呉書
呉書 巻四 劉繇太史慈士燮伝
本文 3,471字 登場人物 34人 登場地名 52件 記された年 206 · 210 · 226 裴松之注 15ブロック
呉書 巻四 劉繇太史慈士燮伝
劉繇は字を正礼といい、東莱郡牟平県の人である。斉の孝王の末子が牟平侯に封ぜられ、子孫がそこに家を構えた。劉繇の伯父劉寵は漢の太尉であった。劉繇の兄劉岱は字を公山といい、侍中・兗州刺史を歴任した。
劉繇,字正禮,東萊牟平人也。齊孝王少子封牟平侯,子孫家焉。繇伯父寵,為漢太尉。1繇兄岱,字公山,歷位侍中,兗州刺史。2
裴松之注(2)
1續漢書曰:繇祖父本,師受經傳,博學羣書,號爲通儒。舉賢良方正,爲般長,卒官。寵字祖榮,受父業,以經明行脩,舉孝廉,光祿(大夫)察四行,除東平陵令。視事數年,以母病棄官,百姓士民攀輿拒輪,充塞道路,車不得前,乃止亭,輕服潛遁,歸脩供養。後辟大將軍府,稍遷會稽太守,正身率下,郡中大治。徵入爲將作大匠。山陰縣民去治數十里有若邪中在山谷間,五六老翁年皆七八十,聞寵遷,相率共送寵,人齎百錢。寵見,勞來曰:“父老何乃自苦遠來!”皆對曰:“山谷鄙老,生未嘗至郡縣。他時吏發求不去,民間或夜不絕狗吠,竟夕民不得安。自明府下車以來,狗不夜吠,吏稀至民間,年老遭值聖化,今聞當見棄去,故戮力來送。”寵謝之,爲選受一大錢,故會稽號寵爲取一錢太守。其清如是。寵前後歷二郡,八居九列,四登三事。家不藏賄,無重寶器,恆菲飲食,薄衣服,弊車羸馬,號爲窶陋。三去相位,輒歸本土。往來京師,常下道脫驂過,人莫知焉。寵嘗欲止亭,亭吏止之曰:“整頓傳舍,以待劉公,不可得止。”寵因過去。其廉儉皆此類也。以老病卒於家。
2續漢書曰:繇父輿,一名方,山陽太守。岱、繇皆有雋才。《英雄記》稱岱孝悌仁恕,以虛己受人。
劉繇が十九歳のとき、従父の劉韙が賊に人質として捕らえられた。劉繇はこれを奪い取って連れ帰り、これによって名が知られた。孝廉に挙げられて郎中となり、下邑長に任じられた。ときに郡守が貴戚のことを彼に頼み込んだので、そのまま官を棄てて去った。州に招かれて済南を担当したが、済南相は中常侍の子で、貪欲で汚れ、法に従わなかったので、劉繇は上奏してこれを罷免させた。平原の陶丘洪が劉繇を推薦し、茂才に挙げさせようとすると、刺史は言った。「先年、公山を挙げたのに、
繇年十九,從父韙為賊所劫質。繇篡取以歸,由是顯名。舉孝廉,為郎中,除下邑長。時郡守以貴戚托之,遂棄官去。州辟部濟南,濟南相中常侍子,貪穢不循,繇奏免之。平原陶丘洪薦繇,欲令舉茂才。刺史曰:「前年舉公山。
どうしてまた正礼を挙げられようか。」陶丘洪は言った。「もし明使君が先に公山を用い、後に正礼を抜擢なさるなら、いわゆる二頭の龍を長い道のりに御し、駿馬を千里に馳せさせるもので、なんとよいことではありませんか。」ちょうど司空の掾に招かれ、侍御史に任じられたが、就任しなかった。乱を避けて淮浦にいたところ、詔書によって揚州刺史とされた。ときに袁術が淮南におり、劉繇は恐れはばかって、あえて州に赴かなかった。南へ長江を渡ろうとすると、呉景と孫賁が迎えて曲阿に置いた。
奈何復舉正禮乎?」洪曰:「若明使君用公山於前,擢正禮於後,所謂御二龍於長塗,騁騏驥於千里,不亦可乎!」會辟司空掾,除侍御史,不就。避亂淮浦,詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南,繇畏憚,不敢之州。欲南渡江,吳景,孫賁迎置曲阿。
袁術は僭越な反逆を企て、諸郡県を攻め落とした。劉繇は樊能・張英を遣わして長江のほとりに駐屯させ、これを防がせた。呉景・孫賁は袁術が任用した者であったので、圧迫して追い出した。そこで袁術は自ら揚州刺史を置き、呉景・孫賁と力を合わせて張英・樊能らを攻めたが、一年余りたっても落とせなかった。漢の朝廷は命を下して劉繇に牧と振武将軍を加え、配下は数万人となった。孫策が東へ長江を渡り、張英・樊能らを破った。劉繇は丹徒に逃れ、ついに長江を遡って南の豫章を保ち、彭沢に駐屯した。
術圖為僭逆,攻沒諸郡縣。繇遣樊能、張英屯江邊以拒之。以景、賁術所授用,乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史,與景、賁並力攻英、能等,歲餘不下。漢命加繇為牧,振武將軍,眾數萬人。孫策東渡,破英、能等。繇奔丹徒,1遂泝江南保豫章,駐彭澤。
裴松之注(1)
1袁宏《漢紀》曰:劉繇將奔會稽,許子將曰:“會稽富實,策之所貪,且窮在海隅,不可往也。不如豫章,北連豫壤,西接荊州。若收合吏民,遣使貢獻,與曹兗州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。”繇從之。
笮融が先に到着し、太守の朱皓を殺して郡中に入り込んでいた。劉繇は進んで笮融を討ったが、笮融に破られた。改めて属県を招き集め、笮融を攻め破ると、笮融は敗れて山に逃げ込み、民に殺された。劉繇はまもなく病死した。時に四十二歳であった。
