正降伏したのちに背き、進言した牽招をひそかに害そうとした魏書 巻1 §93魏書 巻26 §46
高幹
人物紹介
高幹は陳留の人で、袁紹の甥(姉妹の子)である。正史には独立した伝がなく、武帝紀や袁紹伝など多くの人物の記録に登場する。袁紹は彼に并州を任せ、袁紹の死後に曹操が鄴を陥れると、高幹は并州ごと降伏してそのまま并州刺史となった。 正史 魏書 巻6 §40 · 49正史 魏書 巻1 §93
しかしまもなく并州をあげて反乱を起こし、壺関を守った。建安11年(206)、曹操が自ら攻めて壺関を三か月で陥れると、高幹は荊州へ逃れようとして上洛都尉王琰に捕らえられ、斬られた。 正史 魏書 巻1 §93–94
演義では第31回に、袁紹を助けるために并州から兵5万を率いて来る袁紹の甥として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が挙がる回はない。第33回で偽りの降伏の計略にかかって壺関を失い、劉表のもとへ向かう途中、上洛で王琰に殺される。 演義 第31回 §9演義 第33回 §27–29
正史の記録
高幹は陳留の人で、袁紹の甥(姉妹の子)である。従弟の高柔は、河北にいた高幹に呼ばれると一族をあげて彼に従った。 正史 魏書 巻6 §40正史 魏書 巻1 §93正史 魏書 巻24 §25
董卓が西へ関中に入ったのち、袁紹が軍を延津に返したとき、袁紹は韓馥の動揺に乗じて、高幹や潁川の荀諶らを遣わして韓馥を説得させた。彼らは、公孫瓚が勝ちに乗じて南へ向かい、袁車騎が軍を東へ向けているので将軍は危ういとして、冀州を袁氏に譲るよう勧めた。臆病であった韓馥はその計に従った。 正史 魏書 巻6 §40–42
袁紹は易京で公孫瓚を破ったのち、子の袁譚を青州に、袁熙を幽州に、甥の高幹を并州に置いた。并州牧高幹は鉅鹿の張臶を楽平令にしようと上表したが張臶は赴任せず、常林を騎都尉にしようとしたときも常林は辞退した。 正史 魏書 巻6 §49正史 魏書 巻11 §100正史 魏書 巻23 §21
袁紹の死後、袁尚が黎陽で曹操を防いでいたとき、袁尚は河東太守に任じた郭援、并州刺史高幹、匈奴の単于を遣わして平陽を奪い、関中の諸将と手を結ぼうとした。司隷校尉鍾繇が張既を遣わして馬騰を説得させると、馬騰は子の馬超に兵一万余人を与え、鍾繇とともに高幹と郭援を討たせた。馬超の将龐徳が郭援の首を斬り、高幹と単于はともに降伏した。 正史 魏書 巻15 §39–40正史 蜀書 巻6 §26正史 魏書 巻18 §68
建安9年(204)、曹操が鄴を包囲すると、袁尚の兵糧監督として上党に赴いていた牽招は、并州は山と川に守られ武装した兵が5万いるのだから、袁尚を迎えて力を合わせるよう高幹に勧めた。高幹はそうできなかったばかりか、ひそかに牽招を害そうとし、牽招は間道から抜け出して曹操のもとへ行った。鄴が陥落すると高幹は并州ごと降伏し、曹操は彼をそのまま并州刺史とした。 正史 魏書 巻26 §45–46正史 魏書 巻6 §66正史 魏書 巻1 §93
高幹は曹操が烏桓を討つと聞くと、并州をあげて背き、上党太守を捕らえたのち兵を挙げて壺関口を守った。曹操が遣わした楽進と李典が攻めると、壺関城に退いて守った。このころ河東の衛固・范先は、表向きは召還された太守王邑の留任を願うと称しながら、内実は高幹と謀を通じており、張琰も兵を挙げて呼応しようとした。高幹は濩沢に入り、衛固らとともに新太守の杜畿を攻めたが勝てなかった。高幹の従弟高柔は、このとき自ら曹操のもとに帰した。 正史 魏書 巻1 §93正史 魏書 巻17 §23正史 魏書 巻16 §21 · 27–28正史 魏書 巻15 §71正史 魏書 巻24 §26
建安11年(206)春正月、曹操が自ら高幹を討ちに来ると、高幹は将の夏昭・鄧升に城を任せ、匈奴へ行って単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。曹操は壺関を三か月包囲して陥れた。高幹は数騎とともに南の荊州へ逃れようとしたが、上洛都尉王琰に捕らえられて斬られた。のちに曹操を魏公に封じる策文は、袁譚と高幹がともに梟首されたことをその功として記し、并州刺史となった梁習は、高幹が乱したあとの并州を治めねばならなかった。 正史 魏書 巻1 §93–94 · 125正史 魏書 巻6 §69正史 魏書 巻15 §29
演義の描写
演義第31回で、袁紹が後継ぎについて迷っているとき、袁熙が幽州から、袁譚が青州から来て、甥の高幹も兵5万を率いて并州から来て戦いを助ける。倉亭の戦いで袁紹は三人の息子と甥一人を従えて陣頭に出るが、曹操の十面の伏兵にかかって大敗し、袁熙と高幹はともに矢傷を負う。袁紹は高幹を并州に帰して兵を集めさせ、のちに再び四路から曹操を討とうと彼を呼ぶ。 演義 第31回 §9 · 13 · 15 · 19–20 · 46
