呉書
呉書 巻五 妃嬪伝
本文 2,356字 登場人物 50人 登場地名 31件 記された年 202 · 207 · 238 · 250 · 262 · 265 · 280 裴松之注 18ブロック
呉書 巻五 妃嬪伝
呉夫人
孫破虜(孫堅)の呉夫人は、呉主孫権の母である。もとは呉の人で、銭唐に移り住み、早くに父母を失った。弟の呉景とともに暮らしていた。孫堅はその才と容貌を聞き、妻に迎えようとした。呉氏の親戚は孫堅が軽薄で狡猾であるのを嫌い、断ろうとしたので、孫堅はひどく恥じ恨んだ。夫人は親戚に言った。「どうして娘一人を惜しんで禍を招くのですか。もし良い巡り合わせでなかったとしても、それは運命です。」こうしてついに婚姻を許し、四男一女を産んだ。
孫破虜吳夫人,吳主權母也。本吳人,徙錢唐,早失父母。與弟景居。孫堅聞其才貌,欲娶之。吳氏親戚嫌堅輕狡,將拒焉,堅甚以慚恨。夫人謂親戚曰:「何愛一女以取禍乎?如有不遇,命也。」於是遂許為婚,生四男一女。1
裴松之注(1)
1《搜神記》曰:初,夫人孕而夢月入其懷,既而生策。及權在孕,又夢日入其懷,以告堅曰:「昔妊策,夢月入我懷,今也又夢日入我懷,何也?」堅曰:「日月者陰陽之精,極貴之象,吾子孫其興乎!」
呉景は常に孫堅に従って征伐に加わり功を立てたので、騎都尉に任じられた。袁術は上表して呉景に丹陽太守を兼ねさせ、呉景は前の太守周昕を討って、ついにその郡に拠った。孫策は孫河・呂範とともに呉景に身を寄せ、兵を合わせて涇県の山賊祖郎を共に討った。祖郎は敗走した。たまたま劉繇に圧迫されたので、呉景はふたたび北へ行って袁術に身を寄せた。袁術は彼を督軍中郎将とし、呉景は孫賁とともに横江で樊能・於糜を討ち、さらに秣陵で笮融・薛礼を攻撃した。
景常隨堅征伐有功,拜騎都尉。袁術上景領丹楊太守,討故太守周昕,遂據其郡。孫策與孫河、呂範依景,合眾共討涇縣山賊祖郎。郎敗走。會為劉繇所迫,景復北依術,術以為督軍中郎將,與孫賁共討樊能、於麋於橫江,又擊笮融、薛禮於秣陵。
そのとき孫策は牛渚で傷を負い、降伏していた賊がふたたび反乱した。呉景はこれを攻め討ち、ことごとく捕らえた。孫策に従って劉繇を討ち、劉繇が豫章に逃げると、孫策は呉景と孫賁を寿春に遣わして袁術に報告させた。袁術はちょうど劉備と徐州を争っていたので、呉景を広陵太守とした。袁術はのちに帝号を僭称した。孫策は書簡で袁術を諭したが、袁術は聞き入れなかった。孫策はそこで長江の渡し場を断って袁術と通交せず、人を遣わして呉景に告げた。呉景はただちに郡を捨てて東に帰り、孫策はふたたび呉景を丹陽太守とした。
時策被創牛渚,降賊復反,景攻討,盡禽之。從討劉繇,繇奔豫章,策遣景、賁到壽春報術。術方與劉備爭徐州,以景為廣陵太守。術後僭號。策以書喻術,術不納,便絕江津,不與通,使人告景。景即委郡東歸,策復以景為丹揚太守。
漢の朝廷は議郎の王誧に命を奉じて南へ行かせ、王誧は上表して呉景を揚武将軍とし、これまでどおり郡を治めさせた。
漢遣議郎王誧1銜命南行,表景為揚武將軍,領郡如故。
裴松之注(1)
1音普。
孫権が年少で事業を継ぐと、夫人は軍事と国政を治めるのを助け、大いに益するところがあった。建安七年、亡くなろうとするとき、張昭らを召し寄せて後事を託した。高陵に合葬された。