笮融先至。1殺太守朱皓,2入居郡中。繇進討融,為融所破,更復招合屬縣,攻破融,融敗走入山。為民所殺。繇尋病卒,時年四十二。
裴松之注(2)
1笮音壯力反。
2《獻帝春秋》曰:是歲,繇屯彭澤,又使融助皓討劉表所用太守諸葛玄。許子將謂繇曰:“笮融出軍,不顧(命)名義者也。朱文明善推誠以信人,宜使密防之。”融到,果詐殺皓,代領郡事。
笮融は丹陽の人である。はじめ数百人の衆を集め、徐州牧陶謙のもとに身を寄せた。陶謙は彼に広陵・彭城の漕運を監督させたが、そのままほしいままに振る舞って勝手に人を殺し、三郡の輸送物資を断ち切って自分のものとした。そこで大いに浮図祠を建て、銅で人の像を作って身に黄金を塗り、錦の衣を着せ、銅の盤を九重に垂らし、下には重層の楼閣と回廊を作って、三千人余りを収容できた。すべての者に仏典を読ませ、領内や近隣の郡の人で仏を好む者には来て道を受けることを許し、その他の労役を免除して招き寄せたので、これによって遠近から前後してやって来た者は五千余戸に及んだ。
笮融者,丹楊人。初聚眾數百,往依徐州牧陶謙。謙使督廣陵、彭城運漕,遂放縱擅殺,坐斷三郡委輸以自入。乃大起浮圖祠,以銅為人,黃金塗身,衣以錦采,垂銅槃九重,下為重樓閣道,可容三千餘人。悉課讀佛經,令界內及旁郡人有好佛者聽受道,復其他役以招致之,由此遠近前後至者五千餘人戶。
仏を浴するたびに多く酒食を設け、道に席を敷き連ねて数十里に及び、見物に来たり食事に来たりする民は一万人近くにのぼり、費用は巨億を数えた。曹公が陶謙を攻めると、徐州の地は騒然となった。笮融は男女数万人と馬三千匹を率いて広陵へ逃れ、広陵太守の趙昱は賓客の礼で彼を遇した。これより先、彭城相の薛礼は陶謙に圧迫されて秣陵に駐屯していた。笮融は広陵の多くの人と物を欲しがり、酒宴が酣になったのに乗じて趙昱を殺し、兵を放って大いに略奪し、積み込んで去った。途中で薛礼を殺し、その後に朱皓を殺した。
每浴佛,多設酒飯,布席於路,經數十里,民人來觀及就食且萬人,費以巨億計。曹公攻陶謙,徐土騷動,融將男女數萬口,馬三千匹,走廣陵,廣陵太守趙昱待以賓禮。先是,彭城相薛禮為陶謙所逼,屯秣陵。融利廣陵之眾,因酒酣殺昱,放兵大略,因載而去。過殺禮,然後殺皓。
後に孫策は西へ江夏を討ち、帰途に豫章を通ると、劉繇の遺骸を収めて載せ、その家族を手厚く遇した。王朗は孫策に書を送って言った。「劉正礼はかつて初めて州に臨んだとき、自力では到達できず、まことに貴家が前後して助けたことに頼りました。そのおかげで長江を渡って治を成し、落ち着くところを得たのです。境に入ったときの礼に情誼を感じて心を結び、その情は終始変わらぬはずでした。後に袁氏をめぐる嫌疑のために、しだいに食い違うようになりました。同盟であったのがかえって仇敵となりましたが、その本心をたずねれば、まことに望んだことではなかったのです。
後策西伐江夏,還過豫章,收載繇喪,善遇其家。王朗遺策書曰:「劉正禮昔初臨州,未能自達,實賴尊門為之先後。用能濟江成治,有所處定。踐境之禮,感分結意,情在終始。後以袁氏之嫌,稍更乖刺。更以同盟,還為仇敵,原其本心,實非所樂。
世が安らいでからは、常に和解して再び旧好を踏み直すことを願っていました。ひとたび別れてからは誠意を明らかにできぬまま、にわかに亡くなってしまい、痛ましく恨めしいことです。聞けば、あなたは厚さをもって薄さを励まし、徳をもって怨みに報い、遺骨を収めて遺児を育て、亡き人を哀れみ生ける者をいたわり、過去の疑いを捨て、託された六尺の孤を保たれたとのこと、まことに深い恩、重い情誼であり、美しい名声に厚い実質です。昔、魯の人は斉に怨みがあっても喪礼を廃さず、『春秋』はこれを善として礼にかなったと言いました。まことに良史が範とすべきところであり、郷校が感嘆して聞くべきことです。
康寧之後,常願渝平更成,復踐宿好。一爾分離,款意不昭,奄然殂隕,可為傷恨。知敦以厲薄,德以報怨,收骨育孤,哀亡愍存,捐既往之猜。保六尺之托,誠深恩重分,美名厚實也。昔魯人雖有齊怨,不廢喪紀,《春秋》善之,謂之得禮,誠良史之所宜借,鄉校之所歎聞。
正礼の嫡男は志操があり、きっと抜きん出たところがあると思います。威勢が盛んで刑罰が行われる中で恩をお施しになるのは、なんとすぐれたことではありませんか。」
正禮元子,致有志操,想必有以殊異。威盛刑行,施之以恩,不亦優哉!」
子 劉基
子 基
劉繇の長子劉基は字を敬輿という。十四歳のとき劉繇の喪に服して礼を尽くし、旧吏が贈り物を届けても一切受け取らなかった。容姿が美しく、孫権は彼を愛し敬った。孫権が驃騎将軍になると東曹掾に招き、輔義校尉・建忠中郎将に任じた。孫権が呉王になると、劉基を大農に移した。孫権がかつて宴を開いて酒を飲んだとき、騎都尉の虞翻が酒に酔って逆らった。孫権はこれを殺そうとし、その怒りはすさまじかったが、劉基が諫め争ったことで、虞翻は死を免れることができた。
