王脩

正史演義 魏 字 叔治 Wang XiuShuzhi왕수숙치王修

プロフィール
職業正文官 · 奉常 演文官 · 別駕所属魏
登場正演収録魏書
出生出身地北海国 営陵県
死因正病死 推定
実在実在言及正23回

人物紹介

王脩は字を叔治といい、北海国営陵県の人である。北海の孔融のもとで高密令と膠東令を代行して豪族を抑え、孔融が危難に遭うたびに駆けつけて救った。のちに袁譚の別駕となり、袁尚と争わないよう諫めた。 正史 魏書 巻11 §54–61

袁譚が死ぬと曹操のもとに出向いて遺体を引き取って葬らせてほしいと願い、許された。曹操は彼の家に穀物が十斛にも満たず、書物だけが数百巻あるのを見て、彼を召して司空掾とした。魏郡太守を経て、魏国が建てられたのちは大司農・郎中令・奉常を務め、在職中に病で死去した。 正史 魏書 巻11 §61–65

正史を著した陳寿は評で「王脩は忠貞で、世俗を正すに足りた」と述べた。演義には第32回に袁譚の別駕として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、名が回目に入った回はない。第33回では、さらされた袁譚の首の下で哭していて曹操の前に引き出される。 正史 魏書 巻11 §111演義 第32回 §17演義 第33回 §20–21

正史の記録

王脩は字を叔治といい、北海国営陵県の人である。七歳で母を亡くしたが、母が社日に世を去ったため、翌年近隣の村で社の祭りを行うと母を思って激しく悲しんだ。近隣の人々はこれを聞き、彼のために社の祭りを取りやめた。二十歳で南陽に遊学して張奉の家に身を寄せたが、張奉の一家がそろって病にかかり世話をする者がいなかったので、自ら看病し、病が癒えてから去った。 正史 魏書 巻11 §54

初平年間、北海の孔融が彼を召して主簿とし、高密令を代行させた。高密の豪侠の家孫氏は食客がたびたび法を犯しており、強盗がその家に逃げ込むと役人は捕らえられなかった。王脩は官吏と民を率いてその家を囲み、攻めようとしない者は同罪とすると命じた。孫氏は恐れて賊を差し出し、これ以後豪族や権勢家は恐れ服従した。孝廉に推挙されると邴原に譲ろうとしたが孔融は聞き入れず、天下が乱れていたため結局行かなかった。 正史 魏書 巻11 §54–55

まもなく郡内で反乱が起こると、王脩は孔融が危難にあると聞いて夜に駆けつけた。孔融が左右に、危険を冒して来る者は王脩だけだと言い終わるや王脩が到着した。再び功曹となり、膠東に賊が多かったため膠東令を代行した。膠東の人公沙盧が一族の力を頼んで陣営と堀を築き、徴発に応じなかったので、王脩はただ数騎を率いてその家の門に入り、公沙盧兄弟を斬った。孔融が危難に遭うたびに、王脩は休暇で家に帰っているときでも駆けつけないことはなく、孔融はいつも彼を頼りに禍を免れた。 正史 魏書 巻11 §56–57

袁譚が青州にいたとき彼を召して治中従事としたが、別駕の劉献がたびたび王脩をそしった。のちに劉献がある事で死罪となると、王脩が弁護して死を免れさせ、人々はこのことで彼をいっそう高く評価した。袁紹も彼を召して即墨令に任じ、のちに再び袁譚の別駕となった。袁紹の死後、袁尚が袁譚を攻めて袁譚の軍が敗れると、王脩は官吏と民を率いて救援に向かい、袁譚は自分の軍を全うさせてくれたのは王別駕だと喜んだ。 正史 魏書 巻11 §58

袁譚が敗れたのち、劉詢が漯陰で挙兵して多くの城が呼応すると、王脩は東萊太守管統だけは背かず、必ず来るだろうと言った。十日余りのち管統は果たして妻子を捨てて駆けつけ、その妻子は賊に殺された。袁譚が再び袁尚を攻めようとすると、王脩は兄弟が互いに攻め合うのは敗亡の道だと諫めた。袁譚は喜ばなかったが、その忠節は認めた。 正史 魏書 巻11 §59–60

