正太祖を兗州牧に迎え、ともに策を立てた魏書 巻1 §23魏書 巻12 §66
演直接の記録なし第10回 §19
鮑信は泰山の人である。霊帝の時に騎都尉であり、大将軍何進の命で兵を募って戻ると、袁紹に董卓を襲撃しようと言ったが、袁紹が従わなかったため郷里に帰った。初平元年(190)には済北相として袁紹・袁術らとともに同時に兵を挙げた。 正史 魏書 巻6 §7正史 魏書 巻12 §66正史 魏書 巻1 §7
初平3年(192)、青州の黄巾賊が兗州に入り兗州刺史劉岱が死ぬと、州の役人万潜らとともに東郡へ行き、太祖(曹操)を迎えて兗州牧を務めさせた。寿張の東で黄巾賊と力戦して戦死し、遺体が見つからなかったため、人々は木でその姿を刻んで祭った。 正史 魏書 巻1 §20 · 22–23
正史には独立した伝がなく、子の鮑勛の伝が彼について「太祖とともに策を立てたが、自身は害に遭った」と記し、陳寿の評は彼に別に触れていない。演義では第3回に後軍校尉として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が見える回はない。第10回で曹操とともに黄巾賊を討つうちに死ぬ。 正史 魏書 巻12 §66 · 99正史 魏書 巻1 §173演義 第3回 §22演義 第10回 §19
子の鮑勛の伝は、鮑勛が漢の司隷校尉鮑宣の九代目の子孫であり、鮑宣の子孫のうち上党から泰山に移ってきて、そのままそこに家を構えた者がいたと記す。鮑信は霊帝の時に騎都尉であり、大将軍何進が彼を東に送って兵を募らせた。 正史 魏書 巻12 §66
魏書巻6の董卓の記事によれば、何進が敗亡したのち、董卓が都の兵権を握った。これより先、何進は騎都尉である泰山の人鮑信を遣わして各地で兵を募らせていたが、ちょうど戻ってきた鮑信は袁紹に「董卓は強兵を擁して異心を抱いております。いま早く図らなければ、彼に制せられるでしょう。彼が着いたばかりで疲れているところを襲えば、捕らえることができます」と言った。袁紹は董卓を恐れてあえて兵を動かさず、鮑信はついに郷里へ帰った。 正史 魏書 巻6 §6–7
武帝紀によれば、初平元年(190)春正月、後将軍袁術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、河内太守王匡、勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺とともに、済北相鮑信が同時に兵を挙げた。衆はそれぞれ数万で、袁紹を盟主に推した。于禁伝は、黄巾賊が起こると鮑信が人々を呼び集め、同じ泰山郡の人于禁が彼に従ったと記す。 正史 魏書 巻1 §7正史 魏書 巻17 §27
初平3年(192)、青州の黄巾賊百万が兗州に入り、任城相鄭遂を殺して東平に向きを変えた。劉岱がこれを討とうとすると、鮑信が諫めた。「いま賊の衆は百万で、百姓はみな震え恐れ、士卒には戦う意志がなく、敵対することはできません。賊は輜重がなく略奪で物資をまかなっていますから、いまは兵の力を養い、まず固く守るに越したことはありません。彼らが戦おうとしても戦えず、攻めようとしても攻められなければ、その勢いは必ず離散しますので、その後に精鋭を選び、要害を押さえて討てば撃破できます。」 正史 魏書 巻1 §20 · 22
劉岱は従わずに戦い、果たして殺された。鮑信はそこで州の役人万潜らとともに東郡に来て、太祖を迎えて兗州牧を務めさせた。太祖が兵を進めて寿張の東で黄巾賊を撃つと、鮑信は力戦して戦死し、かろうじて賊を破ることができた。懸賞をかけて鮑信の遺体を探したが得られず、人々は木を刻んで鮑信の姿のように作り、祭って哭した。 正史 魏書 巻1 §23
鮑勛伝は、鮑信がのちに済北相となり、太祖とともに策を立てたが自身は害に遭ったと記す。建安17年(212)、太祖は鮑信の功を追念して上表し、鮑勛の兄鮑邵を新都亭侯に封じた。 正史 魏書 巻12 §66
のちに文帝が鮑勛を殺そうとすると、鍾繇・華歆・陳群・辛毗・衞臻・高柔らがともに上表して「鮑勛の父鮑信は太祖に功がありました」と述べ、鮑勛の罪を赦すよう願った。文帝は許さず、鮑勛を殺した。 正史 魏書 巻12 §75–76
陳寿の本文は鮑信の字と年齢を記していない。武帝紀末尾の評は袁紹と太祖について述べるだけで鮑信には触れず、魏書巻12の評も子の鮑勛だけを扱う。 正史 魏書 巻1 §173正史 魏書 巻12 §99