繇長子基,字敬輿。年十四,居繇喪盡禮,故吏饋餉,皆無所受。1姿容美好,孫權愛敬之。權為驃騎將軍,辟東曹掾,拜輔義校尉、建忠中郎將。權為吳王,遷基大農。權嘗宴飲,騎都尉虞翻醉酒犯忤,權欲殺之,威怒甚盛,由基諫爭,翻以得免。
裴松之注(1)
1吳書曰:基遭多難,嬰丁困苦,潛處味道,不以爲戚。與羣弟居,常夜卧早起,妻妾希見其面。諸弟敬憚,事之猶父。不妄交游,門無雜賓。
孫権は大暑の時期に船中で宴を開いて酒を飲んだことがあったが、船楼の上で雷雨に遭った。孫権は傘蓋で自分を覆い、また命じて劉基をも覆わせたが、ほかの者はそうしてもらえなかった。彼の待遇はこのようであった。郎中令に移った。孫権が尊号を称すると光禄勲に改められ、尚書の事務を分担して処理した。四十九歳で亡くなった。後に孫権は子の孫覇のために劉基の娘を娶らせ、邸宅一区を賜った。四季ごとの寵愛と下賜は、全氏・張氏と肩を並べた。劉基の二人の弟劉鑠・劉尚は、ともに騎都尉であった。
權大暑時,嘗於船中宴飲,於船樓上值雷雨,權以蓋自覆,又命覆基,餘人不得也。其見待如此。徙郎中令。權稱尊號,改為光祿勳,分平尚書事。年四十九卒。後權為子霸納基女,賜第一區。四時寵賜,與全、張比。基二弟,鑠、尚,皆騎都尉。
太史慈は字を子義といい、東莱郡黄県の人である。若くして学問を好み、郡に仕えて奏曹史となった。ちょうど郡と州との間に確執が生じ、是非が決まらず、先に朝廷に達した方が正しいとされる状況であった。ときに州の上奏文はすでに出発しており、郡守は後れを取ることを恐れて、使者に立てられる者を求めた。太史慈は二十一歳で選ばれて出発し、昼夜兼行で洛陽に到着し、公車門に行くと、州の役人がちょうど取り次ぎを求めようとしているところを見た。太史慈は尋ねた。「あなたは上奏文を届けようとしておられるのか。」
太史慈字子義,東萊黃人也。少好學,仕郡奏曹史。會郡與州有隙,曲直未分,以先聞者為善。時州章已去,郡守恐後之,求可使者。慈年二十一,以選行,晨夜取道,到洛陽,詣公車門,見州吏始欲求通。慈問曰:「君欲通章邪?」
役人は言った。「そうだ。」太史慈は問うた。「上奏文はどこにある。」役人は言った。「車の上だ。」太史慈は言った。「上奏文の題書きや署名に誤りはないだろうか。持って来て見せてくれ。」役人は彼が東莱の人であるとはまったく知らず、そこで上奏文を取り出した。太史慈はあらかじめ懐に刀を隠し持っており、すぐにそれを切り裂いて台無しにした。役人は跳び上がって大声で叫び、「人が私の上奏文を壊した」と言った。太史慈は彼を車の間に連れて行き、話しかけた。「さきほどあなたが上奏文を私に渡さなければ、私もそれを壊すすべはなかった。だから吉凶禍福は同じことで、私だけがこの罪を受けるわけではない。
吏曰:「然。」問:「章安在?」曰:「車上。」慈曰:「章題署得無誤邪?取來視之。」吏殊不知其東萊人也,因為取章。慈已先懷刀,便截敗之。吏踴躍大呼,言「人壞我章」!慈將至車閒,與語曰:「向使君不以章相與,吾亦無因得敗之,是為吉凶禍福等耳,吾不獨受此罪。
黙って一緒に抜け出して逃げれば、死を生に替えることができる。いたずらに二人そろって刑罰を受けるよりよいではないか。」役人は言った。「あなたは郡のために私の上奏文を壊し、すでに思いを遂げたのに、なぜまた逃げようとするのか。」太史慈は答えた。「はじめ郡から遣わされたときは、ただ上奏文が届いたかどうかを見に来ただけだった。私が気を回しすぎて、つい上奏文を壊してしまったのだ。今帰っても、これでお咎めを受けるのではないかと恐れる。だから一緒に去ろうと思うのだ。」役人は太史慈の言葉をもっともだと思い、その日のうちに一緒に去った。
豈若默然俱出去,可以存易亡,無事俱就刑辟。」吏言:「君為郡敗吾章,已得如意,欲復亡為?」慈答曰:「初受郡遣,但來視章通與未耳。吾用意太過,乃相敗章。今還,亦恐以此見譴怒,故俱欲去爾。」吏然慈言,即日俱去。
太史慈は彼とともに城を出ると、ひそかに引き返して郡の上奏文を届けた。州ではこれを聞き、改めて役人を遣わして上奏文を届けたが、担当の役所はすでに上奏文が先に入っていたため、もはや取り上げず、州は非とされた。これによって名が知られたが、州から憎まれ、禍を受けるのを恐れて、遼東に避難した。
慈既與出城,因遁還通郡章。州家聞之,更遣吏通章,有司以格章之故不復見理,州受其短。由是知名,而為州家所疾,恐受其禍,乃避之遼東。
北海相の孔融はこれを聞いて彼を非凡と思い、たびたび人を遣わしてその母を見舞い、あわせて贈り物を届けた。ときに孔融は黄巾の賊が暴れていたので、出て都昌に駐屯していたが、賊の管亥に包囲された。太史慈が遼東から戻ると、母は太史慈に言った。「おまえは孔北海とは会ったこともないのに、おまえが出て行った後、あの方のお心遣いは手厚く、昔なじみ以上でした。今、賊に包囲されているのだから、おまえは駆けつけるべきです。」太史慈は三日とどまると、ただ一人歩いてまっすぐ都昌へ向かった。
