淳于瓊
人物紹介
淳于瓊は袁紹の武将である。正史には独立した伝がなく、武帝紀と袁紹伝、そして荀彧・荀攸・楽進・張郃の伝の官渡の戦いの箇所にのみ現れる。建安5年(200)2月、郭図・顔良とともに白馬の東郡太守劉延を攻めに出陣し、その年の冬10月には兵1万余りを率いて袁紹の穀物輸送車を護送し、烏巣に宿営した。 正史 魏書 巻1 §58 · 60 · 68正史 魏書 巻6 §53正史 魏書 巻10 §32 · 59正史 魏書 巻17 §21 · 42
袁紹のもとから逃れてきた許攸が淳于瓊らを討つよう勧めると、曹操は自ら歩兵・騎兵5千を率いて烏巣を攻めた。淳于瓊は陣営を守ったが破られて斬られ、この知らせに張郃と高覧が曹操に降伏したことで、袁紹の軍は大いに崩れた。 正史 魏書 巻1 §69–70
演義では第3回に左軍校尉として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、名が回目に入った回はない。第30回で演義は彼を、気性が荒く酒を好み、烏巣で終日酒を飲み、酔って寝ているところを曹操に襲撃される武将として描く。 演義 第3回 §22演義 第30回 §21 · 39
正史の記録
建安5年(200)2月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して白馬で東郡太守劉延を攻めさせ、自らは兵を率いて黎陽に至り、黄河を渡ろうとした。4月、曹操は劉延を救うため北上し、荀攸の策に従って白馬を急襲し、顔良を斬って包囲を解いた。 正史 魏書 巻1 §58 · 60–61
袁紹は陣営を連ねて官渡に進み、曹操と数か月にわたって対峙した。その年の冬10月、袁紹は車で穀物を運ばせ、淳于瓊ら5人に兵1万余りを率いて護送させ、彼らは袁紹の陣営の北40里の地に宿営した。袁紹伝は、このとき沮授が将の蒋奇を派遣して外側に別の支隊を置き、曹公の略奪を断つよう進言したが袁紹は従わず、淳于瓊が宿営したのは袁紹の軍営から40里離れた烏巣であったと記す。 正史 魏書 巻1 §64 · 68正史 魏書 巻6 §53
袁紹の謀臣許攸が曹操のもとへ逃れてきて、淳于瓊らを討つよう勧めた。荀攸の伝によれば、許攸は、袁紹が淳于瓊らに1万余りの兵を与えて輸送される兵糧を迎えさせたが、将は驕り兵卒は怠けているので、要所を遮って攻撃できると言った。左右は疑ったが、荀攸と賈詡が勧めたので、曹操は曹洪を残して守らせ、自ら歩兵・騎兵5千を率いて夜に出発し、夜明けごろに到着した。 正史 魏書 巻1 §69正史 魏書 巻10 §59–60
淳于瓊らは曹操の兵が少ないのを見て、陣営の門の外に出て陣を布いた。曹操が急襲すると淳于瓊は退いて陣営を守り、曹操は陣営を攻めた。袁紹側では張郃が、曹公の兵は精鋭なので必ず淳于瓊らを破るだろう、そうなれば大事は終わるので急いで救援すべきだと言ったが、郭図はむしろ曹操の本営を攻めるべきだと反対した。袁紹は長子袁譚に、彼らが淳于瓊らを攻める隙にその陣営を奪えば、彼らは帰る所がなくなるだろうと言い、軽騎兵だけを送って淳于瓊を救援させ、張郃と高覧には曹操の陣営を攻めさせた。 正史 魏書 巻1 §69–70正史 魏書 巻17 §43
袁紹の騎兵が迫ると、左右は兵を分けて防ぐよう求めたが、曹操は、敵が背後に来たらその時に報告せよと怒った。兵士たちは皆決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大いに破って全員を斬った。楽進の伝は、楽進が官渡で力戦し、袁紹の将淳于瓊の首を斬ったと記す。 正史 魏書 巻1 §69–70正史 魏書 巻17 §21
張郃らは淳于瓊が破れたと聞くと来降し、袁紹の軍は大いに崩れ、袁紹と袁譚は軍を捨てて黄河を渡って逃げた。荀彧の伝は、兵糧が尽きて許へ戻ろうとした曹操を、荀彧が今こそ奇策を用いる時だとして留まらせ、ついに奇兵で袁紹の別屯を襲ってその将淳于瓊らを斬ると、袁紹は退却して逃げたと記す。 正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54正史 魏書 巻10 §31–32
演義の描写
演義第3回で、閔貢が皇帝と陳留王を奉じて崔毅の荘園を発つと、司徒王允、太尉楊彪、右軍校尉趙萌、後軍校尉鮑信、中軍校尉袁紹らとともに、左軍校尉として御車を迎える。第22回では、袁紹と戦うことを協議する曹操に孔融が和睦を勧め、高覧・張郃・淳于瓊らもみな世に名高い将であると言う。 演義 第3回 §22演義 第22回 §29–30
