劉虞
人物紹介
劉虞は字を伯安といい、東海の人で、名の知られた漢の宗室である。宗正であったが、かつて幽州刺史であったとき恩と信義が広く知られ、戎狄が帰服したことから幽州牧に任じられ、張純と烏丸の反乱を鎮撫した。 正史 魏書 巻8 §7 · 9
袁紹と韓馥が彼を皇帝に立てようとしたが、最後まで受けなかった。のちに公孫瓚と不和になって兵を挙げたが敗れて捕らえられ、董卓の死後、公孫瓚は彼が帝位を称そうとしたと誣告し、天子の使者段訓を脅して彼を斬らせた。 正史 魏書 巻8 §9 · 14
正史には劉虞の伝は別になく、公孫瓚伝にその事績が載る。彼の従事であった田疇は公孫瓚の前で「ただ劉公だけが忠節を失わなかった」と述べた。演義では全120回のうち第2回にのみ登場し、幽州牧として張純を討ちつつ劉備を都尉とする人物として描かれる。名が回目に入った回はない。 正史 魏書 巻8 §6正史 魏書 巻11 §38演義 第2回 §35–36
正史の記録
光和年間に涼州で賊が起こり、幽州の突騎が徴発されたとき、漁陽の張純が遼西烏丸の丘力居らを誘って反乱し、公孫瓚が討伐に出たが、丘力居らが青州・徐州・幽州・冀州を荒らしても防ぎきれなかった。朝廷は、宗正である東海の劉伯安は徳と義を備え、かつて幽州刺史であったとき恩と信義が広く知られて戎狄が帰服したので、彼に鎮撫させれば人々を煩わせずに平定できるだろうと議し、劉虞を幽州牧とした。 正史 魏書 巻8 §4–5 · 7
劉虞は着任すると、胡のもとに使者を送って利害を説き、張純の首を送るよう求めたので、丘力居らは喜んでそれぞれ通訳を送り、自ら帰順した。公孫瓚は劉虞が功を立てるのを妬み、ひそかに胡の使者を殺させたが、胡はその事情を知って間道から劉虞のもとへ行った。劉虞は上奏して諸駐屯軍を廃し、公孫瓚だけに歩兵・騎兵一万を率いて右北平に駐屯させた。張純は妻子を捨てて鮮卑へ逃げたが、食客の王政に殺され、王政はその首を劉虞に送った。烏丸伝も、霊帝の末に劉虞が州牧となって胡人を募り張純の首を斬らせたので、北の州がようやく安定したと記す。 正史 魏書 巻8 §7–8正史 魏書 巻30 §9
劉虞はその功によって太尉に任じられ、襄賁侯に封じられた。董卓が洛陽に至ると大司馬に移り、関東で義兵が起こると、董卓は皇帝を脅して西へ移しつつ劉虞を太傅に召したが、道が塞がれて命が届かなかった。初平元年(190)、劉虞は宗室の長老として臣下の節を尽くすと言って、使命を辱めない使者を求め、二十二歳の田疇を従事として自ら祖道の祭りを行い、長安へ送り出した。 正史 魏書 巻8 §8–9正史 魏書 巻11 §35–36
袁紹と韓馥は、幼い皇帝が奸臣に操られて天下は心を寄せるところがないので、名の知られた宗室で民が仰ぐ劉虞を皇帝に立てようと議し、使者を送って書を奉った。武帝紀は、曹操がこれを拒んだと記す。初平2年(191)春、袁紹と韓馥はついに彼を立てようとしたが、劉虞は最後まで受けようとせず、領尚書事となって皇帝の意を奉じて爵位と官職を授けよという勧めも聞き入れなかった。それでも袁紹らとの和親は保った。 正史 魏書 巻8 §9正史 魏書 巻1 §15–16正史 魏書 巻6 §39
子の劉和は侍中として長安にいたが、東へ帰りたい天子は、劉和に董卓のもとから逃げたように装わせて武関を抜け出させ、劉虞に兵を率いて迎えに来させようとした。劉和が袁術の地を通って天子の意を伝えると、袁術は劉虞を後ろ盾にしようとして劉和を引き留め、劉虞に手紙を書かせた。劉虞が騎兵数千を送ろうとすると、公孫瓚は袁術には異心があると言って止めたが、劉虞は聞き入れなかった。 正史 魏書 巻8 §10
公孫瓚は袁術の恨みを買うことを恐れ、従弟の公孫越に騎兵一千を与えて袁術のもとへ送りつつ、ひそかに袁術に劉和を捕らえてその兵を奪うようそそのかした。これによって劉虞と公孫瓚の溝はさらに深まった。劉和は袁術のもとから逃れて北へ来たが、再び袁紹に引き留められた。公孫瓚は袁紹に敗れたのち薊県に戻り、大城の東南に小城を築いたが、劉虞と近くなったため、しだいに互いに恨むようになった。張超が大司馬劉虞のもとへ送った臧洪は、公孫瓚の乱に遭い、幽州と冀州が争っていたため使命を果たせなかった。 正史 魏書 巻8 §11 · 13正史 魏書 巻7 §40
