劉岱
人物紹介
劉岱は字を公山といい、東萊牟平の人劉繇の兄である。侍中であったが、董卓のときに兗州刺史として出され、任地に着くとほかの州郡の長官たちとともに兵を挙げて董卓を討とうとした。 正史 呉書 巻4 §2正史 蜀書 巻8 §3正史 魏書 巻6 §10
初平元年(190)、袁紹を盟主とする関東の軍に加わって酸棗に駐屯し、のちに東郡太守の橋瑁と不仲になって彼を殺した。初平3年(192)、青州の黄巾百万が兗州に入ると、固く守るべきだという鮑信の諫めに従わず、戦って死んだ。 正史 魏書 巻1 §7–8 · 14 · 21–23
正史には独立した伝がなく、武帝紀、弟劉繇の伝、程昱の伝などに見える。演義では第5回に董卓を討つ諸侯のうち第四鎮の兗州刺史として初めて登場し、全120回のうち6回に登場する。第22回の回目「関張 共に王劉二将を擒う」にその名が見える。演義は、彼がのちに曹操に降って偏将になったと続けて描く。 正史 魏書 巻1 §7正史 呉書 巻4 §2正史 魏書 巻14 §5演義 第5回 §7演義 第22回 §31 · 45
正史の記録
劉岱の弟劉繇は字を正礼といい、東萊郡牟平県の人である。斉の孝王の末子が牟平侯に封じられて子孫がそこに家を構え、劉繇の伯父劉寵は漢の太尉であった。陳寿は劉繇の伝で、劉繇の兄劉岱は字を公山といい、侍中・兗州刺史を歴任したと記した。 正史 呉書 巻4 §2
平原の陶丘洪が劉繇を茂才に推挙させようとすると、刺史は「先年に公山を推挙したのに、どうしてまた正礼を推挙できようか」と言った。陶丘洪は、先に公山を用い、のちに正礼を抜擢すれば、長い道に二頭の竜を御し、千里に駿馬を走らせることになると答えた。 正史 呉書 巻4 §3–4
董卓は尚書の周毖と城門校尉の伍瓊らを信任し、彼らが推挙した韓馥・劉岱・孔伷・張咨・張邈らを州郡の長官として出した。このとき侍中の劉岱が兗州刺史となった。しかし韓馥らは任地に着くと、みな兵を合わせて董卓を討とうとし、董卓は周毖・伍瓊らが彼らと内通したと考えて、みな斬った。 正史 蜀書 巻8 §3正史 魏書 巻6 §10
初平元年(190)春正月、袁術・韓馥・孔伷・劉岱・王匡・袁紹・張邈・橋瑁・袁遺・鮑信が同時に兵を挙げた。軍勢はそれぞれ数万で、袁紹を盟主に推した。2月、董卓が天子を長安に移すと、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗に駐屯したが、董卓の兵が強かったので、誰もあえて先に進もうとしなかった。 正史 魏書 巻1 §7–8
酸棗で張邈は、弟の張超が重んじていた臧洪を兗州の劉公山と豫州の孔公緒に引き合わせ、二人とも臧洪と親しく交わった。諸州郡が壇を設けて盟誓したとき、臧洪が壇に登って読み上げた誓文には、兗州刺史劉岱らが義兵を糾合してともに国難に赴くという言葉が入っていた。 正史 魏書 巻7 §37–38
劉岱は東郡太守の橋瑁と互いに憎み合い、橋瑁を殺して王肱に東郡太守を兼ねさせた。 正史 魏書 巻1 §14
初平年間、劉岱は程昱を招いたが、程昱は応じなかった。このとき劉岱は袁紹・公孫瓚と親交を結んでおり、袁紹は妻子を劉岱のもとに住まわせ、公孫瓚は従事の范方を派遣して騎兵を率いて劉岱を助けさせた。のちに袁紹の軍を破った公孫瓚は、劉岱に袁紹の妻子を送り出して袁紹と絶交するよう求め、范方には、劉岱が従わなければ騎兵を率いて戻るよう別に命じた。 正史 魏書 巻14 §5–6
劉岱が何日も議論して決められずにいると、別駕の王彧が程昱には知謀があると言って彼を推薦した。劉岱が程昱を招いて計略を尋ねると、程昱は、近くの援助である袁紹を捨てて公孫瓚の遠い助けを求めるのは、越から人を借りて溺れる子を救おうとするようなものであり、公孫瓚は結局袁紹に捕らえられるであろうと言った。劉岱はその言葉に従った。范方が騎兵を率いて帰る途中、公孫瓚は袁紹に大敗した。劉岱は上表して程昱を騎都尉にしようとしたが、程昱は病を理由に辞退した。 正史 魏書 巻14 §6–7
初平3年(192)、青州の黄巾百万の軍勢が兗州に入り、任城相の鄭遂を殺して東平へ向きを変えた。劉岱がこれを討とうとすると、鮑信は、賊の軍勢は百万で士卒には戦う気がないので、固く守って力を蓄え、賊が離散してから討つべきだと諫めた。劉岱は従わずに戦い、はたして彼らに殺された。鮑信は州の役人万潜らとともに東郡へ行き、曹操を迎えて兗州牧を任せた。 正史 魏書 巻1 §21–23正史 魏書 巻14 §8