北海相孔融聞而奇之,數遣人訊問其母,并致餉遺。時融以黃巾寇暴,出屯都昌,為賊管亥所圍。慈從遼東還,母謂慈曰:「汝與孔北海未嘗相見,至汝行後,贍恤殷勤,過於故舊,今為賊所圍,汝宜赴之。」慈留三日,單步徑至都昌。
ときに包囲はまだ密ではなく、夜に隙をうかがって城に入り孔融に会うことができ、兵を借りて出撃し賊を討つことを求めた。孔融は聞き入れず、外からの救援を待とうとした。しかし来る者はなく、包囲は日ごとに迫ってきた。孔融は平原相の劉備に急を告げようとしたが、城中の者には脱出するすべがなく、太史慈が自ら行くことを願い出た。孔融は言った。「今、賊の包囲はきわめて密で、皆が不可能だと言っている。そなたの意気は盛んだが、実際には難しいのではないか。」太史慈は答えた。「かつて府君は老母に心を傾けてくださり、老母はその厚遇に感じ入って、私を府君の急に赴かせました。それはもとより私に取り柄があり、来れば必ず役に立つと思ったからです。
時圍尚未密,夜伺閒隙,得入見融,因求兵出斫賊。融不聽,欲待外救。未有至者,而圍日偪。融欲告急平原相劉備,城中人無由得出,慈自請求行。融曰:「今賊圍甚密,眾人皆言不可,卿意雖壯,無乃實難乎?」慈對曰:「昔府君傾意於老母,老母感遇,遣慈赴府君之急,固以慈有可取,而來必有益也。
今、皆が不可能だと言い、私までも不可能だと言うならば、どうして府君が目をかけてくださった義、老母が私を遣わした意にかなうでしょうか。事はすでに急です。どうか府君、ためらわれませぬよう。」孔融はそこで承知した。そこで太史慈は旅支度を整え、寝床で食事を済ませ、夜明けを待って弓袋を帯び弓を取って馬に乗り、二騎を従え、それぞれに的を一つずつ作って持たせ、門を開いてまっすぐ出た。外の包囲の下にいた左右の者たちは皆驚き、兵馬が次々と出てきた。
今眾人言不可,慈亦言不可,豈府君愛顧之義,老母遣慈之意邪?事已急矣,願府君無疑。」融乃然之。於是嚴行蓐食,須明,便帶鞬攝弓上馬,將兩騎自隨,各作一的持之,開門直出。外圍下左右人並驚駭,兵馬互出。
太史慈は馬を引いて城下の堀の内側に入り、持ってきた的をそれぞれ立て、出て行ってこれを射た。射終わると、まっすぐ門に入った。翌朝もまた同じようにすると、包囲の兵には立ち上がる者もいれば寝そべっている者もいた。太史慈はまた的を立て、射終わると再び門に入った。その翌朝また出て同じようにすると、もはや立ち上がる者はいなかった。そこで馬に鞭を当て、まっすぐ包囲の中へ突っ込んで駆け去った。賊が気づいたときには太史慈はすでに通り過ぎており、さらに数人を射殺したが、みな弦の音とともに倒れたので、あえて追う者はいなかった。
慈引馬至城下塹內,植所持的各一,出射之,射之畢,徑入門。明晨復如此,圍下人或起或臥,慈復植的,射之畢,復入門。明晨復出如此,無復起者,於是下鞭馬直突圍中馳去。比賊覺知,慈行已過,又射殺數人,皆應弦而倒,故無敢追者。
ついに平原に到着し、劉備に説いて言った。「私は東莱の卑しい者で、孔北海とは骨肉の親でもなく、同郷の仲間でもありません。ただ名声と志によって互いに好み合い、災いを分かち患いを共にする義があるのです。今、管亥が乱暴を働き、北海は包囲され、孤立して援けもなく、危機は旦夕に迫っています。あなたには仁義の名声があり、人の急を救えると聞き、北海はひたすら首を伸ばしてあなたを頼みとし、私に白刃を冒し、幾重もの包囲を突破させ、万死の中からあなたに身を託させたのです。ただあなたのお力で彼を存続させていただきたいのです。」
遂到平原,說備曰:「慈,東萊之鄙人也,與孔北海親非骨肉,比非鄉黨,特以名志相好,有分災共患之義。今管亥暴亂,北海被圍,孤窮無援,危在旦夕。以君有仁義之名,能救人之急,故北海區區,延頸恃仰,使慈冒白刃,突重圍,從萬死之中自託於君,惟君所以存之。」
劉備は居住まいを正して答えた。「孔北海は世に劉備がいることをご存じであったか。」すぐに精兵三千人を遣わして太史慈に従わせた。賊は兵が来ると聞いて包囲を解き、散り散りに逃げ去った。孔融は救われると、いっそう太史慈を非凡で貴いものと思い、「そなたは私の若き友だ」と言った。事が終わると、帰って母に報告した。母は言った。「おまえが孔北海に報いることができたのが、私はうれしい。」
備斂容答曰:「孔北海知世間有劉備邪!」即遣精兵三千人隨慈。賊聞兵至,解圍散走。融既得濟,益奇貴慈,曰:「卿吾之少友也。」事畢,還啟其母,母曰:「我喜汝有以報孔北海也。」
