何曽 何曾

正史演義 魏 字 穎考 He ZengYingkao하증영고

プロフィール
職業正演文官 · 司徒所属魏
登場正演収録魏書
出生出身地陳国 陽夏県 推定
実在実在言及正10回

人物紹介

何曽は魏の少傅・太僕を務めた何夔の子で、魏の末期に司徒を務めた。正史には独立した伝がなく、父何夔の伝の末尾に「子の何曽が跡を継ぎ、咸熙年間に司徒となった」という一行があり、袁渙伝と三少帝紀にも名が見える。 正史 魏書 巻12 §53 · 55–56正史 魏書 巻11 §13正史 魏書 巻4 §128

三少帝紀によれば、咸熙元年(264)3月に征北将軍から司徒となり、翌年8月、晋王司馬昭が死んで太子司馬炎が爵位を継いだ後、司徒として晋の丞相となった。 正史 魏書 巻4 §128 · 148–149

陳寿は評で、父の何夔を峻厳を尊んだ当代の名士として挙げただけで、何曽を個別には評していない。演義では第119回にだけ登場し、全120回のうち1回に登場する。司馬昭に長男司馬炎を世子に立てるよう諫め、司馬昭が死ぬと、まず太子を晋王に立てるべきだと言う。 正史 魏書 巻12 §99演義 第119回 §32 · 35

正史の記録

何曽の父何夔は陳郡陽夏県の人で、魏国が建てられると尚書僕射となり、のちに太子の少傅・太傅を経て太僕に移った。文帝が即位すると成陽亭侯に封じられ、死後は諡を靖侯といった。子の何曽が跡を継ぎ、咸熙年間に司徒となった。 正史 魏書 巻12 §41 · 53–56

袁渙伝は、袁渙の従弟袁覇が同郡の何夔とともに当時名を知られ、袁覇の子袁亮と何夔の子何曽が袁渙の子袁侃とともに再び並んで名声を得て、互いに親しく交わったと記す。 正史 魏書 巻11 §13

三少帝紀によれば、咸熙元年(264)3月丁丑の日、司空王祥が太尉となり、征北将軍何曽が司徒となり、尚書左僕射荀顗が司空となった。 正史 魏書 巻4 §128

咸熙2年(265)8月辛卯の日、相国・晋王(司馬昭)が死に、翌日、晋の太子司馬炎が封爵を継ぎ地位を受け継いだ。9月乙未の日に大赦があった後、戊午の日に司徒何曽が晋の丞相となり、癸亥の日に驃騎将軍司馬望が司徒となった。この年の12月、魏の天子曹奐は晋の嗣王に禅位した。 正史 魏書 巻4 §148–150

陳寿の本文は何曽の字と生年、没年を記していない。巻12末の評で陳寿は、徐奕・何夔・邢顒が峻厳を貴び尊んで当代の名士となったと述べただけで、何曽を個別には評していない。 正史 魏書 巻12 §55–56 · 99

演義の描写

演義第119回で、晋王に封じられた司馬昭は、兄司馬師の跡を継がせた次男司馬攸を世子に立てようとする。山涛が長子を廃して幼子を立てるのは礼に背き不吉であると諫めると、賈充・何曽・裴秀も、長男は聡明で神武であり世に抜きん出た才があって、人臣となる相ではないと諫める。太尉王祥と司空荀顗まで諫めると、司馬昭はついに長男司馬炎を世子に立てる。 演義 第119回 §31–33

同じ回で、司馬昭が突然中風で口がきけなくなり、翌日病が危篤になると、太尉王祥、司徒何曽ら諸大臣が宮中に入って見舞う。司馬昭は手で太子司馬炎を指して死ぬ。 演義 第119回 §34

その日は8月辛卯の日であった。何曽は「天下の大事はすべて晋王にかかっているので、太子を晋王に立ててから祭り葬るべきである」と言い、その日晋王の位に即いた司馬炎は、何曽を晋の丞相、司馬望を司徒、石苞を驃騎将軍、陳騫を車騎将軍とする。 演義 第119回 §35