演義の描写
演義第5回で曹操が檄文を回すと、各鎮の諸侯が兵を挙げて呼応し、劉岱は第四鎮の兗州刺史として名が挙がる。第6回で諸侯が散り散りになるころ、「兗州太守」劉岱は東郡太守の橋瑁に兵糧を借りようとして断られると、兵を率いて橋瑁の陣営に攻め込み、彼を殺してその兵をすべて降伏させる。第15回では、劉繇を太尉劉寵の甥で兗州刺史劉岱の弟と紹介する。 演義 第5回 §7演義 第6回 §34演義 第15回 §20
第22回で曹操は、前軍の劉岱と後軍の王忠に兵五万を与え、丞相の旗を掲げて徐州の劉備を攻めさせる。演義は、劉岱はかつて兗州刺史であったが、曹操が兗州を手に入れると降伏して偏将に用いられたと説明する。二人は徐州から百里離れたところに陣を構えて河北の様子をうかがうばかりであったが、曹操が戦いを催促すると、劉岱は「私は主将なのに、どうして先に行けようか」と言ってくじを引かせ、王忠が「先」を引いて徐州を攻めに行く。 演義 第22回 §31–35
王忠が関羽に捕らえられると、張飛は劉岱を捕らえると名乗り出て、劉備は、劉岱はかつて兗州刺史であり、虎牢関で董卓を討ったときにも一鎮の諸侯であったから侮ってはならないと言い聞かせる。劉岱は固く守って出てこなかったが、張飛がわざと逃がした打ち据えられた兵の言葉を信じ、陣営を空にして伏兵を置く。しかし張飛の三手の兵に崩されて逃げる途中、狭い道で張飛と出くわし、わずか一合で生け捕りにされる。 演義 第22回 §40–45
劉備は劉岱の縄を自らほどき、王忠とともにもてなして曹操への釈明を頼み、二人は両家の老人と子供を懸けて保証すると言う。帰る途中で張飛に行く手を遮られると、二人は馬上で震え、関羽が止めたおかげでようやく逃れ、「丞相に三族を滅ぼされようとも、二度と来ません」と許しを請う。曹操は二人を斬れと命じるが、孔融が諫めたので死を免じ、爵位と俸禄を取り上げる。第24回で劉備は張飛に、以前劉岱を捕らえたときはなかなか計略を用いたと言う。 演義 第22回 §47–52演義 第23回 §1演義 第24回 §17
演義と異なる点
橋瑁を殺した理由:演義第6回では、劉岱が橋瑁に兵糧を借りようとして断られると、その陣営を攻めて彼を殺し、兵を収める。正史の武帝紀では、劉岱は橋瑁と互いに憎み合って彼を殺し、王肱に東郡太守を兼ねさせた。 演義 第6回 §34正史 魏書 巻1 §14
袁紹と公孫瓚の間:正史の程昱伝では、劉岱は袁紹と公孫瓚のどちらにつくか何日も決められずにいたが、程昱の計略に従って袁紹の側に残る。演義の劉岱は董卓を討つ諸侯と橋瑁を殺す場面にのみ登場し、この出来事はない。 正史 魏書 巻14 §5–7演義 第5回 §7演義 第6回 §34
兗州を失った経緯:演義第22回は、曹操が兗州を手に入れると劉岱が降伏して偏将になったと説明する。正史では、初平3年(192)に劉岱は鮑信の諫めを聞かずに青州の黄巾と戦って死に、そののち鮑信らが曹操を迎えて兗州牧を任せた。 演義 第22回 §31正史 魏書 巻1 §22–23正史 魏書 巻14 §8
劉備を攻めた劉岱:演義第22回では、兗州刺史であったこの劉岱が王忠とともに徐州の劉備を攻めに行き、張飛に捕らえられて釈放される。正史の先主伝と武帝紀にも、曹操が劉岱と王忠を派遣して劉備を攻めたが勝てなかったという記録はあるが、その劉岱が兗州刺史であったとは言っておらず、捕らえられたという話もない。兗州刺史劉岱はそれより前の初平3年にすでに死んでいた。 演義 第22回 §31 · 45 · 48正史 蜀書 巻2 §16正史 魏書 巻1 §56 · 23
死:演義には劉岱の死は描かれず、第23回で曹操に死を免じられ爵位と俸禄を失うのが最後の姿である。正史では青州の黄巾と戦って殺された。 演義 第23回 §1正史 魏書 巻1 §23
官職の名:演義第6回は彼を「兗州太守」と呼ぶ。正史は兗州刺史と記す。 演義 第6回 §34正史 魏書 巻1 §7
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3025−5
- 武力3525−10
- 知力3226−6
- 政治4235−7
- 魅力4235−7
- 徳3530−5
- 処世4532−13
- 文芸3832−6
- 弁舌5240−12
- 用人5031−19
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。