揚州刺史の劉繇は太史慈と同郡の人であった。太史慈は遼東から戻ってからまだ会っていなかったので、しばし長江を渡って曲阿に行き劉繇に会ったが、去らぬうちに、ちょうど孫策がやって来た。ある者が劉繇に、太史慈を大将軍にすべきだと勧めると、劉繇は言った。「私がもし子義を用いたら、許子将に笑われはしないか。」そして太史慈にはただ敵情の偵察だけをさせた。ときに太史慈はただ一騎の兵とともに行き、孫策と出くわした。孫策の従騎は十三人で、みな韓当・宋謙・黄蓋といった者たちであった。
揚州刺史劉繇與慈同郡,慈自遼東還,未與相見,暫渡江到曲阿見繇,未去,會孫策至。或勸繇可以慈為大將軍,繇曰:「我若用子義,許子將不當笑我邪?」但使慈偵視輕重。時獨與一騎卒遇策。策從騎十三,皆韓當、宋謙、黃蓋輩也。
太史慈はすぐに進み出て戦い、まさに孫策と向き合った。孫策は太史慈の馬を突き、太史慈がうなじに差していた手戟を奪い取り、太史慈も孫策の兜を奪った。ちょうど両軍の兵と騎兵がともに駆けつけてきたので、そこで分かれた。
慈便前鬥,正與策對。策刺慈馬,而攬得慈項上手戟,慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴,於是解散。
太史慈は劉繇とともに豫章へ逃れるはずであったが、蕪湖で抜け出して山中に逃げ込み、丹陽太守を称した。このとき孫策はすでに宣城以東を平定していたが、ただ涇県以西の六県だけが服していなかった。太史慈はそこで進んで涇県に住み、屯府を立てると、山越が大いに付き従った。孫策は自ら攻め討ち、ついに彼を捕らえた。孫策はすぐに縄を解き、その手を取って言った。「神亭のときのことを覚えておられるか。もしあのときそなたが私を捕らえていたら、どうしたであろうか。」
慈當與繇俱奔豫章,而遁於蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守。是時,策已平定宣城以東,惟涇以西六縣未服。慈因進住涇縣,立屯府,大為山越所附。策躬自攻討,遂見囚執。策即解縛,捉其手曰:「寧識神亭時邪?若卿爾時得我云何?」
太史慈は言った。「測り知れなかったでしょう。」孫策は大笑いして言った。「今日からの事業は、そなたとともに成し遂げよう。」すぐに門下督に任じ、呉に帰ると兵を授け、折衝中郎将に任じた。後に劉繇が豫章で亡くなると、その兵士と部衆一万余人は身を寄せる先がなかったので、孫策は太史慈に命じて行って慰撫させた。左右の者は皆言った。「太史慈はきっと北へ去って戻りますまい。」孫策は言った。「子義が私を捨てて、ほかに誰と組むというのか。」昌門で送別し、手首を取って別れを告げて言った。「いつ戻れるか。」答えて言った。「六十日を過ぎません。」はたして期日どおりに戻ってきた。
慈曰:「未可量也。」策大笑曰:「今日之事,當與卿共之。」1即署門下督,還吳授兵,拜折衝中郎將。後劉繇亡於豫章,士眾萬餘人未有所附,策命慈往撫安焉。2左右皆曰:「慈必北去不還。」策曰:「子義捨我,當復與誰?」餞送昌門,把腕別曰:「何時能還?」答曰:「不過六十日。」果如期而反。3
裴松之注(3)
1《吳歷》云:慈於神亭戰敗,爲策所執。策素聞其名,即解縛請見,咨問進取之術。慈答曰:“破軍之將,不足與論事。”策曰:“昔韓信定計於廣武,今策決疑於仁者,君何辭焉?”慈曰:“州軍新破,士卒離心,若儻分散,難復合聚;欲出宣恩安集,恐不合尊意。”策長跪答曰:“誠本心所望也。明日中,望君來還。”諸將皆疑,策曰:“太史子義,青州名士,以信義爲先,終不欺策。”明日,大請諸將,豫設酒食,立竿視影。日中而慈至,策大悅,常與參論諸軍事。臣松之案;吳歷云慈於神亭戰敗,爲策所得,與本傳大異,疑爲謬誤。《江表傳》曰:策問慈曰:“聞卿昔爲太守劫州章,赴文舉,請詣玄德,皆有烈義,天下智士也,但所託未得其人。射鉤斬袪,古人不嫌。孤是卿知己,勿憂不如意也。”出教曰:“龍欲騰翥,先階尺木者也。”
2江表傳曰:策謂慈曰:“劉牧往責吾爲袁氏攻廬江,其意頗猥,理恕不足。何者?先君手下兵數千餘人,盡在公路許。孤志在立事,不得不屈意於公路,求索故兵,再往才得千餘人耳。仍令孤攻廬江,爾時事勢,不得不爲行。但其後不遵臣節,自棄作邪僭事,諫之不從。丈夫義交,苟有大故,不得不離,孤交求公路及絕之本末如此。今劉繇喪亡,恨不及其生時與共論辯。今兒子在豫章,不知華子魚待遇何如,其故復曲復依隨之否?卿則州人,昔又從事,寧能往視其兒子,並宣孤意於其部曲?部曲樂來者便與俱來,不樂來者且安慰之。并觀察子魚所以牧禦方規何似,視廬陵、鄱陽人民親附之否?卿手下兵,宜將多少,自由意。”慈對曰:“慈有不赦之罪,將軍量同桓、文,待遇過望。古人報生以死,期於盡節,沒而後已。今並息兵,兵不宜多,將數十人,自足以往還也。”