袁譚がのちに再び計略を尋ねると、王脩は、兄弟は左右の手であり、戦おうとしながら自分の右手を切り落として必ず勝つと言うのが正しいだろうかと述べ、讒言する者たちがその間を裂いて一時の利を求めようとしているのだから耳を塞ぎ、へつらう臣を数人斬って再び親睦すれば天下を縦横に行けると言った。袁譚は聞き入れずに袁尚と戦い、曹操に救援を求めた。曹操が冀州を破ったのち袁譚が再び背くと、曹操は南皮で彼を攻めた。楽安で兵糧を運んでいた王脩は袁譚が危ういと聞いて兵と従事数十人を率いて駆けつけたが、高密に至って袁譚が死んだと聞き、馬を下りて「主君がいないのに、どこへ帰ればよいのか」と号泣した。武帝紀は建安10年(205)春正月に袁譚を斬ったと記している。 正史 魏書 巻11 §60–61正史 魏書 巻1 §88

王脩は曹操のもとに出向いて袁譚の遺体を引き取って葬らせてほしいと願った。曹操がその意志を見ようと黙って答えずにいると、袁氏から厚い恩を受けたので、遺体を引き取って納棺できさえすれば、そののち殺されても恨みはないと再び述べた。曹操はその義を称えて願いを聞き入れ、彼を督軍糧として楽安へ帰した。諸城はみな服従したが、管統だけは楽安に拠って命に従わなかった。曹操は王脩に管統の首を持ってくるよう命じたが、王脩は管統を亡国の忠臣と考えて縛めを解き、曹操のもとへ送った。曹操は喜んで管統を赦した。 正史 魏書 巻11 §62–63

袁氏の政治が寛大であったため、職と権勢を持つ者たちは多くの財を蓄えており、曹操は鄴を破ったのち審配らの財物を没収したが、それは万単位にのぼった。ところが南皮を破ったのち王脩の家を調べると、穀物は十斛にも満たず、書物が数百巻あった。曹操は、士はみだりに名を得るものではないと嘆息し、礼を尽くして彼を召して司空掾とし、司金中郎将を代行させた。のちに魏郡太守に移り、強い者を抑えて弱い者を助け、賞罰を明らかにしたので、民は彼を称えた。 正史 魏書 巻11 §63

魏国が建てられると大司農・郎中令となった。曹操が肉刑を行うことを議論すると、まだ行うべき時ではないと述べ、曹操はその意見を採った。奉常に移ったのち、厳才が手下数十人とともに掖門を攻める変事が起こると、王脩は車馬を呼んだが来なかったので、属官を率いて歩いて宮門に至った。曹操は銅爵台からこれを望み見て、あそこに来るのはきっと王叔治だろうと言った。相国鍾繇が、都に変事があれば九卿はそれぞれ役所にとどまるのが古くからの慣例だと言うと、王脩は、禄を食みながらどうしてその難を避けられようか、それは危難に駆けつける義ではないと答えた。まもなく在職中に病で死去し、子の王忠は官が東萊太守・散騎常侍に至った。 正史 魏書 巻11 §64–65

王脩は高柔を弱冠のころに見抜き、王基を幼い子どもであったころから非凡だと見たが、二人ともついに高位に至ったので、世の人は彼が人を見る目があると称えた。陳寿は評で、田疇は節を曲げず、王脩は忠貞で世俗を正すに足りたと述べ、この巻の人々をあわせて記録した理由を明らかにした。 正史 魏書 巻11 §66 · 111

演義の描写

演義第32回で、袁譚は父の跡を袁尚が継いだことを悔しく思い、郭図の策に従って袁尚を酒宴に招いて殺そうとする。ちょうど青州から来た別駕王脩にこの策を告げると、王脩は兄弟は左右の手のようなものだとして、他人と争いながら自分の右手を切り落として必ず勝つと言うことができようかと諫める。讒言する者たちが骨肉を裂いて一時の利を求めているのだから耳を塞ぐようにとの言葉に、袁譚は怒って彼を叱りつけて退け、袁尚を招きに人を送る。 演義 第32回 §16–17

第33回で袁譚が南皮で曹洪に殺されると、曹操は袁譚の首を北門の外に掛け、哭する者は斬れと命じる。布の冠に喪服を着てその首の下で哭していた者が引き立てられてくるが、それは袁譚を諫めて追われた青州の別駕王脩であった。彼は袁譚が死んだことを知って哭しに来たのである。 演義 第33回 §19–20

