張邈

正史演義 呂布勢力 字 孟卓 Zhang MiaoMengzhuo장막맹탁张邈

プロフィール
職業正演君主 · 陳留太守所属呂布勢力
登場正演収録魏書
出生正? 推定出身地東平国 寿張県
死去正195年 推定死去地
死因正殺害 推定
実在実在言及正35回

人物紹介

張邈は字を孟卓といい、東平寿張の人である。若いころから任侠で知られ、太祖(曹操)・袁紹と友人であった。陳留太守であった時に董卓の乱が起こると、太祖とともに最初に義兵を挙げた。 正史 魏書 巻7 §10

興平元年(194)太祖が陶謙を討ちに出ている間に、弟張超・陳宮らの謀に従って呂布を迎え入れ、太祖に背いた。太祖が兗州を取り戻すと呂布に従い、興平2年(195)袁術に救援を求めに行く途中、着く前に自分の兵に殺され、三族が滅ぼされた。 正史 魏書 巻7 §12–15正史 魏書 巻1 §34

陳寿は呂布伝の評で、魏の太祖でさえ張邈には欺かれたと述べた。演義では第5回に曹操の檄文に呼応した第六鎮の陳留太守として初めて登場し、全120回のうち5回に姿を見せるが、回目に名が載る回はない。第11回で陳宮の言を聞き入れ、呂布に兗州を襲わせる。 正史 魏書 巻7 §62演義 第5回 §8演義 第11回 §36

正史の記録

張邈は字を孟卓といい、東平寿張の人である。若いころから任侠で知られ、困窮した者を助け危急の者を救うために家産を傾けても惜しまなかったので、士人が多く彼のもとに集まった。太祖(曹操)と袁紹はともに彼の友人であった。公府に招かれ、高第によって騎都尉に任じられ、陳留太守に移った。董卓伝は、董卓が周毖・伍瓊らの推挙した韓馥・劉岱・孔伷・張咨・張邈らを州郡の長官として送り出したが、彼らは着任するとみな兵を合わせて董卓を討とうとしたと記す。 正史 魏書 巻7 §10正史 魏書 巻6 §10

董卓の乱の際、太祖と張邈が最初に義兵を挙げた。武帝紀によれば、初平元年(190)正月、袁術・韓馥・孔伷・劉岱・王匡・袁紹・張邈・橋瑁・袁遺・鮑信らが同時に兵を挙げて袁紹を盟主に推し、張邈は劉岱・橋瑁・袁遺とともに酸棗に駐屯した。この時、張邈の弟で広陵太守の張超が臧洪とともに陳留に来て事を相談したが、張邈は臧洪に会って話してみて大いに奇才と認め、劉岱と孔伷に紹介した。典韋も初平年間に張邈が義兵を挙げると兵士となり、司馬趙寵に属した。 正史 魏書 巻7 §10 · 37–38正史 魏書 巻1 §7–8正史 魏書 巻18 §60

太祖が西へ成皋を攻めに向かう時、張邈は将の衛茲に兵を率いて従わせ、衛茲は汴水の戦いに加わった。酸棗に戻った太祖は毎日酒宴ばかり開く諸軍を叱責して策を出したが、張邈らはその策を用いることができなかった。 正史 魏書 巻7 §10正史 魏書 巻1 §9 · 11–12

袁紹が盟主となった後に驕り高ぶった様子を見せると、張邈は正論で袁紹を責めた。袁紹が太祖に張邈を殺させようとすると、太祖は「孟卓は親友であるから、是非を問わず寛く受け入れるべきである」と言って聞き入れず、張邈はこれを知っていっそう太祖に恩を感じた。太祖は陶謙を討ちに行く時、家族に自分が戻らなければ孟卓のもとに行って頼れと言い含め、戻って張邈に会うと互いに向き合って涙を流した。 正史 魏書 巻7 §10–11

袁紹が冀州を得た後、韓馥は恐れて袁紹のもとを去り張邈を頼った。のちに袁紹の使者が張邈のもとに来て相談し耳打ちすると、同席していた韓馥は自分を害そうとしているのだと思い、厠に行って自殺した。董昭の弟董訪が張邈の軍中にいたが、張邈と袁紹の仲が裂けると、袁紹は讒言を受け入れて董昭を罪に問おうとした。 正史 魏書 巻6 §47正史 魏書 巻14 §48

呂布が袁紹を捨てて張楊のもとに向かう時に張邈のもとに立ち寄ったが、別れ際に二人は手を取り合ってともに誓った。袁紹はこれを聞いて大いに恨み、張邈は太祖がついには袁紹のために自分を討つのではないかと恐れて心が落ち着かなかった。高柔伝によれば、高柔はかつて、陳留は四方から戦いが及ぶ地であり、張府君が先に陳留で志を得たので隙に乗じて変事が起こるのを恐れると言ったが、人々は張邈が太祖と仲が良いとして、その言を正しいと思わなかった。 正史 魏書 巻7 §12正史 魏書 巻24 §24

