正評:恭しく先例に従って禅位し、大国の栄誉を受けた魏書 巻4 §153魏書 巻4 §150
曹奐
人物紹介
曹奐は字を景明といい、曹操の孫で、燕王曹宇の子である。甘露3年(258)に安次県常道郷公に封じられ、初めの名は曹璜であった。甘露5年(260)に高貴郷公曹髦が死ぬと公卿の議によって迎えられ、その年の6月に洛陽に入って帝位に即いた。 正史 魏書 巻4 §98 · 105 · 111 · 113
彼の在位中に魏は蜀を平定し、大将軍司馬昭は晋公を経て晋王となった。司馬昭の死後、咸熙2年12月(西暦266年初め)にその子司馬炎に禅位して居所を金墉城に移し、最後は鄴にとどまって暮らした。時に二十歳であった。 正史 魏書 巻4 §127 · 129 · 148 · 150
正史を著した陳寿は評で、彼は身を恭しくして南面しただけで宰輔が政治を統べ、先例に従って禅位し晋の賓客となったと記した。演義には第114回に司馬昭が立てた皇帝として初めて登場し、全120回のうち4回に登場し、名が回目に載る回はない。第119回で司馬炎に迫られて受禅壇を築かせ、帝位を譲る。 正史 魏書 巻4 §153演義 第114回 §23演義 第119回 §38–41
正史の記録
曹奐は字を景明といい、武皇帝曹操の孫で、燕王曹宇の子である。甘露3年(258)に安次県常道郷公に封じられた。父の曹宇は明帝曹叡と幼いころともに暮らして格別の寵愛を受け、明帝の病が重くなると大将軍に任じられて後事を託されたが、4日で固く辞退して官を免じられた。 正史 魏書 巻4 §113正史 魏書 巻20 §18–19
甘露5年(260)5月に高貴郷公が死ぬと、使持節・行中護軍・中塁将軍司馬炎を北に遣わして常道郷公曹璜を迎え、明帝の跡を継がせた。6月癸丑の日には、常道郷公の諱は避けるのがはなはだ難しいので、朝臣が広く議論して改めよという詔が下った。甲寅の日に洛陽に入って皇太后に謁見し、その日のうちに太極殿の前殿で皇帝の位に即き、大赦を行い、元号を改めた。武文世王公伝は、曹宇の子曹奐が入って大宗を継いだと記す。 正史 魏書 巻4 §98 · 105 · 111 · 113正史 魏書 巻20 §19
景元元年(260)6月丙辰の日、大将軍司馬昭の位を進めて相国とし、晋公に封じ、二郡を加増して前と合わせ十郡とし、九錫の礼を加えた。その一族の子弟でまだ侯でない者はみな亭侯に封じ、銭千万と絹万匹を賜うとしたが、司馬昭が固く辞退したのでやめた。己未の日、もとの漢の献帝劉協の夫人曹節が死ぬと、皇帝は華林園で哭礼を行い、献穆皇后と追諡し、葬儀の車服はすべて漢の故事のとおりとした。 正史 魏書 巻4 §114–115
その年の11月、燕王が上表して冬至を賀し、臣と称した。詔は、古の王者には臣としない者もあったのだから、上表で臣と称さないのがよいとし、大宗を継いだ者は実の親への礼を下げるが、ただちに臣下と同じに扱うのも情として安んじないので、礼典に従って宜しきを尽くせと命じた。有司は、宮中からの詔には「皇帝敬んで大王の侍御に問う」と書き、制書には「燕王に制詔す」と書き、宗廟の祭祀を助ける事でなければ王の名を称さないよう上奏した。 正史 魏書 巻4 §116–119
景元2年(261)8月と4年(263)2月にも大将軍に晋公の爵位と相国の位を命じたが、そのたびに司馬昭が固く辞退したのでやめた。4年10月甲寅の日にまた前の詔のとおり命じ、続いて癸卯の日に卞氏を皇后に立てた。后妃伝は、卞琳の娘が陳留王の皇后となったと記す。 正史 魏書 巻4 §121 · 123 · 126正史 魏書 巻5 §15
景元4年(263)5月に詔を下し、蜀が頼みとするのは姜維だけであり、彼が巣窟から遠く離れているので、征西将軍鄧艾は甘松・沓中へ、雍州刺史諸葛緒は武都・高楼へ急行して姜維を捕らえ、東西から並んで進んで巴蜀を掃討せよと命じた。また鎮西将軍鍾会には駱谷を経て蜀を討たせた。11月に蜀の君主劉禅が鄧艾のもとに出向いて降伏し、巴蜀はことごとく平定された。12月、鄧艾を太尉に、鍾会を司徒とした。 正史 魏書 巻4 §124–127
咸熙元年(264)正月壬戌の日に檻車で鄧艾を召還し、甲子の日には長安に行幸した。この月、鍾会が蜀で反乱を起こして兵たちに討たれ、鄧艾も殺された。3月己卯の日に晋公の爵位を進めて王とし、十郡を加増して二十郡とし、丁亥の日に劉禅を安楽公に封じた。5月に相国晋王が五等爵の復活を上奏し、甲戌の日に元号を改めた。 正史 魏書 巻4 §128–129
