臧洪

正史 袁紹勢力 字 子源 Zang HongZiyuan장홍자원

プロフィール
職業正文官 · 東郡太守所属袁紹勢力
登場正収録魏書
出生出身地広陵郡 射陽県
死因正処刑 推定
実在実在言及正22回

人物紹介

臧洪は字を子源といい、広陵射陽の人である。広陵太守張超の功曹であったとき董卓を討つ義兵に加わり、酸棗で諸州郡が互いに譲り合うと、その推戴によって壇に登って盟約の文を読み上げた。 正史 魏書 巻7 §35–38

のちに袁紹の信任を得て青州を任され、東郡太守となった。曹操が雍丘でかつての郡将張超を包囲したとき、袁紹が救援を許さなかったため袁紹と絶交し、年をまたぐ包囲の末に城が陥落して捕らえられ、屈服しなかったため殺された。 正史 魏書 巻7 §40–42 · 55–58

正史を著した陳寿は評で、陳登と臧洪はともに雄々しい気概と固い節義を持っていたが、臧洪は兵が弱く敵が強かったために烈しい志を果たせなかった、惜しいことだと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻7 §62

正史の記録

臧洪は字を子源といい、広陵射陽の人である。父の臧旻は匈奴中郎将と中山・太原太守を歴任し、赴いた先々で名を上げた。臧洪は体つきと容貌が大きく立派であった。孝廉に推挙されて郎となり、三署の郎を選んで県長として送り出す際、琅邪の趙昱、東萊の劉繇、東海の王朗とともに選ばれて即丘県長となった。霊帝の末年に官を捨てて家に帰ると、広陵太守張超が彼を招いて功曹とした。 正史 魏書 巻7 §35

董卓が帝を殺して社稷を危うくしようとすると、臧洪は張超に、郡の官吏と民は豊かであるから、太鼓を打ち鳴らせば二万人を集められ、これで国賊を誅して天下に先駆けようと勧めた。張超は臧洪とともに陳留へ行き、兄張邈と相談した。酸棗で張邈が臧洪とはどういう人物かと尋ねると、張超は才と知略が自分より優れた天下の奇士だと答えた。張邈は臧洪と語り合って大いに非凡だと思い、兗州刺史劉岱と豫州刺史孔伷に引き合わせた。 正史 魏書 巻7 §36–38

壇を設けて盟約しようとすると、諸州郡は互いに譲り合い、みなで臧洪を推した。臧洪は壇に登って盤を捧げて血をすすり、兗州刺史劉岱・豫州刺史孔伷・陳留太守張邈・東郡太守橋瑁・広陵太守張超らが義兵を糾合して逆賊董卓を討つのであり、二心は抱かないと誓った。言葉と気迫は悲壮で涙が流れ、聞く者は兵卒や馬丁に至るまで感奮した。しかしまもなく諸軍は誰も先に進もうとせず、兵糧が尽きると散り散りになった。 正史 魏書 巻7 §38–39

張超は臧洪を大司馬劉虞のもとへ送って計略を相談させようとしたが、公孫瓚の乱によって幽州と冀州が互いに戦っていたため、河間で使命を果たせなかった。袁紹は臧洪に会って特別に重んじ、親交を結んだ。青州刺史焦和が死ぬと、袁紹は臧洪に青州を任せてその民を慰撫させた。臧洪が青州にいること2年で盗賊の群れが逃げ去り、袁紹はその能力に感嘆して東郡太守に移し、東武陽を治所とした。 正史 魏書 巻7 §40

興平2年(195)秋、曹操が雍丘で張超を包囲すると、張超は臧洪だけが頼りで、彼は必ず救いに来るだろうと言った。人々は、袁紹と曹操がちょうど親しくしているのだから、袁紹に用いられた臧洪は来ないだろうと思ったが、張超は、子源は天下の義士であり根本に背くことはない、ただ制止されるのが心配なだけだと言った。臧洪はこれを聞くと果たして裸足で号泣し、兵を整えて袁紹に兵馬を求めたが、袁紹は最後まで許さなかった。その年の12月に雍丘は陥落し、張超は一族皆殺しとなった。臧洪はこのことで袁紹を恨んで絶交し、袁紹は兵を起こして彼を包囲したが、年を越えても落とせなかった。 正史 魏書 巻7 §41–42正史 魏書 巻1 §33–34