興平元年(194)太祖が再び陶謙を討ちに行くと、張邈の弟張超が太祖の将陳宮、従事中郎の許汜・王楷とともに背くことを謀った。陳宮は張邈に「千里の衆を擁しながらかえって人に制せられるのは、卑しいことではありませんか」と言い、州の軍が東に出て空になっているので呂布を迎えてともに兗州を治めようと説き、張邈はその言に従った。陳宮は東郡の兵を率いて呂布を迎えて兗州牧とし、濮陽を占め、郡県がみな呼応して、鄄城・東阿・范県だけが太祖のために守った。 正史 魏書 巻7 §12–13正史 魏書 巻1 §28–29

荀彧は張邈が乱を起こしたことを知ると、ただちに兵を整えて備え、夏侯惇を呼んだ。夏侯惇はその夜、謀反しようとした者数十人を斬って衆を落ち着かせた。別駕の畢諶は張邈が背いた時、母と弟、妻子を張邈に捕らえられた。太祖が去ることを許すと、畢諶は頭を地に打ちつけて二心はないと言ったが、出て行くと逃げ帰った。 正史 魏書 巻10 §6正史 魏書 巻1 §50

太祖は戻って濮陽で呂布と百余日にわたって対峙し、2年の間に諸城をすべて取り戻して鉅野で呂布を打ち破った。呂布が東の劉備のもとへ逃げると、張邈は呂布に従い、弟の張超に家族を率いて雍丘に駐屯させた。太祖は興平2年(195)8月に雍丘を包囲した。張邈伝は数か月で雍丘を屠り、張超とその家族を斬ったと記し、武帝紀は12月に雍丘が潰えると張超が自殺し、張邈の三族を滅ぼしたと記す。張邈は袁術に救援を求めに行ったが、着く前に自分の兵に殺された。 正史 魏書 巻7 §14–15正史 魏書 巻1 §33–34

陳寿は呂布伝の評で、昔、漢の光武帝が龐萌を見誤ったように、近くは魏の太祖も張邈に欺かれたとし、人を知ることは堯帝でさえ難しいとしたという言葉はまことに正しいと述べた。 正史 魏書 巻7 §62

演義の描写

演義は第5回で、曹操の檄文に呼応して兵を挙げた各鎮の諸侯のうち第六鎮の陳留太守張邈を挙げて彼を初めて登場させる。弟の広陵太守張超は第十一鎮である。第7回では、袁紹に冀州の権限をすべて奪われた韓馥が家族を捨てて単騎で陳留太守張邈のもとへ向かう。 演義 第5回 §7–8演義 第7回 §7

第10回で夏侯惇が曹操のもとに連れて来た典韋は、かつて張邈に従っていたが張邈の配下の者たちと仲が悪く、数十人を自らの手で殺して山中に逃げた人物である。同じ回で、陶謙のために曹操を説得しに来て叱責された陳宮は、馬を走らせて陳留太守張邈のもとへ向かう。 演義 第10回 §24 · 35–36

第11回で呂布は、李傕・郭汜が張楊に自分を殺させようとすると、張楊を捨てて張邈に身を寄せる。ちょうど張邈の弟張超が陳宮を連れて来て、陳宮は張邈に「千里の衆を擁しながらかえって人に制せられるのは、卑しいことではないか」と言い、曹操が東を討ちに出て兗州が空になっているので、呂布とともに兗州を取れば覇業を図ることができると説く。張邈は大いに喜んで呂布に兗州を襲って破らせ、続いて濮陽を占めさせ、鄄城・東阿・范県の三か所だけが荀彧と程昱の計略で無事に残った。 演義 第11回 §35–36

第12回で濮陽を取り戻した曹操が定陶まで追って来ると、呂布と張邈・張超はみな城内にいた。呂布が敗れて逃げ、陳宮が呂布の家族を守って定陶を捨てると、曹操の兵が城に攻め込み、張超は自ら首をはね、張邈は袁術のもとへ去った。演義はその後、張邈を再び取り上げない。 演義 第12回 §38 · 42

演義と異なる点

挙兵:演義第5回で張邈は曹操の檄文に呼応した各鎮の一つとして登場する。正史の張邈伝は董卓の乱の際に太祖(曹操)と張邈が最初に義兵を挙げたと記し、武帝紀は初平元年(190)正月に張邈らが同時に兵を挙げて袁紹を盟主に推したと記す。 演義 第5回 §7–8正史 魏書 巻7 §10正史 魏書 巻1 §7

曹操との友情:演義には張邈と曹操が友人であったという話はない。正史では袁紹が張邈を殺させようとすると太祖は「孟卓は親友」として拒み、陶謙を討ちに行く時には家族に孟卓を頼れと言い含めた。 演義 第5回 §8演義 第7回 §7演義 第10回 §36演義 第11回 §35–36演義 第12回 §42正史 魏書 巻7 §11

