張超
人物紹介
張超は陳留太守張邈の弟で、董卓が権力を握ったときには広陵太守であった。正史には独立した伝がなく、兄張邈と、その功曹であった臧洪の伝、および武帝紀に登場する。臧洪の勧めで義兵を挙げ、酸棗の盟約に広陵太守として名を連ねた。 正史 魏書 巻7 §35–38
興平元年(194)、陳宮らとともに曹操に背くことを謀り、陳宮は張邈を説いて呂布を兗州牧に迎え入れた。翌年、張邈が呂布に従って去る際に託した家族を率いて雍丘を守ったが曹操に包囲され、興平2年12月(西暦196年初め)に雍丘が潰えると自殺した。張邈伝は、曹操が張超とその家族を斬ったと記す。 正史 魏書 巻7 §12–13 · 15正史 魏書 巻1 §33–34
演義では第5回に、曹操の檄文に応じた諸侯のうち第11鎮の広陵太守として初めて登場し、120回のうち3回に登場する。名が回目に入った回はない。第11回で陳宮を連れて張邈を訪ね、第12回で定陶城に曹操の軍が攻め込むと自ら首をはねる。 演義 第5回 §8演義 第11回 §35演義 第12回 §42
正史の記録
臧洪は霊帝の末年に即丘県長の官を捨てて家に帰ったが、太守張超が彼を招いて功曹とした。 正史 魏書 巻7 §35
董卓が帝を殺して社稷を危うくしようとすると、臧洪は張超に「明府は代々恩を受け、ご兄弟そろって大郡を占めておられる」と言い、郡の境内がまだ無事で官吏と民が豊かな今、太鼓を打ち鳴らせば二万人を得られるとして、国賊を誅して天下に先駆けようと勧めた。張超はその言を是とし、臧洪とともに西へ陳留に行き、兄張邈に会って事を相談した。 正史 魏書 巻7 §36–37
酸棗に集まったとき、張邈が「弟は郡守となって、政治・教化・威厳・恩恵が自分から出ず、すべて臧洪に任せていると聞くが、臧洪とはどういう人物か」と尋ねると、張超は「臧洪は才略と智数が私より優れ、私はとても大事にしております。天下の奇士です」と答えた。張邈は臧洪を呼んで語り合い、大いに非凡だと思った。 正史 魏書 巻7 §37
壇を設けて盟約しようとすると、諸州郡は互いに譲り合い、みなで臧洪を推した。臧洪は壇に登って血をすすり、兗州刺史劉岱・豫州刺史孔伷・陳留太守張邈・東郡太守橋瑁・広陵太守張超らが義兵を糾合してともに国難に赴くと誓った。しかしまもなく諸軍は誰も先に進もうとせず、兵糧が尽きると散り散りになった。 正史 魏書 巻7 §38–39
張超は臧洪を大司馬劉虞のもとへ送って計略を相談させようとしたが、臧洪は公孫瓚の乱に遭い、河間で幽州と冀州の二州が戦っていたため使命を果たせなかった。袁紹は臧洪に会って重んじ、青州を任せ、のちに東郡太守に移した。 正史 魏書 巻7 §40
興平元年(194)、曹操が再び陶謙を討ちに行くと、張超は曹操の将陳宮、従事中郎許汜・王楷とともに曹操に背くことを謀った。陳宮は、州の軍が東へ出て兗州が空になっているから、呂布を迎えてともに兗州を治めようと張邈を説き、張邈はこれに従った。陳宮は兵を率いて呂布を迎え入れて兗州牧とし、濮陽を占拠した。 正史 魏書 巻7 §12–13
曹操は2年のうちに諸城を取り戻し、鉅野で呂布を撃破した。呂布が東へ劉備のもとへ逃げると、張邈は呂布に従って去り、弟の張超に家族を率いて雍丘を守らせた。興平2年(195)秋8月、曹操は雍丘を包囲し、楽進と于禁も曹操に従って雍丘の張超を攻めた。 正史 魏書 巻7 §14–15正史 魏書 巻1 §33–34正史 魏書 巻17 §20 · 28
包囲された張超は「ただ臧洪だけが頼りだ。彼は必ず私を救いに来る」と言った。人々は、袁紹と曹操がちょうど親しくしており、臧洪は袁紹が上表して登用した人物であるから来ないだろうと思ったが、張超は「子源は天下の義士であり、決して根本に背かない人物だ。ただ制止されて間に合わないのが心配なだけだ」と言った。臧洪はこれを聞くと裸足で号泣し、率いる兵を整えて袁紹に兵馬を求めたが、袁紹は最後まで許さなかった。 正史 魏書 巻7 §41
