杜畿
人物紹介
杜畿は字を伯侯といい、京兆杜陵県の人である。孝廉に挙げられて漢中府丞となったが、天下が乱れると荊州に身を寄せ、建安年間に戻って荀彧の推薦で曹操に仕えた。 正史 魏書 巻16 §19–20
高幹が并州で反乱を起こしたころ河東太守となり、単車で赴任して衛固らの一党を離散させ、以後16年間河東を治めて常に天下第一であった。文帝のとき尚書僕射として都を守っていたが、皇帝の乗る楼船を試していたところ風に遭って船が沈み、死去した。 正史 魏書 巻16 §21–28 · 32–34
正史を著した陳寿は評で、彼は寛容と厳格をともに成し遂げ、恩恵によって民を安んじたとし、この巻の人々を皆魏の名太守であるとした。演義には登場しない。 正史 魏書 巻16 §98
正史の記録
杜畿は字を伯侯といい、京兆杜陵県の人である。幼くして父を失い継母にひどい扱いを受けたが、孝行で名を知られた。20歳のとき郡の功曹として鄭県令を代行し、県の獄に囚われていた数百人の罪を自ら裁いて、すべて決着をつけて釈放した。すべてが妥当だったわけではないが、郡の人々は彼が若くして大きな志を持っていることを感心した。孝廉に挙げられて漢中府丞となったが、天下が乱れると官を捨てて荊州に身を寄せ、建安年間に戻った。 正史 魏書 巻16 §19
荀彧が彼を曹操に推薦すると、曹操は杜畿を司空司直とし、護羌校尉に移し、使持節として西平太守を兼ねさせた。 正史 魏書 巻16 §20
曹操が河北を平定したのち、高幹が并州をあげて反乱を起こした。河東の衛固と范先は、表向きは召還された太守王邑を留めてほしいと請いながら、内実は高幹と通じていた。曹操が、河東は天下の要地であるとして蕭何や寇恂のような人物を推薦してほしいと言うと、荀彧は「杜畿こそその人です」と言い、曹操は杜畿を河東太守とした。 正史 魏書 巻16 §21–22
衛固らが兵数千人で陝津を断ったので杜畿は河を渡れず、曹操が送った夏侯惇はまだ到着していなかった。大軍を待つよう勧められると、杜畿は、河東の3万戸が皆乱を望んでいるわけではなく、急いで追い詰めれば善良な者まで衛固に従うだろうし、衛固らはまだあからさまに天子の命を断っていないので新しい太守を害することはないだろうと言った。彼は、衛固は計略は多いが決断がないので単車で行くと言って、間道から郖津を渡った。范先は杜畿を殺して威を示そうと、門下の主簿以下30余人を斬ったが、杜畿の振る舞いは泰然自若としており、衛固は彼を殺しても得るものはないとして彼を奉じた。 正史 魏書 巻16 §22–24
杜畿は衛固を都督として丞の事を代行させ、功曹を兼ねさせ、将校と吏兵3000余人を范先に任せた。衛固が大々的に兵を起こそうとすると、人々が動揺するので財貨でゆっくり兵を募るよう言って数十日引き延ばし、さらに諸将と掾吏を分けて家に帰して休ませるよう言った。こうして善良な人々は外でひそかに杜畿を助け、悪い者たちは散らばって一党は分裂した。 正史 魏書 巻16 §25–26
白騎が東垣を攻め、高幹が濩沢に入り、上党と弘農で変乱が相次ぐと、杜畿は諸県が自分に従っていることを知り、騎兵数十人だけを率いて張辟に行って守った。官吏と民が城をあげて助け、数十日で4000余人を得て、衛固らは高幹・張晟とともに攻めたが落とせなかった。大軍が到着すると高幹と張晟は敗れ、衛固らは処刑され、残りの一党は皆赦されて生業に戻った。 正史 魏書 巻16 §27–28