典韋:演義第10回で典韋は、張邈の配下の者たちと仲が悪く数十人を殺して山中に逃げた人物として紹介される。正史の典韋伝では、初平年間に張邈が義兵を挙げると典韋は兵士となって司馬趙寵に属し、のちに夏侯惇に属した。張邈の配下を殺した件はない。 演義 第10回 §24正史 魏書 巻18 §59–60

陳宮が来た経緯:演義第10回で陳宮は陶謙のための説得が受け入れられないと曹操のもとを去って張邈のもとへ行き、第11回で張超が彼を連れて張邈に会う。正史で陳宮は太祖の将として東郡に駐屯していた時に張超・許汜・王楷とともに背くことを謀り、その兵を率いて呂布を迎え入れた。 演義 第10回 §36演義 第11回 §35正史 魏書 巻7 §12–13

呂布との縁:演義第11回で呂布は張楊のもとにいたが、李傕・郭汜の脅しを受けると張楊を捨てて張邈に身を寄せる。正史では呂布が袁紹を捨てて張楊のもとへ向かう途中で張邈のもとに立ち寄って手を取り合って誓い、張邈が背いた後、陳宮が呂布を迎え入れて兗州牧とした。 演義 第11回 §35正史 魏書 巻7 §12–13

背いた理由:演義第11回で張邈は、兗州を取れば覇業を図ることができるという陳宮の言葉に大いに喜ぶ。正史では呂布との誓いに袁紹が恨みを抱くと、張邈は太祖がついには袁紹のために自分を討つのではないかと恐れて心が落ち着かず、そこに陳宮の説得があって従った。 演義 第11回 §36正史 魏書 巻7 §12–13

張超の最期:演義第12回で張超は定陶城で曹操の兵が攻め込むと自ら首をはねる。正史で張超は張邈の家族を率いて雍丘に駐屯し、張邈伝は太祖が数か月包囲して雍丘を屠り張超を斬ったと記し、武帝紀は興平2年(195)12月に雍丘が潰えると張超が自殺したと記す。 演義 第12回 §42正史 魏書 巻7 §15正史 魏書 巻1 §34

張邈の最期:演義第12回では、張邈は定陶にいて袁術のもとへ去ったとだけ記される。正史で張邈は呂布に従った後、袁術に救援を求めに行く途中、着く前に自分の兵に殺され、太祖は張邈の三族を滅ぼした。 演義 第12回 §38 · 42正史 魏書 巻7 §15正史 魏書 巻1 §34

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4033−7
  • 武力3131±0
  • 知力3232±0
  • 政治4540−5
  • 魅力7048−22
  • 徳3532−3
  • 処世2225+3
  • 文芸4531−14
  • 弁舌4033−7
  • 用人3532−3
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

文芸・学術正45推定演31推定 −14

正直接の記録なし — 公府に招かれ高第であったことから推定魏書 巻7 §10

演直接の記録なし — 太守としての事績から推定第5回 §8

近い項目 8件 — 根拠を見る
  • 統率正40演33 −7

    正将を送って曹操を助けたが、進撃の策は用いられなかった魏書 巻1 §9魏書 巻7 §15

    演呂布と定陶にいたが、城が破れると袁術のもとへ逃げた第12回 §42

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 太守としての事績から推定魏書 巻7 §10

    演直接の記録なし — 連合軍の諸侯としての事績から推定第5回 §8

  • 知力正32演32 ±0

    正曹操の進撃策を用いられず、陳宮の勧めに乗った魏書 巻1 §12魏書 巻7 §12

    演陳宮の言葉に大いに喜び、呂布に兗州を攻めさせた第11回 §35

  • 政治正45推定演40推定 −5

    正直接の記録なし — 陳留太守としての事績から推定魏書 巻7 §10

    演直接の記録なし — 陳留太守の職から推定第5回 §8

  • 徳正35演32 −3

    正家財を傾けて人を救ったが、親友曹操を裏切った魏書 巻7 §10

    演曹操を裏切り呂布を引き入れた第11回 §36

  • 処世正22演25 +3

    正恐れから背き、結局は自分の部下に殺された魏書 巻7 §12魏書 巻7 §15

    演反乱が崩れると袁術のもとへ逃げた第12回 §42

  • 弁舌・外交正40推定演33推定 −7

    正直接の記録なし — 袁紹を正論で責めた程度魏書 巻7 §10

    演直接の記録なし — 事績から推定第11回 §35

  • 識人・用人正35推定演32 −3

    正直接の記録なし — 陳宮の勧めに従った事績から推定魏書 巻7 §12

    演勇士典韋が配下と不和になって去った第10回 §24

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(5回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 呂布勢力 · 正史 · 正史 巻1 「張邈與陳宮叛迎呂布」

家族

兄弟姉妹張超 演義・正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(2)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。