8月癸巳の日に詔を下し、鍾会が反乱を企てたとき節を曲げずにその言葉を拒んだ夏侯和・羊琇・朱撫と、鍾会が将兵をみな殺そうとしていると言って兵たちの心を奮い立たせた賈輔を表彰した。夏侯和と賈輔は郷侯に、羊琇と朱撫は関内侯に爵位を進め、賈輔の言葉を諸軍に広く伝えた散将の王起を部曲将とした。9月には、呉の将呂興が交阯で呉の使者鄧句らを殺して帰順すると、彼を南中大将軍とし定安県侯に封じたが、策命が届く前に呂興は部下に殺された。 正史 魏書 巻4 §131–133 · 135 · 138
司馬炎はこの年8月庚寅の日に中撫軍として相国の事を補佐することになり、9月戊午の日に撫軍大将軍となり、10月丙午の日に晋の世子となった。この年、屯田官を廃止し、典農はみな太守に、都尉は令・長とした。 正史 魏書 巻4 §130 · 134 · 144
咸熙2年(265)4月、呉が使者紀陟と弘璆を遣わして和睦を求めた。5月に詔を下し、孫皓が献上した品をすべて晋王に戻させたが、晋王が固く辞退したのでやめた。また晋王に十二旒の冕をかぶり、天子の旌旗を立て、六頭の馬に金根車を引かせることを許し、王妃を王后に、世子を太子に進めた。8月辛卯の日に晋王が死ぬと、翌日、太子司馬炎が封爵と地位を継いで百揆を総べた。 正史 魏書 巻4 §145–148
12月壬戌の日、天禄が永く終わり暦数は晋にあるとして詔を下し、群公卿士に儀礼を整えて南郊に壇を設けさせ、使者に皇帝の璽綬と冊書を奉じさせて晋の嗣王に禅位し、漢・魏の故事のとおりとした。甲子の日に使者に策書を奉じさせた。曹奐は居所を金墉城に移し、最後は鄴にとどまって暮らした。時に二十歳であった。陳寿の本文は、その後いつ死んだかを記していない。 正史 魏書 巻4 §150
陳寿は評で、明帝は傍系から徳のある者を選ばず、幼子を育てて大業を伝えたため、ついには曹爽が誅滅され斉王が廃位されるに至ったと述べた。陳留王は身を恭しくして南面しただけで宰輔が政治を統べ、先例に従って揖譲して禅位し、大国に封じられて晋の賓客となり、山陽公に比べて与えられた寵遇はさらに厚かったと記した。 正史 魏書 巻4 §152–153
演義の描写
演義第114回で、曹髦が死んだその年の6月、司馬昭は常道郷公曹璜を皇帝に立て、元号を景元元年と改める。曹璜は名を曹奐と改めるが、演義は彼の字を景明とし、武帝曹操の孫で燕王曹宇の子であると記す。曹奐は司馬昭を相国・晋公に封じて銭10万と絹1万匹を賜い、文武の官もそれぞれ封爵と賞を受ける。これを聞いた姜維は、司馬昭が曹髦を弑して曹奐を立てたので、魏を討つ名分がまたできたと喜ぶ。 演義 第114回 §23
第118回で司馬昭は鄧艾の上表を見て大いに怒り、鍾会に鄧艾を捕らえさせ、自らは魏主曹奐とともに御駕を整えて親征に出る。第119回で朝廷の大臣たちが西川を収めた功によって司馬昭を王に尊ぶよう上表すると、名ばかりの天子で何ひとつ自ら決められない曹奐はあえて従わざるを得ず、司馬昭を晋王に封じ、司馬懿と司馬師に宣王と景王の諡を贈る。 演義 第118回 §33演義 第119回 §31
司馬昭が死に司馬炎が晋王の位を継いだのち、賈充と裴秀が曹丕が漢の大統を継いだ故事にならうよう勧めると、司馬炎は翌日剣を帯びて宮中に入る。何日も朝議を開かず心ここにあらずの曹奐は、あわてて御榻を降りて彼を迎え、魏の天下は誰の力で得たものかと問われると「すべて晋王の父祖のたまものです」と答える。文では道を論じられず、武では国を治められないのだから、才徳ある者に譲れと言われ、曹奐は大いに驚いて口がこわばり、ものも言えなくなる。 演義 第119回 §34–38
そばにいた黄門侍郎張節が晋王の言葉は誤りだと抗弁して殿下で棍棒で打ち殺されると、曹奐は涙を流してひざまずき哀願する。曹奐が賈充と裴秀にどうすればよいかと尋ねると、賈充は漢の献帝の故事にならって受禅壇を築き、晋王に帝位を禅譲すれば何事もなく身を保てると言い、曹奐はその言葉に従って賈充に受禅壇を築かせる。 演義 第119回 §38–41
12月甲子の日、曹奐は自ら伝国の玉璽を捧げて壇上に立ち、文武の官を集め、司馬炎が壇に上って大礼を受ける。曹奐は壇を降りて公服を着て班列の先頭に立ち、賈充と裴秀は剣を執って彼に再拝させ、地に伏して命を聞かせる。賈充は彼を陳留王に封じ、金墉城に住み、詔で召されなければ都に入るなと言い、曹奐は泣いて礼を述べて去る。太傅司馬孚は曹奐の前に伏して泣き、終生魏に背かないと言う。 演義 第119回 §41–44
第120回は三国が晋に帰したのちのことを記し、魏主曹奐は太安元年に死に、劉禅・孫皓とともにみな天寿を全うしたとする。 演義 第120回 §61
演義と異なる点