第32回で袁熙と高幹は黎陽の城外に兵を駐屯させて毎日曹操と対峙するが、建安8年(203)春2月、袁譚・袁尚とともに大敗し、黎陽を捨てて逃げる。冀州では城外30里に陣を構えて虚勢を張り、曹操が退くと別れを告げて帰っていく。 演義 第32回 §14 · 16
第33回で曹操は袁譚を殺したのち、李典・楽進を張燕と合流させて并州の高幹を攻めさせる。高幹が壺関口を守って落ちないので曹操が自ら来て、荀攸の計に従い、降将の呂曠・呂翔が偽って降ってきて、今夜曹操の陣営を襲おうと勧める。高幹は喜んで一万余人を率いて出るが伏兵に遭い、壺関城に戻ったときには楽進と李典がすでに関を奪っていた。 演義 第33回 §22 · 26–28
高幹は血路を開いて脱出し、単于の境で北番の左賢王に会ってひれ伏して救援を乞うが、左賢王は曹操と仇を結ばせるつもりかと彼を叱って退ける。高幹は劉表に身を寄せようと向かう途中、上洛で都尉王琰に殺され、王琰はその首を曹操に送って列侯に封じられる。 演義 第33回 §28–29
演義と異なる点
韓馥の説得:正史では、袁紹が高幹や荀諶らを遣わして、冀州を譲るよう韓馥を説得させる。演義第7回では荀諶が韓馥の謀士として袁紹を迎え入れるよう勧め、高幹は登場しない。 正史 魏書 巻6 §40–42演義 第7回 §4
倉亭の戦い:演義第31回で高幹は并州から兵5万を率いて来て倉亭の戦いに出陣し、矢に当たる。正史の武帝紀の倉亭の戦いには高幹は出てこない。 演義 第31回 §9 · 19正史 魏書 巻1 §73
平陽の戦い:正史で高幹は袁尚の命で郭援・匈奴の単于とともに平陽を奪いに行き、馬超・龐徳の軍に敗れて降伏する。演義第32回の高幹は黎陽と冀州で袁氏兄弟とともに曹操と戦い、演義には郭援と平陽の戦いは出てこない。 正史 魏書 巻15 §39–40正史 蜀書 巻6 §26演義 第32回 §14 · 16
降伏と反乱:正史で高幹は鄴が陥落すると并州ごと曹操に降伏して并州刺史となり、曹操が烏桓を討つと聞いて再び背く。演義第33回では、高幹は一度も降伏しないまま曹操の攻撃を受ける。 正史 魏書 巻1 §93正史 魏書 巻6 §66演義 第33回 §22
壺関を失った経緯:演義第33回では、呂曠・呂翔の偽りの降伏にだまされて夜襲に出た間に、楽進・李典に壺関を奪われる。正史では、高幹が将の夏昭・鄧升に城を任せて匈奴へ救援を求めに行っている間に、曹操が壺関を三か月包囲して陥れた。 演義 第33回 §26–28正史 魏書 巻1 §93–94正史 魏書 巻6 §69
匈奴への救援要請:演義第33回では北番の左賢王が高幹を叱って退ける。正史では匈奴の単于が受け入れなかったと記すだけである。 演義 第33回 §29正史 魏書 巻1 §93
死:演義第33回と正史の武帝紀はいずれも、高幹が荊州へ向かう途中、上洛の都尉王琰に殺されたとする。ただし正史は捕らえて斬ったと記し、王琰が列侯に封じられたという話は陳寿の本文にない。正史はその年を建安11年(206)と明記する。 演義 第33回 §29正史 魏書 巻1 §93–94
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5245−7
- 武力3535±0
- 知力3225−7
- 政治3835−3
- 魅力3038+8
- 徳1855+37
- 処世2225+3
- 文芸3533−2
- 弁舌4830−18
- 用人3235+3
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 8件 — 根拠を見る
正壺関を固く守り楽進・李典は破れなかったが、三か月の包囲で陥落した魏書 巻17 §23魏書 巻1 §94
正鄴襲撃の謀が事前に露見して兵は処刑され、平陽でも敗れた魏書 巻10 §39魏書 巻15 §40
演偽って降った呂曠・呂翔の夜襲の策を信じて関を失った第33回 §27
正并州を治めたが、その後豪族と盗賊がはびこったと記録される魏書 巻11 §100魏書 巻15 §29
演直接の記録なし — 并州に戻って兵を集めた事績から推定第31回 §20
正張臶・常林を招いたが、いずれも応じなかった魏書 巻11 §100魏書 巻23 §21
演直接の記録なし — 并州の兵を率いた事績から推定第31回 §9
正袁尚を迎えよという牽招の策を用いず、かえって害そうとした魏書 巻26 §45
演直接の記録なし — 降将を半ば信じた事績から推定第33回 §27
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。