曹操が命令を知っていたかと問うと王脩は知っていると答え、死ぬのが怖くないのかという問いには、生前にその召しを受けておきながら死んだときに哭さないのは義ではなく、死を恐れて義を忘れればどうして世に立てようかと言う。袁譚の遺体を引き取って葬れさえすれば死んでも恨みはないという言葉に、曹操は河北にはなぜこれほど義士が多いのかと言い、袁氏が彼らを用いられなかったことを惜しむ。 演義 第33回 §21

曹操は袁譚の遺体を引き取って葬らせ、王脩を上賓として遇して司金中郎将とする。続いて袁熙のもとへ行った袁尚を捕らえる策を尋ねるが、王脩が答えないので、曹操は忠臣だと言って郭嘉に改めて尋ねる。 演義 第33回 §22

演義と異なる点

諫言の時期:演義第32回で王脩は、袁譚が袁尚を酒宴に招いて殺そうとする策を聞いて諫め、叱られて退けられる。正史では、袁譚が再び袁尚を攻めようとしたときに諫め、袁譚は喜ばなかったがその忠節を認め、のちに改めて計略を尋ねた。酒宴の策は正史の王脩伝にない。 演義 第32回 §16–17正史 魏書 巻11 §59–61

袁譚が死んだとき:演義第33回で王脩は、諫めて追われた身で袁譚の死を知って哭しに来る。正史では、王脩はそのとき楽安で兵糧を運んでおり、袁譚が危ういと聞いて兵と従事数十人を率いて駆けつける途中、高密で袁譚の死を聞いた。 演義 第33回 §20正史 魏書 巻11 §61

哭した場所と曹操の命令:演義第33回では、北門の外に掛けられた袁譚の首の下で哭していて、哭する者は斬れという曹操の命令によって捕らえられてくる。正史では、高密で馬を下りて号泣したのち、自ら曹操のもとに出向いて遺体の引き取りを願った。哭する者を斬れという命令は、正史の王脩伝にも武帝紀のこの条にもない。 演義 第33回 §20正史 魏書 巻11 §61–62正史 魏書 巻1 §88

曹操の応答:演義第33回で曹操は、河北には義士が多いのに袁氏は用いられなかったと惜しむ。正史では、曹操は王脩の意志を見ようと黙って答えず、彼が再び願うとその義を称えて聞き入れた。 演義 第33回 §21正史 魏書 巻11 §62

司金中郎将となった経緯:演義第33回では、袁譚を葬らせたその場で上賓として遇して司金中郎将とする。正史では、まず督軍糧として楽安へ帰し、南皮を破ったのち彼の家に穀物が十斛にも満たず書物だけが数百巻あるのを見て、はじめて司空掾として召し、司金中郎将を代行させた。 演義 第33回 §22正史 魏書 巻11 §62–63

袁尚を討つ策:演義第33回で曹操が袁尚を捕らえる策を尋ねると王脩は答えず、曹操は彼を忠臣と言う。正史の王脩伝にこの問答はなく、代わりに管統の首を持ってくるよう命じられながら、彼を亡国の忠臣と考えて縛めを解いて曹操のもとへ送った話がある。演義には管統は登場しない。 演義 第33回 §22正史 魏書 巻11 §62–63

前後の生涯:演義は袁譚の別駕であったころと第33回の場面だけを描く。正史には、孔融のもとで高密令・膠東令を代行したこと、袁譚を救ったこと、魏郡太守と大司農・郎中令・奉常を務め、厳才の変事のとき歩いて宮門へ駆けつけたことまで記されている。 演義 第32回 §17演義 第33回 §22正史 魏書 巻11 §54–65

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率5031−19
  • 武力5531−24
  • 知力6252−10
  • 政治7245−27
  • 魅力6245−17
  • 徳9090±0
  • 処世5848−10
  • 文芸4538−7
  • 弁舌6055−5
  • 用人7540−35
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

武力正55演31推定 −24

正数騎で公沙盧の家に入り、その兄弟を斬った魏書 巻11 §56

演直接の記録なし — 文官の役割から推定第32回 §17

統率正50演31推定 −19

正官吏と民を率いて駆けつけ、袁譚の敗軍を全うさせた魏書 巻11 §58

演直接の記録なし — 別駕の職務から推定第32回 §17

近い項目 3件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷 所属変更 1回

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻11 「脩為司金中郎將」
  2. 孔融勢力 · 正史 · 「初平中,北海孔融召以為主簿」 · 「復署功曹」(sgz-wei-11:s56)