袁譚
人物紹介
袁譚は袁紹の長男である。陳寿の本文は彼の字と出身を別に記していないが、辛毗の言葉の中で彼を「顕思」と呼んでおり、演義は彼の字を顕思と記す。袁紹が公孫瓚を破った後、青州を任された。 正史 魏書 巻6 §49正史 魏書 巻25 §4演義 第31回 §7
袁紹が死んで弟の袁尚が後を継ぐと、自ら車騎将軍と称し、袁尚と戦って押されると曹操に救援を求めた。のちに曹操との約束を破り、建安10年(205)正月に南皮で斬られた。 正史 魏書 巻6 §60 · 67正史 魏書 巻1 §76 · 80 · 87–88
陳寿は袁紹伝の評で、袁紹が嫡子を廃して庶子を立て、礼を捨てて寵愛を重んじたのだから、後継ぎが覆され社稷が崩れたのは不幸のためではないと記した。演義では第24回に青州刺史として初めて登場し、全120回のうち5回に登場するが、回目に名が載る回はない。第33回、南皮の戦いの最中に曹洪の刀にかかって死ぬ。 正史 魏書 巻6 §96演義 第24回 §26演義 第33回 §19
正史の記録
袁紹が易京で公孫瓚を破ったのち、長男袁譚を出して青州を治めさせると、沮授は必ず禍の始まりになると諫めた。袁紹は息子たちにそれぞれ一州ずつ持たせるつもりだと言って聞かなかった。袁譚は青州で王脩を招いて治中従事とし、のちに別駕とした。海辺の長広郡で豪傑の多くが背くと、袁譚は彼らに官位を与えることもあった。 正史 魏書 巻6 §49正史 魏書 巻11 §58正史 魏書 巻12 §45
建安4年(199)、袁術が困窮すると、袁譚は青州から人を送って彼を迎えようとしたが、袁術は北へ向かう途中で病死した。建安5年(200)、曹操に敗れた劉備が青州へ逃れると、かつて劉備が茂才に推挙した青州刺史袁譚は歩騎を率いて彼を迎え、平原まで同行して袁紹に知らせた。 正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻6 §80正史 蜀書 巻2 §17
官渡で曹操が淳于瓊を攻めると、袁紹は長男袁譚に「彼らが淳于瓊を攻めている隙に私がその陣営を奪えば、彼らは帰る所がなくなるであろう」と言って張郃と高覧を送った。しかし張郃らは淳于瓊が破れたと聞いて降伏し、袁紹と袁譚は軍を捨てて単騎で黄河を渡って逃げた。 正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54
袁紹は容貌の美しい末子袁尚を愛して後を継がせようとしたが、明らかにはしなかった。審配・逢紀は袁尚の側に、辛評・郭図は袁譚の側に立ち、人々は袁譚が長男であるとして彼を立てようとした。しかし審配らは、袁譚が立てば辛評らが自分たちを害するのではないかと恐れ、袁紹の平素の意向を持ち出して袁尚を奉じた。建安7年(202)5月に袁紹が死ぬと、袁譚は到着したものの立つことができず、自ら車騎将軍と称して黎陽に駐屯し、これによって兄弟の間に亀裂が生じた。 正史 魏書 巻6 §60正史 魏書 巻1 §76
同年9月、曹操が北へ攻めてくると、袁尚は黎陽の袁譚に兵を少しだけ与え、逢紀を付けて送った。袁譚は兵の増援を求めたが審配らが与えなかったため、怒って逢紀を殺した。袁尚は袁譚が兵を奪うのを恐れ、自ら兵を率いて来てともに戦ったが、兄弟は繰り返し敗れて堅く守り、建安8年(203)3月に大敗して夜に逃げた。 正史 魏書 巻1 §76–77正史 魏書 巻6 §61–62
曹操が劉表を討つため西平に至ると、袁譚と袁尚は冀州をめぐって争い、袁譚は敗れて平原へ逃げた。別駕王脩が官吏と民を率いて救援に来ると、袁譚は「我が軍を全うさせてくれたのは王別駕だ」と喜んだ。劉詢が漯陰で挙兵して諸城が呼応すると、「州を挙げて背を向けるのは、私に徳がないからではないか」と嘆いた。王脩は、兄弟は左手と右手であるとして、へつらう臣を何人か斬って袁尚と和睦するよう諫めたが、袁譚は喜ばず、聞き入れなかった。 正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62正史 魏書 巻11 §58–61