3江表傳曰:策初遣慈,議者紛紜,謂慈未可信,或云與華子魚州里,恐留彼爲籌策,或疑慈西託黃祖,假路還北,多言遣之非計。策曰:“諸君語皆非也,孤斷之詳矣。太史子義雖氣勇有膽烈,然非縱橫之人。其心有士謨,志經道義,貴重然諾,一以意許知己,死亡不相負,諸君勿復憂也。”慈從豫章還,議者乃始服。慈見策曰:“華子魚良德也,然非籌略才,無他方規,自守而已。又丹楊僮芝自擅廬陵,詐言被詔書爲太守。鄱陽民帥別立宗部,阻兵守界,不受子魚所遣長吏,言‘我以別立郡,須漢遣真太守來,當迎之耳’。子魚不但不能諧廬陵、鄱陽,近自海昬有上繚壁,有五六千家相結聚作宗伍,惟輸租布於郡耳,發召一人遂不可得,子魚亦睹視之而已。”策拊掌大笑,(仍)有兼并之志矣。頃之,遂定豫章。
劉表の甥の劉磐は勇猛で、たびたび艾・西安などの諸県を荒らした。そこで孫策は海昏・建昌の左右六県を分け、太史慈を建昌都尉とし、海昏に治所を置かせ、あわせて諸将を監督して劉磐を防がせた。劉磐は姿を消し、二度と荒らさなくなった。
劉表從子磐,驍勇,數為寇於艾、西安諸縣。策於是分海昏、建昌左右六縣,以慈為建昌都尉,治海昏,并督諸將拒磐。磐絕跡不復為寇。
太史慈は身長七尺七寸、美しい鬚をたくわえ、猿のように長い腕で弓がうまく、放った矢が外れることはなかった。かつて孫策に従って麻保の賊を討ったとき、賊の一人が屯営の中の楼の上を歩きながら罵り、手で楼の梁をつかんだ。太史慈が弓を引いてこれを射ると、矢は手を貫いて梁に突き立ち、包囲の外にいた一万の人々は皆、見事だと称えた。その妙技はこのようであった。曹公はその名を聞き、太史慈に手紙を送り、箱に封じた。開けて見ると何も書かれておらず、ただ当帰が入っているだけであった。
慈長七尺七寸,美鬚髯,猿臂善射,弦不虛發。嘗從策討麻保賊,賊於屯裏緣樓上行詈,以手持樓棼,慈引弓射之,矢貫手著棼,圍外萬人莫不稱善。其妙如此。曹公聞其名,遺慈書,以篋封之,發省無所道,而但貯當歸。
孫権が政務を統べるようになると、太史慈が劉磐を抑えられたので、南方のことを任せた。建安十一年、四十一歳で亡くなった。子の太史享は、官位が越騎校尉に至った。
孫權統事,以慈能制磐,遂委南方之事。年四十一,建安十一年卒。1子享,官至越騎校尉。2
裴松之注(2)
1吳書曰:慈臨亡,歎息曰:“丈夫生世,當帶七尺之劍,以升天子之階。今所志未從,奈何而死乎!”權甚悼惜之。
2吳書曰:享字元復,歷尚書、吳郡太守。
士燮は字を威彦といい、蒼梧郡広信県の人である。その先祖はもと魯国汶陽の人で、王莽の乱のときに交州へ避難した。六代を経て士燮の父士賜に至り、桓帝のときに日南太守となった。士燮は若くして都に遊学し、潁川の劉子奇に師事して『春秋左氏伝』を修めた。孝廉に推挙されて尚書郎に補せられたが、公務のことで免官された。父士賜の喪が明けたのち茂才に挙げられ、巫県令に任じられ、交趾太守に移った。
士燮字威彥,蒼梧廣信人也。其先本魯國汶陽人,至王莽之亂,避地交州。六世至燮父賜,桓帝時為日南太守。燮少游學京師,事潁川劉子奇,治左氏春秋。察孝廉,補尚書郎,公事免官。父賜喪闋後,舉茂才,除巫令,遷交阯太守。
弟の士壹は、はじめ郡の督郵となった。刺史の丁宮が召されて都に帰るとき、士壹が勤勉丁寧に付き従って見送ったので、丁宮は感じ入り、別れに臨んで言った。「この刺史がもし三公の地位に就くことがあれば、あなたを招こう。」後に丁宮は司徒となり、士壹を招いた。士壹が着いたときには丁宮はすでに免職されており、黄琬が代わって司徒となって、士壹を大いに礼遇した。董卓が乱を起こすと、士壹は逃げて郷里に帰った。交州刺史の朱符が夷賊に殺され、州郡は乱れた。
弟壹,初為郡督郵。刺史丁宮徵還京都,壹侍送勤恪,宮感之,臨別謂曰:「刺史若待罪三事,當相辟也。」後宮為司徒,辟壹。比至,宮已免,黃琬代為司徒,甚禮遇壹。董卓作亂,壹亡歸鄉里。1交州刺史朱符為夷賊所殺,州郡擾亂。
裴松之注(1)
1吳書曰:琬與卓相害,而壹盡心於琬,甚有聲稱。卓惡之,乃署教曰:“司徒掾士壹,不得除用。”故歷年不遷。會卓入關,壹乃亡歸。
そこで士燮は上表して、士壹に合浦太守を兼ねさせ、次弟の徐聞県令士䵋に九真太守を兼ねさせ、士䵋の弟の士武に南海太守を兼ねさせた。
燮乃表壹領合浦太守,次弟徐聞令䵋領九真太守,1䵋弟武,領南海太守。
裴松之注(1)
1䵋音于鄙反,見《字林》。
士燮は度量が広く温厚で、謙虚にへりくだって士人を遇したので、中原の士人で彼のもとに身を寄せて難を避けた者は百を数えた。『春秋』を深く愛読し、その注解を作った。陳国の袁徽は尚書令の荀彧に書を送って言った。「交趾の士府君は学問が優れて広いうえ、政務にも通じ、大乱のさなかにあって一郡を守り抜き、二十余年にわたって国境に事なく、民は生業を失わず、流浪の者たちもみなその恩恵を受けています。竇融が河西を保ったことでさえ、どうしてこれに勝りましょうか。
燮體器寬厚,謙虛下士,中國士人往依避難者以百數。耽玩春秋,為之注解。陳國袁徽與尚書令荀彧書曰:「交阯士府君既學問優博,又達於從政,處大亂之中,保全一郡,二十餘年疆埸無事,民不失業,羇旅之徒,皆蒙其慶,雖竇融保河西,曷以加之?