劉虞は公孫瓚が変を起こすことを恐れて兵を挙げて襲ったが、敗れて居庸へ逃げ、公孫瓚は居庸を落として劉虞を生け捕り、薊県へ連れ帰った。ちょうど董卓が死に、天子は使者段訓を送って劉虞の食邑を増やし、六州を監督させた。しかし公孫瓚は劉虞が帝位を称そうとしたと誣告し、段訓を脅して劉虞を斬らせた。田疇が長安から返答を受けて戻ったときには、着く前に劉虞はすでに公孫瓚に殺されていた。 正史 魏書 巻8 §14正史 魏書 巻11 §37
田疇は劉虞の墓を祭り、章表を開いて報告したのち、泣いて去った。怒った公孫瓚が彼を捕らえて責めると、田疇は、漢室が衰えて人々はみな異心を抱いたが、ただ劉公だけが忠節を失わなかったと言い、公孫瓚は罪のない主君を殺し、義を守る臣を仇としていると答えた。 正史 魏書 巻11 §38
劉虞の従事であった漁陽の鮮于輔・斉周と騎都尉の鮮于銀らは、州の兵を率いて公孫瓚に仇を討とうとし、燕国の閻柔を烏丸司馬に推して、潞の北で公孫瓚が置いた漁陽太守の鄒丹を斬った。袁紹も麴義と劉虞の子の劉和を送り、鮮于輔と合流して公孫瓚を攻めさせた。公孫瓚はたびたび敗れて易京に退いて守り、建安4年(199)に袁紹に包囲されると、妻子をみな殺して自害した。 正史 魏書 巻8 §15–16 · 18 · 20
演義の描写
演義第2回で朝廷は劉虞を幽州牧とし、兵を率いて漁陽へ行き張挙と張純を討たせる。代州の劉恢が手紙で劉備を推薦すると、劉虞は大いに喜んで彼を都尉とし、劉備が賊の巣窟に攻め入って数日にわたり大いに戦って勢いをくじくと、張純は配下の頭目に刺し殺され、張挙は自ら首をくくる。 演義 第2回 §35
漁陽が平定されると劉虞は劉備の大功を上表し、朝廷は督郵を鞭打った罪を赦して劉備を下密丞とし、のちに高堂尉に移す。劉虞は賊を平定した功で太尉に封じられる。演義で劉虞はこの回にのみ登場し、皇帝推戴や公孫瓚との争い、死は描かれない。 演義 第2回 §36
演義と異なる点
幽州牧となった理由:演義第2回は、朝廷が劉虞を幽州牧にしたとだけ言う。正史では、宗正であった劉虞が、かつて幽州刺史であったとき恩と信義が広く知られて戎狄が帰服していたので、人々を煩わせずに鎮撫できるだろうとして任命された。 演義 第2回 §35正史 魏書 巻8 §7
張純の死:演義第2回では、劉備が勢いをくじくと張純は配下の頭目に刺し殺される。正史では、劉虞が胡をなだめると張純は妻子を捨てて鮮卑へ逃げたが食客の王政に殺され、烏丸伝は劉虞が胡人を募って張純の首を斬らせたと記す。 演義 第2回 §35正史 魏書 巻8 §8正史 魏書 巻30 §9
張挙:演義第2回では張純とともに張挙が登場し、自ら首をくくる。正史でこの反乱を記した箇所には張純と烏丸の丘力居らだけが登場し、張挙は登場しない。 演義 第2回 §35正史 魏書 巻8 §4 · 7–8
劉備との関係:演義第2回では、劉恢の推薦で劉虞が劉備を都尉とし、その功を上表して下密丞にさせる。正史の先主伝では、劉備は都尉毌丘毅に従って行き、下邳で賊と力戦した功で下密丞となり、のちに高堂尉となった。正史の劉虞の記録には劉備は登場しない。 演義 第2回 §35–36正史 蜀書 巻2 §6–7正史 魏書 巻8 §6–15
その後:演義は劉虞を第2回以降取り上げないので、袁紹・韓馥による皇帝推戴、公孫瓚との争い、死は出てこない。正史で劉虞は皇帝推戴を最後まで受けず、公孫瓚に捕らえられて、帝位を称そうとしたという誣告によって斬られた。 演義 第2回 §36正史 魏書 巻8 §9 · 14
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率2540+15
- 武力3131±0
- 知力3842+4
- 政治7250−22
- 魅力8045−35
- 徳8050−30
- 処世2840+12
- 文芸4240−2
- 弁舌7040−30
- 用人5555±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正皇帝推戴を最後まで受けず、朝廷に臣下の節を尽くそうとした魏書 巻8 §9魏書 巻11 §35
演直接の記録なし — 劉備の功を上表した記録から推定第2回 §36
近い項目 4件 — 根拠を見る
正二十二歳の田疇を礼をもって従事に招き、長安へ使者として送った魏書 巻11 §36
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
演義の登場回(1回)
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