辛評
人物紹介
辛評は袁紹に仕えた謀臣である。荀彧と同じ潁川郡の人で、荀彧が袁紹のもとへ行ったとき、すでに郭図とともに袁紹に任用されており、弟の辛毗も彼に従って袁紹に仕えた。 正史 魏書 巻10 §2 · 4正史 魏書 巻25 §2
袁紹の死後、郭図とともに長子袁譚の側についたが、袁尚側の審配・逢紀が袁紹の日頃の意向を口実に袁尚を立てた。陳寿の本文には独立した伝がなく、その後の事績と死も記されていない。 正史 魏書 巻6 §60 · 67
演義では第7回に韓馥の謀士として初めて登場し、全120回のうち4回に登場するが、回目に名は見えない。第33回では袁譚の降伏の使者として曹操に会って戻り、二心を抱いたのかと袁譚に叱責されて倒れ、死ぬ。 演義 第7回 §4演義 第33回 §16–17
正史の記録
辛評は正史に独立した伝がない。陳寿の本文では荀彧・辛毗・郭嘉の伝と袁紹の伝(魏書巻6 董二袁劉伝)に、合わせて4回名が見える。 正史 魏書 巻10 §4正史 魏書 巻25 §2正史 魏書 巻14 §31正史 魏書 巻6 §60
荀彧は潁川郡潁陰県の人である。荀彧が一族を率いて冀州へ行ったとき、袁紹はすでに韓馥の地位を奪っており、荀彧を上賓の礼で遇した。このとき荀彧の弟荀諶と同郡の辛評・郭図は、みな袁紹に任用されていた。荀彧は袁紹が結局大事を成し得ないと見て取り、初平2年(191)に袁紹のもとを去って曹操に従った。 正史 魏書 巻10 §2 · 3–4
辛毗の伝は、辛毗が潁川郡陽翟県の人で、その先祖が建武年間に隴西から東へ移ってきたと記す。辛毗は兄の辛評に従って袁紹に仕え、曹操が司空となって辛毗を招いたが、辛毗は招きに応じることができなかった。 正史 魏書 巻25 §2
郭嘉は初め北へ行って袁紹に会ったが、袁紹の謀臣辛評と郭図にこう言った。「知者は主君を見定めるのに慎重であり、それゆえ百たび事を挙げて百たび全うし、功名を立てることができるのです。袁公はただ周公が士にへりくだったのを真似ようとするばかりで、人を用いる要諦を知りません。事の端緒は多いが要点は少なく、謀を好むが決断がないので、彼とともに天下の大難を救い覇王の大業を定めようとしても難しいでしょう。」郭嘉はそのまま袁紹のもとを去った。 正史 魏書 巻14 §31
袁紹は軍が敗れてから病を得て、建安7年(202)に憂えて死んだ。袁紹は末子の袁尚を愛して後継ぎにしようとしたが、まだ明らかにしていなかった。審配・逢紀は辛評・郭図と権力を争い、審配と逢紀は袁尚に、辛評と郭図は袁譚についた。人々は袁譚が長子であるとして彼を立てようとしたが、審配らは袁譚が立てば辛評らが自分たちに害をなすことを恐れ、袁紹の日頃の意向を口実に袁尚を奉じて袁紹の地位を継がせた。袁譚は到着したものの立つことができず、自ら車騎将軍と称し、これによって袁譚と袁尚の間に溝が生じた。 正史 魏書 巻6 §58 · 60
その後、袁譚と袁尚が互いに攻め合って袁譚が平原へ逃れると、袁譚は辛評の弟辛毗を曹操のもとへ遣わして救援を求めた。陳寿の本文にはこれ以降、辛評の名は現れない。建安10年(205)正月に曹操が南皮を陥落させて袁譚と郭図らを斬った場面にも辛評はおらず、彼の死は記されていない。 正史 魏書 巻6 §62 · 67正史 魏書 巻25 §2
演義の描写
演義第7回で、袁紹は公孫瓚に、ともに冀州を攻めてその地を等分しようという手紙を送っておきながら、人を遣わしてひそかに韓馥に知らせる。韓馥はあわてて荀諶と辛評の二人の謀士を集めて協議し、荀諶が袁紹を招いてともに州の政事を治めさせるよう勧めると、別駕の関純を遣わして袁紹を招く。この場で辛評が述べた言葉は記されていない。 演義 第7回 §3–5
第31回で、官渡で敗れて冀州に戻った袁紹は、妻の劉氏に袁尚を後継ぎに立てるよう勧められ、審配・逢紀・辛評・郭図の四人と協議する。演義は、審配と逢紀はかねてから袁尚を、辛評と郭図は袁譚を支持して補佐し、四人がそれぞれ自分の主のために動いたと記す。郭図が、長子を廃して幼い子を立てれば乱の芽になると述べると、袁紹はためらって決められない。倉亭で敗れたのち、袁紹は辛評と郭図に、袁譚に従って急ぎ青州へ行き軍を整えさせる。 演義 第31回 §7–9 · 20
第32回で、袁譚はすでに兵を起こして青州を発ったところで父袁紹の死を知り、郭図・辛評と協議する。郭図が急いで行くべきだと言うと、辛評は「審配と逢紀の二人はきっと前もって計略を定めているでしょう。いま急いで行かれれば、必ず禍に遭われます」と言う。曹操の軍が退いたのち、袁譚が再び郭図・辛評と協議し、長子である自分が父の業を継げなかったのが納得できないと言うと、郭図は袁尚と審配を酒宴に招いて殺す計略を出す。平原で袁尚に包囲されると、郭図は曹操に使者を送ろうと言い、「辛評の弟辛毗」を使者に推薦する。 演義 第32回 §6 · 16 · 20–21