天下の郡県は皆荒廃していたが、河東は最も早く安定した。杜畿は寛容と恩恵を尊んで民に無理に事を起こさせず、訴訟する者には自ら大義を説いたうえで帰って考えさせたので、訴訟はまれになった。孝子と貞節な婦人、孝順な孫を推挙して徭役を免除し、雌牛と雌馬、鶏・豚・犬を飼うことにまで規定を設けたので、家々は豊かになった。彼は、民が豊かになったので教えなければならないとして、冬には武芸を練習させ、学宮を開いて自ら経書を手に教えた。 正史 魏書 巻16 §29–30
韓遂と馬超が反乱を起こし、弘農と馮翊の諸県が呼応したときも、河東の民には二心がなかった。曹操が蒲阪で渭水を挟んで敵と対峙したとき、兵糧はもっぱら河東に頼り、敵を破ったのちも20余万斛が残った。曹操は杜畿を、孔子が禹について「非の打ちどころがない」と言ったような人物であるとして、俸禄を中二千石に上げた。漢中征伐のとき兵糧を運んだ5000人は「わが府君を裏切ることはできない」と言って一人も逃げなかった。 正史 魏書 巻16 §31–32
魏国が建てられると尚書となったが、曹操は、河東は手足のような郡なので、しばらく寝ながらでもそこを鎮めてほしいという令を下した。杜畿は河東に16年いて、常に天下第一であった。文帝が王位につくと関内侯となって朝廷の尚書として召され、帝位につくと豊楽亭侯に爵位が進み、司隷校尉を代行した。文帝紀には、黄初3年(222)7月に冀州で蝗が発生すると、尚書杜畿が節を授けられて倉を開いて救済したと記されている。 正史 魏書 巻16 §32–33正史 魏書 巻2 §33
文帝が呉を討ったとき、杜畿は尚書僕射として留守の事を司り、皇帝が許昌に行幸すると再び残って守った。詔を受けて皇帝が乗る楼船を造り、陶河で船を試したところ風に遭って沈んだ。文帝は涙を流し、孟津で船を試して水死するに至ったのは忠の極みであるという詔を下し、太僕を追贈した。諡は戴侯で、子の杜恕が跡を継いだ。 正史 魏書 巻16 §33–34
のちに杜恕が罪を犯して死刑に処されることになったとき、父杜畿が職務に励んで水死したとして、庶人に落とされるだけで済んだ。甘露2年(257)には90歳を超えた河東の楽詳が、杜畿の残した功績を書にして訴えると、朝廷は感動して杜恕の子杜預を豊楽亭侯に封じた。 正史 魏書 巻16 §73 · 77
陳寿は評で、杜畿は寛容と厳格をともに成し遂げ、恩恵によって民を安んじたと述べ、任峻・蘇則・鄭渾・倉慈とともに扱って、彼らは皆魏の名太守であろうとした。 正史 魏書 巻16 §98
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率62
- 武力38
- 知力78
- 政治86
- 魅力80
- 徳80
- 処世72
- 文芸55
- 弁舌66
- 用人45
項目別の根拠
正騎兵数十で張辟を守り、高幹・張晟・衛固の攻撃を防いだ魏書 巻16 §27
正直接の記録なし — 文官の太守として推定魏書 巻16 §27
正単身赴任して計略で衛固の一党を散らし、河東を守った魏書 巻16 §23魏書 巻16 §26
正河東16年天下第一、兵糧20余万斛を蓄えた。評:名太守魏書 巻16 §31魏書 巻16 §32魏書 巻16 §98
正官吏と民が城をあげて助け、輸送兵は一人も逃げなかった魏書 巻16 §27魏書 巻16 §32
正継母への孝行で名を知られた。詔が忠の極みと称えた魏書 巻16 §19魏書 巻16 §34
正范先が主簿ら30余人を斬っても泰然自若として生き延びた魏書 巻16 §24
正学宮を開いて自ら経書を手に教えた魏書 巻16 §30
正衛固を重ねて説得し、兵を散らして帰らせた魏書 巻16 §25魏書 巻16 §26
正直接の記録なし — 孝子・貞婦を推挙させた命令から推定魏書 巻16 §30
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。