袁紹は臧洪と同郷の陳琳に手紙を書かせ、禍福を説いて諭し、恩義をもって責めた。臧洪は返書で、袁紹の恩は深く、城に登ってその旗を見るたびに涙が流れるが、郡将が囚われる災厄に遭った以上、忠孝の名を失うことと友の道に背くことは重さが異なるので、涙をぬぐって絶交したと明かした。また張景明・呂奉先・劉子璜が袁紹に殺され、あるいは殺されかけたことを挙げ、義を慕う者は栄誉を受け、去ることを許されるのを待つ者は殺されるのだから、先人を鑑として困窮の中で死を賭して戦うと述べた。 正史 魏書 巻7 §42–49

彼は、君子は去っても敵国へは行かず、義なる者は親に背かず、忠なる者は君に逆らわないと述べた。黒山の賊を頼りにしているという嘲りには、飛燕の一党はすでに王命を受けており、自分は璽書を奉じて彼らとともに事に当たっていると反論した。手紙は「行け、孔璋! そなたは境外に利を求め、臧洪は君と親のために命を捧げる」として、根は同じだが枝は分かれたという言葉で結ばれていた。 正史 魏書 巻7 §50 · 53–54

袁紹は臧洪に降る気がないことを知り、兵を増やして激しく攻めた。兵糧が尽きて救援もないと、臧洪は、自分は大義のうえで死なないわけにはいかないが、諸君までが禍を受ける理由はないとして、城が落ちる前に妻子を連れて出るよう言ったが、将吏と兵士・民はみな泣いて去らなかった。鼠を捕らえ、筋や角を煮て食べていたが、それも尽きると、臧洪は台所に残った米三斗で薄い粥を作らせて皆で分けてすすらせ、愛妾を殺して将兵に食べさせた。男女七、八千人が折り重なって死んだが、離れたり背いたりする者はいなかった。 正史 魏書 巻7 §55–56

城が陥落すると、袁紹は臧洪を生け捕りにし、諸将を集めた席で、なぜこれほど自分に背いたのか、今日は屈服するかと尋ねた。臧洪は地に手をついて目をむき、袁氏は四代にわたって五人の三公を出したのに、王室を支える意志もなく分不相応な地位を望んでいると罵った。袁紹は張陳留を兄と呼んだのだから自分の府君はその弟であるのに、どうして人が殺戮されるのを傍観したのかと言い、力が足りず仇を討てなかったのが惜しいだけだと述べた。袁紹は彼を屈服させて許そうとしていたが、言葉が激しいのを見て、ついに自分には用いられないと知り、殺した。 正史 魏書 巻7 §57–58

臧洪に従って東郡丞となっていた同郷の陳容は、城が落ちる前に臧洪によって外に出されていたが、袁紹の席で臧洪が殺されようとしているのを見ると立ち上がり、臧洪が兵を挙げたのは郡将のためであったのに、なぜ殺すのかと詰め寄った。彼は、むしろ臧洪と同じ日に死んでも袁紹と同じ日に生きはしないと言って、彼も殺され、居並ぶ者たちはどうして一日に二人の烈士を殺すのかと嘆息した。これより先、呂布に救援を求めに出た司馬二人は、戻ってくると城がすでに陥落していたので、ともに敵陣に飛び込んで死んだ。 正史 魏書 巻7 §58–60

陳寿は評で、陳登と臧洪はともに雄々しい気概と固い節義を持っていたが、陳登は早くに死んで功業を成し遂げられず、臧洪は兵が弱く敵が強かったために烈しい志を果たせなかった、惜しいことだと述べた。 正史 魏書 巻7 §62

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率52
  • 武力38
  • 知力58
  • 政治62
  • 魅力84
  • 徳92
  • 処世30
  • 文芸70
  • 弁舌76
  • 用人45
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 袁紹勢力 · 正史 · 正史 巻7 「紹使洪領青州以撫其眾」