裴秀
人物紹介
裴秀は魏の尚書令を務めた裴潜の子である。正始5年(244)に裴潜が死ぬと跡を継いだ。陳寿の本文は裴秀の字と出身地を特に記しておらず、父の裴潜は河東郡聞喜県の人である。 正史 魏書 巻23 §66 · 72
甘露2年(257)に諸葛誕が反乱を起こすと、散騎常侍として給事黄門侍郎鍾会とともに、詔によって大将軍司馬昭の征討に従った。咸熙年間(264〜265)には尚書僕射となった。陳寿の本文が記す彼の事績はこれだけである。 正史 魏書 巻4 §82 · 85正史 魏書 巻28 §37正史 魏書 巻23 §73
陳寿の評は裴秀を取り上げていない。演義には第112回に散騎長史として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が載ることはない。第112回では降伏した呉兵を穴埋めにしようと言って鍾会の反対に阻まれ、第119回では賈充とともに司馬炎に魏の禅譲を受けるよう勧める。 正史 魏書 巻23 §75演義 第112回 §1 · 21–22演義 第119回 §37
正史の記録
裴秀の父裴潜は河東郡聞喜県の人である。太祖の時に代郡太守・兗州刺史などを務め、明帝が即位すると朝廷に入って尚書となった。河南尹・太尉軍師・大司農を経て清陽亭侯に封じられ、尚書令となったのち父の喪に遭って官を去り、光禄大夫を拝命した。 正史 魏書 巻23 §66 · 68 · 71–72
正始5年(244)に裴潜が死ぬと太常を追贈され、諡を貞侯といい、子の裴秀が跡を継いだ。裴潜は遺言で質素に葬らせ、墓の中には座床一つと素焼きの器数個だけを置き、そのほかには何も置かなかった。 正史 魏書 巻23 §72
甘露2年(257)5月、司空諸葛誕が召還に応じず兵を挙げて反乱し、揚州刺史楽綝を殺した。6月に皇帝の車駕が東征して項に至り、大将軍司馬昭は中外の諸軍26万を率いて淮水に臨み、諸葛誕を討った。 正史 魏書 巻4 §80 · 82正史 魏書 巻28 §37
甲子の日に詔が下り、昔、相国・大司馬が征討する時にはみな尚書とともに行ったので、今回も旧例どおりにすべきだとした。そこで散騎常侍裴秀と給事黄門侍郎鍾会がともに大将軍に従って行った。征討は甘露3年(258)2月、大将軍司馬昭が寿春城を陥れて諸葛誕を斬ったことで終わったが、陳寿の本文はこの出征で裴秀がしたことを記していない。 正史 魏書 巻4 §85 · 88
咸熙年間(264〜265)に裴秀は尚書僕射となった。陳寿の本文は彼の字、その後の官職、没年を記していない。 正史 魏書 巻23 §73
陳寿は魏書巻23の評で、裴潜を公平で変わらず、正しく有能であったとし、他の五人とともに一世の美士に数えたが、裴秀については特に述べていない。 正史 魏書 巻23 §75
演義の描写
演義第112回で、司馬昭は諸葛誕が呉兵と合わせて決戦に来ると聞き、散騎長史裴秀と黄門侍郎鍾会を呼んで敵を破る策を相談する。鍾会が、呉兵は利のために来たのだから利で誘おうと言うと、司馬昭はその言に従い、石苞と州泰を石頭城に伏せさせ、褒賞の品を積んだ牛・馬・驢馬・騾馬をおとりとして陣中に集めておく。諸葛誕の軍は大敗して寿春へ逃げ込む。 演義 第112回 §1–3
同じ回で呉兵の大半が降伏すると、裴秀は司馬昭に、呉兵の老人と子どもはみな東南の長江・淮水の地にいるので、彼らを留め置けば遠からず必ず変乱を起こすから、穴埋めにしてしまおうと言う。鍾会は、昔の兵を用いる者は国を全うすることを上とし、元凶だけを殺したと言い、江南に帰して中国の寛大さを示そうと反論する。司馬昭は鍾会の言葉を妙論だとして、呉兵をすべて帰らせる。 演義 第112回 §21–22