第30回の官渡の戦いで、淳于瓊は張郃・高覧・韓猛らとともに袁紹の陣前の左右に並ぶ。韓猛が兵糧を守って敗れると、審配は烏巣は兵糧を蓄えた所なので大軍で守るべきだと言い、袁紹は大将淳于瓊に眭元進ら督将を率いさせ、人馬2万で烏巣を守らせる。演義は、淳于瓊は気性が荒く酒を好んだので兵士の多くが彼を恐れ、烏巣に着くと終日諸将と集まって酒を飲んだと描く。 演義 第30回 §5 · 20–21
曹操に投降した許攸は、淳于瓊は酒を好んで備えがないので、袁紹の将蒋奇が兵糧を守りに来たと偽って行き、兵糧と輜重を焼き払うよう勧める。袁紹の陣営では沮授が天文を観て烏巣に備えるよう進言するが、袁紹は怒って叱りつける。曹操は袁紹軍の旗を掲げ、蒋奇の軍だと偽って通過し、四更がすでに尽きた頃に烏巣に着く。 演義 第30回 §32 · 35–37 · 39
曹操の兵が四方に火を放ち、太鼓を打って攻め込んできたとき、淳于瓊は諸将と酒を飲んで酔い、幕舎の中で寝ていたが、何の騒ぎかと問うているうちに鉤に掛けられて引き倒される。捕らえられて引き出されると、曹操は彼の耳と鼻と指を切り落とさせ、馬上に縛りつけて袁紹の陣営に送り返し、辱める。 演義 第30回 §39–41
袁紹は烏巣で敗れて戻った軍馬を収容していて、耳と鼻がなく手足を切り落とされた淳于瓊を目にする。なぜ烏巣を失ったのかと問うと、敗残兵が、淳于瓊が酔って寝ていたので敵を防げなかったと答えたため、袁紹は怒ってただちに彼を斬る。 演義 第30回 §46–47
演義と異なる点
初登場:演義第3回で、淳于瓊は左軍校尉として御車を迎える官員たちの中に現れる。陳寿の本文では、淳于瓊は建安5年(200)の白馬攻撃で初めて現れ、その官職は記されていない。 演義 第3回 §22正史 魏書 巻1 §60 · 68–70正史 魏書 巻6 §53–54正史 魏書 巻10 §32 · 59–60正史 魏書 巻17 §21 · 42–44
白馬:正史の武帝紀では、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を白馬へ派遣する。演義第25回では、袁紹が大将顔良を先鋒として白馬を攻めさせるだけで、淳于瓊は登場しない。 正史 魏書 巻1 §60演義 第25回 §39
烏巣の兵:演義第30回で、淳于瓊は眭元進ら督将を率い、人馬2万で烏巣を守る。正史の武帝紀は淳于瓊ら5人が兵1万余りで穀物輸送車を護送したとし、袁紹伝も1万余りと記す。 演義 第30回 §20正史 魏書 巻1 §68正史 魏書 巻6 §53
酒:演義第30回は、淳于瓊が酒を好み、烏巣で終日酒を飲み、曹操が攻め込んだときには酔って寝ていたと描く。陳寿の本文には酒の話はない。荀攸の伝で許攸は将が驕り兵卒が怠けていると言い、武帝紀では淳于瓊らは陣営の門の外に出て陣を布き、その後退いて陣営を守った。 演義 第30回 §21 · 39正史 魏書 巻10 §59正史 魏書 巻1 §69 · 68–70正史 魏書 巻6 §53–54正史 魏書 巻17 §21 · 42–44
救援軍と蒋奇:演義第30回で、袁紹は蒋奇に兵1万を与えて烏巣の救援に送り、蒋奇は張遼に斬られる。正史の袁紹伝で蒋奇は、沮授が別の支隊を任せるよう名を挙げた将にすぎず、袁紹はその言に従わなかった。袁紹が淳于瓊の救援に送ったのは騎兵であり、張郃の伝は軽騎兵だけを送ったと記す。 演義 第30回 §43–44正史 魏書 巻6 §53–54正史 魏書 巻17 §43
死:演義第30回では、曹操が淳于瓊の耳と鼻と指を切り落として送り返し、袁紹が烏巣を失った責任を問うて彼を斬る。陳寿の本文では、曹操の兵が淳于瓊らを破って全員を斬っており、楽進の伝は楽進が淳于瓊の首を斬ったと記す。袁紹が淳于瓊を殺したという記述はない。 演義 第30回 §41 · 47正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54正史 魏書 巻10 §60正史 魏書 巻17 §21
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4525−20
- 武力4248+6
- 知力3522−13
- 政治3331−2
- 魅力3828−10
- 徳4228−14
- 処世3830−8
- 文芸3131±0
- 弁舌3131±0
- 用人3131±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。