官務が少し暇になると、すぐに書物や伝を玩味して習い、『春秋左氏伝』にはとりわけ精通して微細に至っています。私はしばしば伝の中の諸々の疑問を尋ねましたが、どれにも師説があり、その考えはきわめて緻密でした。また『尚書』についても古文・今文に兼ね通じ、大義が詳しく備わっています。都では古文・今文の学をめぐって是非を争い憤っていると聞き、今、左氏伝と尚書の優れた解釈を箇条書きにして献上しようとしています。」彼が称賛されたのはこのようであった。
官事小闋,輒玩習書傳,春秋左氏傳尤簡練精微,吾數以咨問傳中諸疑,皆有師說,意思甚密。又尚書兼通古今,大義詳備。聞京師古今之學,是非忿爭,今欲條左氏、尚書長義上之。」其見稱如此。
士燮の兄弟はそろって諸郡の長となり、一州に雄として君臨し、万里の彼方に偏在しながら、その威勢と尊貴はこの上なかった。出入りには鐘磬を鳴らし、威儀を整え、笳・簫・鼓吹を奏し、車騎が道に満ち、胡人が車の両側で香を焚くことが常に数十人に及んだ。妻妾は輜軿に乗り、子弟は兵騎を従え、当時において貴く重んじられ、諸蛮を震え服させ、尉佗でさえこれを超えることはできなかった。士武が先に病死した。
燮兄弟並為列郡,雄長一州,偏在萬里,威尊無上。出入鳴鐘磬,備具威儀,笳簫鼓吹,車騎滿道,胡人夾轂焚燒香者常有數十。妻妾乘輜軿,子弟從兵騎,當時貴重,震服百蠻,尉他不足踰也。1武先病沒。
裴松之注(1)
1葛洪《神仙傳》曰:燮嘗病死,已三日,仙人董奉以一丸藥與服,以水含之,捧其頭搖(捎)之,食頃,即開目動手,顏色漸復,半日能起坐,四日復能語,遂復常。奉字君異,侯官人也。
朱符の死後、漢は張津を交州刺史として遣わしたが、張津は後にまたその部将の区景に殺された。そこで荊州牧の劉表は零陵の頼恭を遣わして張津に代えた。このとき蒼梧太守の史璜が亡くなったので、劉表はまた呉巨を遣わしてこれに代え、呉巨は頼恭とともに到着した。漢の朝廷は張津が死んだと聞き、士燮に璽書を下して言った。「交州は隔絶した地で、南は江海を帯び、上の恩は行き渡らず、下の義は塞がれている。逆賊劉表がまた頼恭を遣わして南の地をうかがっていることを知っている。今、士燮を綏南中郎将とし、七郡を統べ監督させ、交趾太守を従来どおり兼ねさせる。」
朱符死後,漢遣張津為交州刺史,津後又為其將區景所殺,而荊州牧劉表遣零陵賴恭代津。是時蒼梧太守史璜死,表又遣吳巨代之,與恭俱至。漢聞張津死,賜燮璽書曰:「交州絕域,南帶江海,上恩不宣,下義壅隔,知逆賊劉表又遣賴恭闚看南土,今以燮為綏南中郎將,董督七郡,領交阯太守如故。」
後に士燮は役人の張旻を遣わして貢物を奉じて都に詣でさせた。このとき天下は乱れて道路は断たれていたが、士燮は貢納の務めを怠らなかったので、特にまた詔を下して安遠将軍に任じ、龍度亭侯に封じた。
後燮遣吏張旻奉貢詣京都,是時天下喪亂,道路斷絕,而燮不廢貢職,特復下詔拜安遠將軍,封龍度亭侯。
後に呉巨と頼恭が仲違いし、呉巨が兵を挙げて頼恭を追い出したので、頼恭は逃げて零陵に帰った。建安十五年、孫権は歩騭を交州刺史として遣わした。歩騭が到着すると、士燮は兄弟を率いてその指揮に従った。しかし呉巨は異心を抱いたので、歩騭はこれを斬った。孫権は士燮に左将軍を加えた。建安の末年、士燮は子の士廞を人質として送り込み、孫権は彼を武昌太守とし、南にいる士燮・士壹の子たちをみな中郎将に任じた。
後巨與恭相失,舉兵逐恭,恭走還零陵。建安十五年,孫權遣步騭為交州刺史。騭到,燮率兄弟奉承節度。而吳巨懷異心,騭斬之。權加燮為左將軍。建安末年,燮遣子廞入質,權以為武昌太守,燮、壹諸子在南者,皆拜中郎將。
士燮はまた益州の豪族雍闓らを誘導し、郡の人民を率いてはるかに東に帰属させたので、孫権はますます彼を嘉し、衛将軍に昇進させ、龍編侯に封じ、弟の士壹を偏将軍・都郷侯とした。士燮は孫権に使者を遣わすたびに、さまざまな香や上質の葛布をいつも千単位で献上し、明珠・大貝・瑠璃・翡翠・玳瑁・犀・象といった珍宝、奇物や珍しい果物、芭蕉・椰子・龍眼の類が、届かない年はなかった。
燮又誘導益州豪姓雍闓等,率郡人民使遙東附,權益嘉之,遷衛將軍,封龍編侯,弟壹偏將軍,都鄉侯。燮每遣使詣權,致雜香細葛,輒以千數,明珠、大貝、流離、翡翠、玳瑁、犀、象之珍,奇物異果,蕉、邪、龍眼之屬,無歲不至。