及權少年統業,夫人助治軍國,甚有補益。1建安七年,臨薨,引見張昭等,屬以後事,合葬高陵。2
裴松之注(2)
1《會稽典錄》曰:策功曹魏騰,以迕意見譴,將殺之,士大夫憂恐,計無所出。夫人乃倚大井而謂策曰:「汝新造江南,其事未集,方當優賢禮士,舍過錄功。魏功曹在公盡規,汝今日殺之,則明日人皆叛汝。吾不忍見禍之及,當先投此井中耳。」策大驚,遽釋騰。夫人智略權譎,類皆如此。
2《志林》曰:按會稽貢舉簿,建安十二年到十三年闕,無舉者,云府君遭憂,此則吳后以十二年薨也。八年九年皆有貢舉,斯甚分明。
建安八年、呉景は在官のまま死去した。子の呉奮が兵を授けられて将となり、新亭侯に封ぜられたが、死去した。子の呉安が後を継いだが、呉安は魯王孫覇の党派に加わった罪で死んだ。呉奮の弟の呉祺が後を継ぎ、都亭侯に封ぜられたが、死去した。子の呉纂が後を継いだ。呉纂の妻は滕胤の娘であり、滕胤が誅殺されると、ともに殺害された。
八年,景卒官,子奮授兵為將,封新亭侯,卒。1子安嗣,安坐黨魯王霸死。奮弟祺嗣,封都亭侯,卒。子纂嗣。纂妻即滕胤女也,胤被誅,竝遇害。
裴松之注(1)
1《吳書》曰:權徵荊州,拜奮吳郡都督,以鎮東方。《吳書》曰:祺與張溫、顧譚友善,權令關平辭訟事。
呉主孫権の謝夫人は、会稽山陰の人である。父の謝煚は漢の尚書郎・徐県令であった。孫権の母の呉氏が孫権のために彼女を迎えて妃とし、寵愛を受けた。のちに孫権が伯母(父の姉妹)の孫娘である徐氏を迎え、謝氏をその下に置こうとしたが、謝氏は承知せず、これによって意を失った。早くに亡くなった。その十余年後、弟の謝承は五官郎中に任じられ、しだいに長沙東部都尉・武陵太守に遷り、『後漢書』百余巻を著した。
吳主權謝夫人,會稽山陰人也。父煚,漢尚書郎、徐令。1權母吳,為權聘以為妃,愛幸有寵。後權納姑孫徐氏,欲令謝下之,謝不肯,由是失志。早卒。後十餘年,弟承拜五官郎中,稍遷長沙東部都尉、武陵太守,撰《後漢書》百餘卷。2
裴松之注(2)
1煚子承撰《後漢書》,稱煚幼以仁孝為行,明達有令才。煚弟貞,履蹈法度,篤學尚義,舉孝廉,建昌長,卒官。
2《會稽典錄》曰:承字偉平,博學洽聞,嘗所知見,終身不忘。子崇揚威將軍,崇弟勗吳郡太守,竝知名。
呉主孫権の徐夫人は、呉郡富春の人である。祖父の徐真は孫権の父の孫堅と親しく、孫堅は妹を徐真に嫁がせ、徐琨が生まれた。徐琨は若くして州郡に仕えたが、漢末に世が乱れると吏職を去り、孫堅に従って征伐に加わって功を立て、偏将軍に任じられた。孫堅が亡くなると、孫策に従って横江で樊能・於糜らを討ち、当利口で張英を攻撃した。しかし船が少なく、軍を留めてさらに船を求めようとした。徐琨の母はそのとき軍中にいて、徐琨に言った。「州の役所が水軍を多く出して迎え撃ってくれば、不利になるのではないかと心配です。どうして留まっていられましょうか。」
吳主權徐夫人,吳郡富春人也。祖父真,與權父堅相親,堅以妹妻真,生琨。琨少仕州郡,漢末擾亂,去吏,隨堅征伐有功,拜偏將軍。堅薨,隨孫策討樊能、於糜等於橫江,擊張英於當利口。而船少,欲駐軍更求。琨母時在軍中,謂琨曰:「恐州家多發水軍來逆人,則不利矣,如何可駐邪?