袁尚が平原を激しく攻めると、袁譚は辛毗を曹操のもとへ送って降伏し、救援を求めた。辛毗は、袁尚が顕思(袁譚)の窮地を見ながら取ることができないのは力が尽きたからだとして、今こそ鄴を攻めるべきだと言い、荀攸も兄弟が互いに仇となったのだから逃してはならない時だと勧めた。曹操は袁譚との和平を許し、10月に黎陽に至って子の曹整のために袁譚と婚姻を結んだ。袁尚の将呂曠と呂翔が曹操に降ると、袁譚はひそかに将軍の印を刻んで彼らに与えた。曹操は袁譚の偽りを知っていたが、婚姻で安心させて引き返した。 正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻25 §2–7正史 魏書 巻10 §61–62正史 魏書 巻6 §62–63
建安9年(204)、袁尚が再び平原の袁譚を攻めている間に、曹操は鄴を攻撃した。鄴が包囲されている間、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略し、中山の袁尚を攻めて故安へ追い払い、その兵をすべて収めた。曹操は約束を破ったと責める手紙を送って婚姻を絶ち、娘を帰したのち進軍した。袁譚は恐れて平原を捨て、南皮を併せて龍湊に駐屯したが、12月に曹操が城門の前に陣を敷くと、夜に南皮へ逃れて清河に臨んで駐屯した。 正史 魏書 巻1 §81 · 87正史 魏書 巻6 §63 · 67
建安10年(205)正月、曹操は南皮を包囲した。袁譚が出撃して曹操の兵が多く死ぬと、曹操は攻撃を緩めようとしたが、曹純が遠くまで来て退けば威厳を失うと言ったので急攻し、袁譚は敗れた。曹純配下の騎兵が袁譚の首を斬り、郭図らも斬られ、妻子も殺されて冀州は平定された。 正史 魏書 巻9 §45–46正史 魏書 巻6 §67正史 魏書 巻1 §88
兵糧を運んでいた王脩は、袁譚が危ういと聞いて駆けつける途中、高密でその死を聞き、「主君がいなくなって、どこへ帰ればよいのか」と慟哭した。王脩が曹操のもとに出向き、袁譚の遺体を収めて葬らせてほしいと願うと、曹操はその義を嘉して聞き入れた。 正史 魏書 巻11 §61–62
陳寿は袁譚を個別に評していない。董二袁劉伝の評は、袁紹は外面は寛大だが内心は猜疑深く、嫡子を廃して庶子を立て、礼を捨てて寵愛を重んじたのであるから、後継ぎが覆り社稷が傾き崩れたのは不幸のためではないとした。 正史 魏書 巻6 §96
演義の描写
演義第24回で、青州刺史袁譚は曹操に敗れて単騎で来た劉備を迎え入れ、父袁紹に知らせたのち、人馬を付けて護送する。第30回では、曹操が鄴郡と黎陽を攻めようとしていると聞いた袁紹が、彼に兵5万を分けて鄴郡を救わせる。第31回で袁紹は後継ぎを議し、「長男袁譚は性質が剛く殺しを好む」と言って袁尚を立てようとし、郭図は長男を廃すれば乱の芽になると止める。 演義 第24回 §26演義 第30回 §53演義 第31回 §7–9
第32回で父の死を知り、郭図を冀州に入らせて様子を探らせると、袁尚は兄に車騎将軍を加えると言って先鋒を頼み、くじ引きで逢紀を送る。袁譚は黎陽で大将汪昭を徐晃に討たれ、袁尚が送った5千まで全滅させられたのち、袁尚がそれ以上援軍を送らないので、逢紀を斬って曹操に降ろうとする。袁尚が自ら救いに来ると、降伏の議をやめる。 演義 第32回 §6–13
曹操が退くと、長男でありながら父の業を継げなかったとして、郭図の計略どおり袁尚と審配を酒宴に招いて殺そうとする。別駕王脩が兄弟は左手と右手であると諫めると、叱りつけて退ける。袁尚と激突して「お前は父上を毒殺して位を奪った」と罵るが、大敗して平原へ逃げ、袁尚に包囲されると辛毗を曹操のもとへ送って救援を求める。 演義 第32回 §16–20 · 22
袁尚が退く時に追撃し、殿を務めていた呂曠・呂翔兄弟を言葉で説いて降らせ、彼らを連れて曹操に会う。曹操は娘を袁譚の妻に与えることにし、呂曠・呂翔を仲人とする。袁譚は郭図の言に従って将軍の印を二つ刻み、ひそかに二人の呂氏に送るが、二人はこれを曹操に知らせる。 演義 第32回 §27–31
第33回では甘陵・安平・勃海・河間などを略奪し、中山の袁尚を攻めてその兵を降らせるが、曹操が呼んでも行かなかったため婚姻が絶たれる。曹操と陣を向かい合わせると、「お前が私の境界を侵し、私の城を奪い、私の妻との婚姻を反故にした」と言い返す。南皮に追い込まれて辛評を送って降伏を願い出たが受け入れられないと、辛評を二心を抱いていると責め、倒れて死なせる。郭図の言どおり民を先に立てて戦い、陣中で曹洪の刀にかかって死ぬ。曹操はその首を掛けて、哭する者は斬ると命じたが、哭していて捕らえられてきた王脩の願いを聞き入れ、遺体を収めて葬らせる。 演義 第33回 §10 · 15–19 · 20–22