演義第3回で皇帝が都に戻る時、司徒王允、太尉楊彪、左軍校尉淳于瓊、中軍校尉袁紹らとともに、後軍校尉鮑信が数百の人馬で車駕を出迎える。 演義 第3回 §22
同じ回で、董卓が毎日鉄甲の騎兵を率いて城内をのし歩き、宮廷を憚りなく出入りすると、鮑信は袁紹を訪ね、董卓は必ず異心を抱いているから早く除くべきだと言う。袁紹は朝廷が安定したばかりなので軽々しく動けないと言い、鮑信が王允を訪ねて同じことを言うと、王允もしばらく相談しようと言うだけである。鮑信は自ら率いる軍兵を連れて泰山へ去る。 演義 第3回 §26–27
第5回で曹操の檄文に応じた諸侯のうち、第九鎮が済北相鮑信である。鮑信は孫堅がすでに先鋒となったので彼に一番手柄を奪われるのを恐れ、ひそかに弟の鮑忠に騎兵と歩兵3千を先に与え、間道を抜けて関の下で戦いを挑ませる。華雄が鉄騎5百を率いて関を下りて鮑忠を斬り、袁紹はのちに、鮑将軍の弟が指揮に従わず勝手に進んで命を落とし、多くの兵を失ったと言う。 演義 第5回 §7–8 · 20–21 · 29
同じ回で董卓が虎牢関に兵を置くと、袁紹は鮑信をはじめとする八路の諸侯を虎牢関に送って敵を迎え撃たせる。 演義 第5回 §42
第10回で青州の黄巾賊が再び起こると、太僕朱儁が曹操を推挙し、李傕は夜を徹して詔を起草し、曹操に済北相鮑信とともに賊を討つよう命じる。曹操は鮑信と合流してともに兵を起こし、寿陽で賊を討つが、鮑信は敵陣深く斬り込んで賊に殺される。曹操は済北まで追撃し、降兵30万余りと男女100万余りを受け入れ、その精鋭を青州兵と呼ぶ。 演義 第10回 §17–19
董卓討伐の進言:演義第3回で鮑信は袁紹に董卓を除こうと言ったのち、王允にも同じことを言う。正史魏書巻6の董卓の記事では、何進の命で兵を募りに行って戻った鮑信が、董卓が着いたばかりで疲れているところを襲おうと袁紹に言っただけで、王允に話したことはない。 演義 第3回 §26正史 魏書 巻6 §7
官職:演義第3回は彼を後軍校尉と呼ぶ。正史魏書巻6の董卓の記事と鮑勛伝では、彼は霊帝の時に騎都尉であった。 演義 第3回 §22正史 魏書 巻6 §7正史 魏書 巻12 §66
弟の鮑忠:演義第5回で鮑信は孫堅に一番手柄を奪われるのを恐れ、弟の鮑忠をひそかに先に送り、鮑忠は華雄に殺される。正史の陳寿本文には鮑忠は登場せず、正史孫破虜討逆伝で華雄は、孫堅が陽人で董卓軍を大破した時に梟首される。 演義 第5回 §20正史 魏書 巻1 §7正史 魏書 巻6 §7正史 魏書 巻12 §66正史 呉書 巻1 §17
劉岱への諫言:正史武帝紀で鮑信は、黄巾賊と戦おうとする劉岱に、固く守って彼らが離散してから討つよう諫めたが、劉岱は従わずに死んだ。演義第10回には劉岱もこの諫言も出てこない。 正史 魏書 巻1 §22–23演義 第10回 §17–19
曹操と手を組んだ経緯:演義第10回では、李傕が下した詔が曹操に鮑信とともに賊を討つよう命じる。正史では劉岱が死んだのち、鮑信が州の役人万潜らとともに東郡へ行き、太祖を迎えて兗州牧を務めさせた。 演義 第10回 §18正史 魏書 巻1 §23
死:演義第10回で鮑信は寿陽で敵陣深く斬り込み、賊に殺される。正史武帝紀では寿張の東で力戦して戦死し、遺体がついに見つからなかったため、人々は木でその姿を刻んで祭り、哭した。 演義 第10回 §19正史 魏書 巻1 §23
死後:正史鮑勛伝で太祖は建安17年(212)、鮑信の功を追念して子の鮑邵を新都亭侯に封じた。演義では鮑信は第10回の死の後には登場せず、彼の息子たちも登場しない。 正史 魏書 巻12 §66演義 第10回 §19
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正太祖を兗州牧に迎え、ともに策を立てた魏書 巻1 §23魏書 巻12 §66
演直接の記録なし第10回 §19
正太祖を迎え、力戦して死に、その功が追念された魏書 巻1 §23魏書 巻12 §66
演孫堅に一番手柄を奪われるのを恐れ、ひそかに功を争った第5回 §20
正人々を集めると于禁が従い、死後は木像を作って哭された魏書 巻17 §27魏書 巻1 §23
演直接の記録なし第3回 §27
正直接の記録なし魏書 巻12 §66
演直接の記録なし第5回 §8
正直接の記録なし魏書 巻12 §66
演直接の記録なし第5回 §8
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。