士壹は時に馬を献上し、あわせて数百匹に及んだ。孫権はそのたびに手紙を書き、厚く寵愛と賜り物を加えて、これに答え慰労した。士燮は郡にあること四十余年、黄武五年に九十歳で亡くなった。
壹時貢馬凡數百匹。權輒為書,厚加寵賜,以答慰之。燮在郡四十餘歲,黃武五年,年九十卒。
孫権は交趾が遠く隔たっているので、合浦以北を分けて広州とし、呂岱を刺史とし、交趾以南を交州として戴良を刺史とした。また陳時を遣わして士燮に代えて交趾太守とした。呂岱は南海にとどまり、戴良は陳時とともに先に進んで合浦に至ったが、士燮の子の士徽が自ら交趾太守を名乗り、宗族の兵を起こして戴良を拒んだ。戴良は合浦にとどまった。交趾の桓鄰は士燮が推挙した役人であったが、叩頭して士徽を諫め、戴良を迎えさせようとしたので、士徽は怒り、桓鄰を笞打って殺した。
權以交阯縣遠,乃分合浦以北為廣州,呂岱為刺史;交阯以南為交州,戴良為刺史。又遣陳時代燮為交阯太守。岱留南海,良與時俱前行到合浦,而燮子徽自署交阯太守,發宗兵拒良。良留合浦。交阯桓鄰,燮舉吏也,叩頭諫徽使迎良,徽怒,笞殺鄰。
桓鄰の兄の桓治と子の桓発はまた宗族の兵を集めて士徽を攻めたが、士徽は門を閉じて城を守り、桓治らは数か月攻めても落とせなかったので、和親を約束し、それぞれ兵を引いて帰った。一方、呂岱は士徽を誅せよとの詔を受け、広州から兵を率いて昼夜兼行で駆け入り、合浦を過ぎて戴良とともに進んだ。士壹の子で中郎将の士匡は呂岱と旧交があったので、呂岱は士匡を師友従事に任じ、まず交趾に文書を送って禍福を告げ諭した。また士匡を遣わして士徽に会わせ、罪に服するよう説かせ、郡守の地位は失っても、ほかに憂いはないことを保証した。
鄰兄治子發又合宗兵擊徽,徽閉門城守,治等攻之數月不能下,乃約和親,各罷兵還。而呂岱被詔誅徽,自廣州將兵晝夜馳入,過合浦,與良俱前。壹子中郎將匡與岱有舊,岱署匡師友從事,先移書交阯,告喻禍福,又遣匡見徽,說令服罪,雖失郡守,保無他憂。
呂岱は士匡の後を追ってまもなく到着した。士徽の兄の士祗、弟の士幹・士頌ら六人が肌脱ぎになって出迎えた。呂岱は礼を述べて服を着直させ、進んで郡の治所に至った。翌朝早く帳幕を張り、士徽の兄弟に順に入るよう請うと、賓客が座に満ちた。呂岱は立ち上がり、節を擁して詔書を読み上げ、その罪過を数え立てると、左右の者がすぐに後ろ手に縛って引き出し、ただちに皆誅殺され、首は武昌に送られた。士壹・士䵋・士匡は後から出てきたが、孫権はその罪を許し、士燮の人質であった子の士廞とともに、みな免じて庶人とした。
岱尋匡後至,徽兄祗,弟幹、頌等六人肉袒奉迎。岱謝令復服,前至郡下。明旦早施帳幔,請徽兄弟以次入,賓客滿坐。岱起,擁節讀詔書,數徵罪過,左右因反縛以出,即皆伏誅,傳首詣武昌。1壹、䵋、匡後出,權原其罪,及燮質子廞,皆免為庶人。
裴松之注(1)
1孫盛曰:夫柔遠能邇,莫善於信;保大定功,莫善於義。故齊桓創基,德彰於柯會;晉文始伯,義顯於伐原。故能九合一匡,世主夏盟,令問長世,貽範百王。呂岱師友士匡,使通信誓,徽兄弟肉袒,推心委命,岱因滅之,以要功利,君子是以知孫權之不能遠略,而呂氏之祚不延者也。
数年後、士壹と士䵋は法に触れて誅殺された。士廞は病死したが子がなく、妻は寡婦として暮らしたので、詔を下して居住地で毎月俸米を支給させ、銭四十万を賜った。
數歲,壹、䵋坐法誅。廞病卒,無子,妻寡居,詔在所月給俸米,賜錢四十萬。
評
評
評に曰く:劉繇は名声と行いを磨き、人物の善し悪しを論じることを好んだ。しかし乱世にあって万里の地を占めることは、彼の得意とするところではなかった。太史慈は信義に厚く激しく、古人の風があった。士燮は南越の太守となり、悠々と生涯を終えたが、子の代になって慎まず、自ら凶事を招いた。思うに凡庸な才で富貴をもてあそび、険阻な地を頼んだことが、そうさせたのである。
評曰:劉繇藻厲名行,好尚臧否。至於擾攘之時,據萬里之土,非其長也。太史慈信義篤烈,有古人之分。士燮作守南越,優遊終世,至子不慎,自貽兇咎。蓋庸才玩富貴而恃阻險,使之然也。
日本語現代語訳 — 3KDEX訳(検収前) · 原文:ウィキソース本『三國志』(繁体字、裴松之注を含む) · 裴松之注は原文のみ掲載(翻訳なし)。