武帝紀は、興平2年12月(西暦196年初め)に雍丘が潰えると張超は自殺し、張邈の三族が滅ぼされたと記す。張邈伝は、曹操が数か月包囲攻撃して城を屠り、張超とその家族を斬ったと記し、臧洪伝は張超がついに一族皆殺しになったと記す。 正史 魏書 巻1 §34正史 魏書 巻7 §15 · 42
臧洪はこのことで袁紹を恨み、関係を断った。袁紹に包囲されたのち、臧洪は吏士たちに、袁氏は自分の郡将を救わなかったので、大義のうえで死なないわけにはいかないと言い、城が陥落して袁紹の前に引き出されると、「私はあなたが張陳留を兄と呼ぶのをこの目で見た。それならば我が府君もあなたの弟であるはずだ」と言って、なぜ人が屠られるのを傍観していたのかと責めた。 正史 魏書 巻7 §42 · 55 · 57
演義の描写
演義第5回で、曹操が檄文を送ると各鎮の諸侯が兵を起こして呼応し、張超は第6鎮の陳留太守張邈とともに、第11鎮の広陵太守として名を連ねる。 演義 第5回 §7–8
第11回で、袁紹・張楊のもとを経て流浪していた呂布が張邈に身を寄せると、ちょうど張邈の弟張超が陳宮を連れて張邈に会いに来る。陳宮は、千里の衆を持ちながら人に抑えられて恥ずかしくないのかと言い、曹操が東を討ちに行って空になっている兗州を呂布とともに奪おうと張邈を説く。張邈は大いに喜び、呂布に兗州を襲わせる。 演義 第11回 §34–36
第12回で、曹操が濮陽を取り戻して定陶まで追ってくると、呂布は張邈・張超とともにみな城内にいる。呂布が曹操の伏兵に敗れて逃げ、陳宮と高順が呂布の家族を守って定陶を捨てると、曹操は勝ちに乗った兵を率いて城内に攻め込む。張超は自ら首をはねて死に、張邈は袁術のもとへ逃げる。 演義 第12回 §38 · 41–42
演義と異なる点
挙兵:演義第5回で張超は、曹操の檄文に応じた第11鎮として名が出るだけである。正史では、功曹臧洪の勧めを是として臧洪とともに陳留の兄張邈を訪ねて相談し、酸棗では臧洪が広陵太守張超らの名で盟誓した。臧洪は演義に登場しない。 演義 第5回 §7–8正史 魏書 巻7 §36–38
陳宮との関係:演義第11回で張超は、陳宮を連れて張邈を訪ねる人物としてのみ描かれる。正史では、張超が陳宮・許汜・王楷とともに曹操に背くことを謀り、陳宮が張邈を説いた。 演義 第11回 §35正史 魏書 巻7 §12
死んだ場所:演義第12回で張超は、呂布・張邈とともに定陶城内にいて死ぬ。正史では、張邈が呂布に従って去る際に張超に家族を率いて雍丘を守らせ、曹操は興平2年(195)8月に雍丘を包囲した。 演義 第12回 §38 · 42正史 魏書 巻1 §34正史 魏書 巻7 §15
包囲と救援:演義第12回では、曹操が定陶城に攻め込んだその日に張超が死ぬ。正史では雍丘の包囲は数か月続き、張超は臧洪が必ず救いに来ると信じていたが、袁紹は臧洪に兵を許さなかった。 演義 第12回 §42正史 魏書 巻7 §15 · 41
死に方:演義第12回で張超は自ら首をはねて死ぬ。正史の武帝紀も雍丘が潰えると張超が自殺したと記すが、張邈伝は曹操が城を屠って張超とその家族を斬ったと記しており、正史の中でも記録が分かれる。 演義 第12回 §42正史 魏書 巻1 §34正史 魏書 巻7 §15
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4842−6
- 武力3535±0
- 知力4038−2
- 政治3840+2
- 魅力4540−5
- 徳5545−10
- 処世3235+3
- 文芸3836−2
- 弁舌4038−2
- 用人6845−23
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 8件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。