第119回で、晋王となった司馬昭が次男の司馬攸を世子に立てようとすると、山涛が、長子を廃して幼い子を立てるのは礼に背くと諫める。賈充・何曽・裴秀も、長男の司馬炎は聡明で神武であり、人の臣下となる相ではないと諫め、王祥と荀顗までが諫めると、司馬昭は司馬炎を世子に立てる。 演義 第119回 §31–33
司馬昭が死んで晋王に即いた司馬炎は、葬儀を終えると賈充と裴秀を宮中に呼び、曹操が「天命が我にあるならば、我は周の文王となろう」と言ったというのは本当かと尋ねる。賈充の答えを聞いた司馬炎が、曹丕でさえ漢の統を継いだのに、自分がどうして魏の統を継げないことがあろうかと言うと、賈充と裴秀の二人は再拝して、曹丕が漢を継いだ故事にならって受禅壇を築き、大位に即くよう奏上する。 演義 第119回 §35–37
司馬炎が黄門侍郎張節を打ち殺させて立ち去ると、魏主曹奐は賈充と裴秀に、事は急を告げたがどうすればよいかと尋ね、賈充は漢の献帝の故事どおりに禅譲するよう答える。12月甲子の日の禅譲の儀式で、賈充と裴秀は左右に並んで剣を執り、曹奐に再拝させて地に伏して命を聞かせ、賈充が曹奐を陳留王に封じて金墉城へ出す。 演義 第119回 §40–41 · 43–44
演義と異なる点
出征時の官職:演義第112回で裴秀は散騎長史として登場する。正史三少帝紀の詔では、散騎常侍裴秀が給事黄門侍郎鍾会とともに大将軍に従った。 演義 第112回 §1正史 魏書 巻4 §85
寿春でしたこと:演義第112回で司馬昭は裴秀と鍾会を呼んで策を相談し、おとりで敵を誘い出す計略は鍾会が出す。正史は、尚書が征討に同行した旧例に従って裴秀が同行したとだけ記し、彼がしたことは記していない。 演義 第112回 §1正史 魏書 巻4 §85
呉兵を穴埋めにする議論:演義第112回では裴秀が降伏した呉兵を穴埋めにしようと言い、鍾会が反対する。正史の諸葛誕伝では、呉兵の家族は江南にいるのでみな穴埋めにすべきだと言った者を「議者」とだけ記し、昔の用兵は国を全うすることを上とし元凶を殺すだけであったとして一人も殺さなかったのは、大将軍司馬昭の判断である。 演義 第112回 §21–22正史 魏書 巻28 §37 · 44
世子問題:演義第119回で裴秀は賈充・何曽とともに司馬炎を世子に立てるよう諫める。陳寿の本文の裴秀の記録にはこのことはない。 演義 第119回 §32正史 魏書 巻23 §72–73正史 魏書 巻4 §85
禅譲:演義第119回で裴秀は賈充とともに司馬炎に受禅壇を築いて大位に即くよう勧め、禅譲の儀式では剣を執って左右に立つ。正史三少帝紀は、咸熙2年(265)12月壬戌の日に詔によって南郊に壇を設け、使者に皇帝の璽綬と冊を奉じさせて晋の嗣王に禅位したと記すだけで、裴秀は登場しない。 演義 第119回 §37 · 43正史 魏書 巻4 §150
官職の終わり:演義で裴秀の官職は第112回の散騎長史しか出てこない。正史は咸熙年間に彼が尚書僕射となったと記す。 演義 第112回 §1正史 魏書 巻23 §73
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3535±0
- 武力3131±0
- 知力4542−3
- 政治4842−6
- 魅力4038−2
- 徳4020−20
- 処世4560+15
- 文芸4540−5
- 弁舌4048+8
- 用人4050+10
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。