帰ろうとしているものとばかり思っていたが、王瓘はかえって漢中へ攻め入り、追っ手に追いつかれるのを恐れて桟道と関所・要害をことごとく焼き払う。姜維は漢中を失うのを恐れて鄧艾を追わず、夜通し間道から王瓘を追い、四方から蜀軍の攻撃を受けた王瓘は黒龍江に身を投げて死ぬ。姜維は残った兵をすべて穴に埋め、鄧艾には勝ったものの兵糧車を失い、桟道まで壊れたため漢中へ帰る。 演義 第114回 §37–38
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
陳寿『三国志』本文に記録がないため、演義の点数のみです。
- 統率55
- 武力45
- 知力58
- 政治35
- 魅力40
- 徳70
- 処世50
- 文芸35
- 弁舌45
- 用人35
項目別の根拠
演直接の記録なし — 死ぬ気で戦えと叫んで打って出た記録から推定第114回 §37
演直接の記録なし — 鄧艾の参軍という役割から推定第114回 §25
演直接の記録なし — 鄧艾の参軍という役割から推定第114回 §25
演直接の記録なし — 鄧艾の参軍という役割から推定第114回 §25
演直接の記録なし — 鄧艾の参軍という役割から推定第114回 §25
演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。