即位を導いた者:演義第114回では司馬昭が常道郷公曹璜を皇帝に立てる。正史では高貴郷公が死ぬと公卿が議して彼を迎え立てることにし、司馬炎を北に遣わして迎えさせた。 演義 第114回 §23正史 魏書 巻4 §105 · 113
司馬昭に与えたもの:演義第114回で曹奐は即位すると司馬昭を相国・晋公に封じ、銭10万と絹1万匹を賜う。正史では景元元年(260)6月に相国・晋公・九錫とともに銭千万と絹万匹を賜わせたが、司馬昭が固く辞退してやめ、景元2年と4年2月に再び命じたときも固く辞退した。 演義 第114回 §23正史 魏書 巻4 §114 · 121 · 123
晋王の封爵:演義第119回では西川を収めた功によって大臣たちが上表し、曹奐はあえて従わざるを得ず司馬昭を晋王に封じる。正史では咸熙元年(264)3月己卯の日に晋公の爵位を進めて王とし、十郡を加増したと記すだけで、大臣たちの上表は出てこない。 演義 第119回 §31正史 魏書 巻4 §129
禅位を迫る場面:演義第119回では司馬炎が剣を帯びて宮中に入って曹奐を追い詰め、抗弁した黄門侍郎張節を棍棒で打ち殺し、賈充が受禅壇を築くよう勧める。正史の陳留王の記録は、咸熙2年12月壬戌の日に天禄が永く終わったとして詔を下し、壇を設けて禅位したと記すだけで、この場面も張節も出てこない。 演義 第119回 §37–40正史 魏書 巻4 §112–153
禅位の儀式:演義第119回で曹奐は自ら伝国の玉璽を捧げて壇に立ち、降りて班列の先頭で再拝し、伏して命を聞く。正史では使者に皇帝の璽綬と冊書を奉じさせて晋の嗣王に禅位し、漢・魏の故事のとおりであったと記す。 演義 第119回 §41 · 43正史 魏書 巻4 §150
司馬孚:演義第119回では太傅司馬孚が去っていく曹奐の前に伏して泣き、終生魏に背かないと言う。正史の陳留王の記録にはこのことはない。 演義 第119回 §44正史 魏書 巻4 §112–153
禅位後の居所:演義第119回で曹奐は陳留王に封じられて金墉城に住み、詔で召されなければ都に入れない。正史は居所を金墉城に移し、最後は鄴にとどまって暮らしたと記す。 演義 第119回 §44正史 魏書 巻4 §150
死:演義第120回は、曹奐が太安元年に死に天寿を全うしたと記す。正史の陳寿の本文は鄴で暮らしたというところで終わり、没年を記していない。 演義 第120回 §61正史 魏書 巻4 §150
実父に対する礼:正史では即位した年の11月に燕王曹宇が上表で臣と称すると、詔と有司の議によって臣として扱わない礼を定めた。演義で曹奐が登場する回にはこのことはない。 正史 魏書 巻4 §116–119演義 第114回 §23演義 第119回 §31
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3125−6
- 武力3131±0
- 知力3830−8
- 政治3120−11
- 魅力3835−3
- 徳5545−10
- 処世5530−25
- 文芸4028−12
- 弁舌3525−10
- 用人3131±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 詔のほかに記録なし魏書 巻4 §116
演司馬炎に文では道を論じられないと言われた第119回 §38
正評:南面しただけで宰輔が政治を統べた魏書 巻4 §153
演名ばかりの天子で何ひとつ自ら決められなかった第119回 §31
正実父の燕王に臣と称させないようにした詔魏書 巻4 §116
正直接の記録なし — 記録なし魏書 巻4 §113
演司馬炎の前で口がこわばり、ものが言えなかった第119回 §38
近い項目 5件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 正史では宰輔が政治を統べた魏書 巻4 §153
演司馬炎に武では国を治められないと言われた第119回 §38
正直接の記録なし — 記録なし魏書 巻4 §113
演直接の記録なし — 記録なし第119回 §38
正直接の記録なし — 記録なし魏書 巻4 §153
正直接の記録なし — 公卿が迎え立てた皇帝であることから推定魏書 巻4 §113
演直接の記録なし — 司馬昭が立てた皇帝であることから推定第114回 §23
正直接の記録なし — 記録なし魏書 巻4 §113
演直接の記録なし — 記録なし第114回 §23
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。