袁侃
人物紹介
袁侃は魏の郎中令袁渙の子である。正史には独立した伝がなく、巻11の袁渙の伝の末尾で、陳寿は彼が清らかで純粋、物静かで質素であり、父の風格があって、郡守と尚書を歴任したと記した。陳寿の本文は彼の字と生没年を記さない。 正史 魏書 巻11 §10 · 12
尚書であったとき、袁侃らは幽州刺史として赴任する杜恕に、同じ城に駐屯する征北将軍程喜に深く備えるよう戒めた。司馬師が新たに政治を統べると、王基は書を送り、許允・傅嘏・袁侃・崔賛をともに政治を行うに足る一時代の正しい士として挙げた。 正史 魏書 巻16 §72正史 魏書 巻27 §59
陳寿が巻11の末尾に付した評は袁侃に触れない。演義には登場しない。 正史 魏書 巻11 §111
正史の記録
袁侃の父袁渙は字を曜卿といい、陳郡扶楽県の人で、その父袁滂は漢の司徒であった。袁渙は魏国が初めて建てられると郎中令となって御史大夫の職務を代行し、在官数年で死去した。 正史 魏書 巻11 §2 · 10–11
陳寿は袁渙の伝の末尾で、袁渙の子袁侃もまた清らかで純粋、物静かで質素であり、父の風格があって、郡守と尚書を歴任したと記した。 正史 魏書 巻11 §12
袁渙の従弟袁覇は魏の初めに大司農となり、同郡の何夔とともに当時名を知られた。袁覇の子袁亮と何夔の子何曽は、袁侃とともにまた並んで名声を得て互いに親しく交わった。袁亮は何晏・鄧颺らを憎んで論を著して批判し、官は河南尹・尚書に至った。 正史 魏書 巻11 §13
杜恕の伝によれば、朝廷で当世の人々と和合できず、たびたび地方に出ていた杜恕は、再び幽州刺史となり、建威将軍を加えられ、使持節として護烏丸校尉を務めた。このとき征北将軍程喜が薊県に駐屯していたが、尚書袁侃らは杜恕に戒めた。程喜は先帝の時代に青州で田豫を失脚させた人物であり、今ともに節を持って一つの城に駐屯することになったのだから、深く備えるべきだというのである。 正史 魏書 巻16 §72
杜恕はこの言葉を意に介さなかった。着任して1年にならないうちに、鮮卑の大人の子に従ってきた若者一人を州で斬り、上表して報告しなかったことで程喜に弾劾された。杜恕は廷尉に下されて死罪にあたると判決されたが、父の杜畿が職務に励んで溺死したため死を免れて庶人となり、章武郡に移された。この年が嘉平元年(249)であった。 正史 魏書 巻16 §73
王基の伝によれば、司馬景王(司馬師)が新たに政治を統べると、王基は書を送って戒め、許允・傅嘏・袁侃・崔賛はみな一時代の正しい士で、まっすぐな資質があり流されやすい心がないので、ともに政治を行うに足る人々であると言った。司馬師はその言葉を容れた。 正史 魏書 巻27 §59
陳寿の本文は袁侃の字と生没年を記さない。巻11の評は袁渙・邴原・張範らに触れるだけで、袁侃には触れない。 正史 魏書 巻11 §12 · 111
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率33
- 武力31
- 知力52
- 政治60
- 魅力55
- 徳78
- 処世48
- 文芸45
- 弁舌45
- 用人42
項目別の根拠
正直接の記録なし — 郡守・尚書の職から推定魏書 巻11 §12
正直接の記録なし — 郡守・尚書の職から推定魏書 巻11 §12
正杜恕に程喜に深く備えるよう戒めた魏書 巻16 §72
正郡守・尚書を務め、ともに政治を行うに足る人物として推挙された魏書 巻11 §12魏書 巻27 §59
正袁亮・何曽と並んで名声を得て親しく交わった魏書 巻11 §13
正清らかで質素、一時代の正しい士でまっすぐな資質と評された魏書 巻11 §12魏書 巻27 §59
正直接の記録なし — 郡守・尚書の職から推定魏書 巻11 §12
正直接の記録なし — 郡守・尚書の職から推定魏書 巻11 §12
正直接の記録なし — 郡守・尚書の職から推定魏書 巻11 §12
正直接の記録なし — 郡守・尚書の職から推定魏書 巻11 §12
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。