演義と異なる点
車騎将軍:演義第32回では、袁尚が兄袁譚に車騎将軍を加えると言う。正史では、袁譚が後を継げなかったため自ら車騎将軍と称した。 演義 第32回 §7正史 魏書 巻6 §60正史 魏書 巻1 §76
逢紀:演義第32回で、逢紀はくじ引きで袁譚のもとへ行き、袁尚が援軍を送らないので袁譚が彼を斬る。正史では、袁尚が袁譚に兵を少しだけ与えて逢紀を付けて送り、袁譚が兵の増援を求めたが審配らが与えなかったため、逢紀を殺した。 演義 第32回 §8 · 12正史 魏書 巻6 §61
王脩の諫言:演義第32回で、王脩は袁尚を酒宴に招いて殺す計略を諫めて叱られ、退く。正史の王脩伝では、王脩は袁譚が袁尚に敗れた時に官吏と民を率いて救援して称えられ、袁譚が再び袁尚を攻めようとすると諫めた。袁譚は喜ばなかったがその忠節は知っていた。酒宴の計略は出てこない。 演義 第32回 §16–17正史 魏書 巻11 §58–61
呂曠・呂翔:演義第32回では、袁譚が二人の将を言葉で説いて降らせ、曹操のもとへ連れて行く。正史では、二人は袁尚に背いて陽平に駐屯し、兵を率いて曹操に降って列侯となり、袁譚はのちにひそかに将軍の印を刻んで彼らに与えた。 演義 第32回 §27–28正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62
婚姻:演義第32回で、曹操は娘を袁譚の妻に与えることにする。正史の武帝紀では、曹操が子の曹整のために袁譚と婚姻を結び、のちに袁譚が約束を破ったと責めて婚姻を絶ち、娘を帰した。 演義 第32回 §28正史 魏書 巻1 §80 · 87
辛評:演義第33回で、辛評は南皮から曹操のもとへ使者として行ったのち、袁譚に責められて倒れて死ぬ。正史で袁譚が曹操のもとへ使者として送ったのは平原にいた時の辛毗であり、辛評が死んだ経緯は陳寿の本文にない。 演義 第33回 §16–17正史 魏書 巻25 §2正史 魏書 巻6 §59–70
南皮の戦い:演義第33回では、袁譚が郭図の言どおり民を先に立てて戦い、曹操は山に登って自ら太鼓を打って勝つ。正史では、袁譚が出撃して曹操の兵が多く死ぬと、曹操は攻撃を緩めようとしたが、曹純の言に従って急攻して勝った。 演義 第33回 §17–18正史 魏書 巻9 §45
袁譚を斬った者:演義第33回では、曹洪が陣中で袁譚を斬り、郭図は楽進の矢に当たって堀に落ちる。正史では、曹純配下の騎兵が袁譚の首を斬り、郭図らもともに斬られた。 演義 第33回 §19正史 魏書 巻9 §46正史 魏書 巻6 §67
王脩の哭:演義第33回で、曹操は袁譚の首を掛けて哭する者は斬ると命じ、王脩が哭していて捕らえられてくる。正史の王脩伝では、王脩は高密で袁譚の死を聞いて慟哭したのち、自ら曹操のもとへ行って遺体を収めさせてほしいと願い出ており、首を掛ける命令は出てこない。 演義 第33回 §20–22正史 魏書 巻11 §61–62
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5035−15
- 武力3840+2
- 知力3230−2
- 政治3533−2
- 魅力5040−10
- 徳2220−2
- 処世1818±0
- 文芸3533−2
- 弁舌4542−3
- 用人4530−15
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正王脩を別駕に、管統を楽安太守に用いたが、諫言は退けた魏書 巻11 §58
正王脩・管統が命がけで従ったが、劉詢の反乱に諸城が呼応した魏書 巻11 §59魏書 巻11 §61
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正王脩の諫言を聞かず弟と争い、印の偽りを太祖に見抜かれた魏書 巻11 §59魏書 巻6 §63
正青州を治めたが、敗れると州を挙げて背かれたと自ら嘆いた魏書 巻6 §49魏書 巻11 §59
演直接の記録なし — 青州刺史の職から推定第24回 §26
正弟を攻めるため太祖に救援を求め、冀州平定後に再び背いた魏書 巻1 §80魏書 巻11 §61
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。