第33回で、袁譚は曹操に敗れて南皮に退き四方を包囲されると、あわてて辛評を曹操のもとへ遣わして降伏を約束させる。曹操は、袁譚は反覆して定まりがなく信じがたいと言い、弟の辛毗はすでに重用しているので辛評もここにとどまるがよいと言う。辛評は「主が貴ければ臣は栄え、主が憂えれば臣は辱められると申します。わたしは長く袁氏に仕えてきたのに、どうして背くことができましょうか」と答え、曹操は彼を引きとめられないと知って帰らせる。 演義 第33回 §16
戻った辛評が、曹操は降伏を受け入れないと報告すると、袁譚は「お前の弟はいま曹操に仕えている。お前も二心を抱いているのか」と叱りつける。辛評は憤りが胸に満ちて地に倒れて気を失い、袁譚は助け起こして連れ出させたが、まもなく死ぬ。演義は袁譚もこれを悔やんだと記す。 演義 第33回 §17
演義と異なる点
韓馥の謀士:演義第7回で辛評は荀諶とともに韓馥の謀士として登場し、韓馥が袁紹を呼び入れる協議の場にいる。正史の荀彧の伝は、袁紹が韓馥の地位を奪ったのち荀諶と辛評・郭図がみな袁紹に任用されていたと記すだけで、辛評が韓馥に仕えたことは記さない。 演義 第7回 §4正史 魏書 巻10 §4
後継の協議:演義第31回では、袁紹が存命中に辛評ら四人を集めて後継ぎを協議する。正史では、袁紹は袁尚を後継ぎにする意向を明らかにしないまま死に、その後審配らが袁紹の日頃の意向を口実に袁尚を立てた。辛評と郭図が袁譚の側についたことは両方の記録で同じである。 演義 第31回 §7–9正史 魏書 巻6 §58 · 60
袁紹死後の進言:演義第32回で辛評は袁譚に、いま急いで冀州へ行けば禍に遭うと言う。正史では袁譚が到着したものの立つことができず自ら車騎将軍と称したとだけ記し、辛評の言葉は出てこない。 演義 第32回 §6正史 魏書 巻6 §60
辛毗を使者に送ったこと:演義第32回では郭図が袁譚に、辛評の弟辛毗を使者として推薦する。陳寿の本文は、袁譚が辛毗を曹操のもとへ遣わして救援と和睦を求めたとだけ記し、推薦した人物は明らかにしない。 演義 第32回 §21正史 魏書 巻6 §62正史 魏書 巻25 §2
南皮の降伏の使者:演義第33回で辛評は南皮で袁譚の降伏の使者として曹操に会い、曹操がとどまるよう言うと、袁氏に背くことはできないとして帰っていく。正史で曹操が南皮を陥落させて袁譚と郭図らを斬った場面には、辛評は登場しない。 演義 第33回 §16正史 魏書 巻6 §67
死:演義第33回で辛評は、二心を抱いたのかという袁譚の叱責に憤りがこみ上げて倒れ、死ぬ。陳寿の本文には辛評の死は記されていない。 演義 第33回 §17正史 魏書 巻6 §60 · 67正史 魏書 巻25 §2
郭嘉の言葉:正史の郭嘉伝では、郭嘉が袁紹のもとを去る前に辛評と郭図に、袁紹は人を用いる要諦を知らず、謀を好むが決断がないと語る。演義で辛評が登場する4回には、この場面はない。 正史 魏書 巻14 §31演義 第7回 §4演義 第31回 §7演義 第32回 §6演義 第33回 §16
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3535±0
- 武力3131±0
- 知力4855+7
- 政治4040±0
- 魅力4040±0
- 徳3578+43
- 処世3835−3
- 文芸4040±0
- 弁舌4550+5
- 用人3840+2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 9件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 袁紹の謀臣であることから推定魏書 巻14 §31
演審配・逢紀が前もって計略を定めているので、急げば禍に遭うと見抜いた第32回 §6
正直接の記録なし — 謀臣から推定魏書 巻14 §31
演袁譚の使者として曹操のもとへ行き、降伏を約束した第33回 §16
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻14 §31
演直接の記録なし — 事績から推定第31回 §7
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。