演義と異なる点

世子をめぐる諫言:演義第119回で何曽は、賈充・裴秀とともに司馬昭に長男司馬炎を世子に立てるよう諫める。陳寿の本文には何曽がこの件で諫めた記録はなく、三少帝紀は咸熙元年(264)に司馬炎を晋の世子としたとだけ記す。 演義 第119回 §32正史 魏書 巻4 §144

司馬昭の死後の言葉:演義第119回で何曽は、司馬昭が死ぬと、まず太子を晋王に立ててから祭祀と葬儀を行おうと言う。三少帝紀は、8月辛卯の日に晋王が死に、翌日の壬辰の日に太子司馬炎が封爵を継いだとだけ記し、何曽の言葉はない。 演義 第119回 §35正史 魏書 巻4 §148

丞相となった日:演義第119回では、司馬炎が晋王に即いたその日に何曽を晋の丞相とする。三少帝紀では、9月乙未の日に大赦があった後、戊午の日に司徒何曽が晋の丞相となった。 演義 第119回 §35正史 魏書 巻4 §148–149

司徒となった経緯:正史の三少帝紀は、咸熙元年(264)3月に征北将軍何曽が司徒となったと記す。演義第119回で何曽は司徒と呼ばれるだけで、征北将軍であったことや司徒となった経緯は出てこない。 正史 魏書 巻4 §128演義 第119回 §34

家系:正史で何曽は何夔の子としてその跡を継ぎ、袁渙伝は彼が袁亮・袁侃と並んで名声を得たと記す。演義には彼の父や家系は出てこない。 正史 魏書 巻12 §56正史 魏書 巻11 §13演義 第119回 §32–35

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4535−10
  • 武力3531−4
  • 知力4545±0
  • 政治5550−5
  • 魅力4540−5
  • 徳4540−5
  • 処世5058+8
  • 文芸4240−2
  • 弁舌4050+10
  • 用人4252+10
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

統率正45推定演35推定 −10

正直接の記録なし — 征北将軍の職から推定魏書 巻4 §128

演直接の記録なし — 司徒の職から推定第119回 §34

弁舌・外交正40推定演50 +10

正直接の記録なし — 司徒の職から推定魏書 巻4 §128

演司馬炎の風貌を挙げて世子に立てるよう諫めた第119回 §32

識人・用人正42推定演52 +10

正直接の記録なし — 司徒の職から推定魏書 巻4 §128

演司馬炎を人臣となる相ではないと評した第119回 §32

近い項目 7件 — 根拠を見る
  • 武力正35推定演31推定 −4

    正直接の記録なし — 征北将軍の職から推定魏書 巻4 §128

    演直接の記録なし — 文臣であることから推定第119回 §34

  • 知力正45推定演45推定 ±0

    正直接の記録なし — 司徒の職から推定魏書 巻4 §128

    演直接の記録なし — 世子をめぐる議論への参加から推定第119回 §32

  • 政治正55推定演50推定 −5

    正直接の記録なし — 司徒の職から推定魏書 巻4 §128魏書 巻12 §56

    演直接の記録なし — 司徒・丞相の職から推定第119回 §35

  • 魅力正45推定演40推定 −5

    正直接の記録なし — 何夔の後継ぎであることから推定魏書 巻12 §56

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第119回 §35

  • 徳正45推定演40推定 −5

    正直接の記録なし — 何夔の後継ぎであることから推定魏書 巻12 §56

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第119回 §35

  • 処世正50推定演58 +8

    正直接の記録なし — 司徒を経て晋の丞相となった経歴から推定魏書 巻4 §149

    演司馬昭が死ぬと、すぐに太子を晋王に立てるよう主張した第119回 §35

  • 文芸・学術正42推定演40推定 −2

    正直接の記録なし — 功臣の家柄から推定魏書 巻12 §56

    演直接の記録なし — 文臣であることから推定第119回 §32

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻12 「正元中爲司隸校尉」

家族

父母何夔 正史
子何劭 推定 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。