「葦を伐って筏とし、船を助けて軍を渡すべきです。」徐琨がつぶさに孫策に申し上げると、孫策はすぐにそれを実行した。軍勢はみな渡ることができ、ついに張英を破り、笮融・劉繇を撃ち走らせて、事業は定まった。孫策は上表して徐琨に丹陽太守を兼ねさせたが、ちょうど呉景が広陵を捨てて東に来たので、ふたたび呉景が丹陽太守となった。徐琨は督軍中郎将として兵を率い、孫策に従って廬江太守李術を破り、広徳侯に封ぜられ、平虜将軍に遷った。のちに黄祖討伐に従い、流れ矢に当たって死んだ。
宜伐蘆葦以為泭,佐船渡軍。」1琨具啟策,策即行之。眾悉俱濟,遂破英,擊走笮融、劉繇,事業克定。策表琨領丹楊太守,會吳景委廣陵來東,復為丹楊守。2琨以督軍中郎將領兵,從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒。
裴松之注(2)
1泭音敷。郭璞注《方言》曰:「泭,水中簰也。」
2《江表傳》曰:初,袁術遣從弟胤為丹楊,策令琨討而代之。會景還,以景前在(仕)丹楊,寬仁得眾,吏民所思,而琨手下兵多,策嫌其太重,且方攻伐,宜得琨眾,乃復用景,召琨還吳。
徐琨は夫人を生んだ。夫人ははじめ同郡の陸尚に嫁いだ。陸尚が死ぬと、討虜将軍として呉にいた孫権が彼女を迎えて妃とし、子の孫登を母として養わせた。のちに孫権が居所を移したとき、夫人が嫉妬深いとして廃し、呉に留め置いた。十余年を経て、孫権が呉王となり、さらに帝位に即くと、孫登が太子となり、群臣は夫人を皇后に立てるよう請うたが、孫権の意は歩氏にあったので、ついに許さなかった。のちに病で亡くなった。兄の徐矯は父徐琨の侯位を継ぎ、山越を討ち平らげて偏将軍に任じられたが、夫人より先に死に、子がなかった。弟の徐祚が封爵を継ぎ、これも戦功によって蕪湖督・平魏将軍に至った。
琨生夫人,初適同郡陸尚。尚卒,權為討虜將軍在吳,聘以為妃,使母養子登。後權遷移,以夫人妒忌,廢處吳。積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,群臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。後以疾卒。兄矯,嗣父琨侯,討平山越,拜偏將軍,先夫人卒,無子。弟祚襲封,亦以戰功至蕪湖督、平魏將軍。
歩夫人
呉主孫権の歩夫人は、臨淮淮陰の人である。丞相歩騭と同族である。漢末、その母が彼女を連れて廬江に移り住んだが、廬江が孫策に破られると、みな東へ長江を渡った。美しさによって孫権の寵愛を得、寵愛は後宮で第一であった。二女を生んだ。長女は魯班、字を大虎といい、はじめ周瑜の子の周循に嫁ぎ、のちに全琮に嫁いだ。次女は魯育、字を小虎といい、はじめ朱拠に嫁ぎ、のちに劉纂に嫁いだ。
吳主權步夫人,臨淮淮陰人也。與丞相騭同族。漢末,其母攜將徙廬江,廬江為孫策所破,皆東渡江,以美麗得幸於權,寵冠後庭。生二女,長曰魯班,字大虎,前配周瑜子循,後配全琮。少曰魯育,字小虎,前配朱據,後配劉纂。1
裴松之注(1)
1《吳曆》曰:纂先尚權中女,早卒,故又以小虎為繼室。
夫人は嫉妬しない性格で、多くの者を推薦して近づけたので、長く愛され厚遇された。孫権が王となり、帝となると、彼女を皇后にしようとしたが、群臣の議は徐氏にあり、孫権は十余年ためらった。しかし宮中ではみな皇后と呼び、親戚は上疏するとき中宮と称した。亡くなると、臣下は孫権の意を受けて、名号を追って正すよう請うた。そこで印綬を贈り、策命して言った。「赤烏元年閏月戊子、皇帝は言う。ああ、皇后よ。后は天命を輔け、ともに天地を承けた。」
夫人性不妒忌,多所推近,故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而群臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。及薨,臣下緣權指,請追正名號,乃贈印綬,策命曰:惟赤烏元年閏月戊子,皇帝曰:嗚呼皇后,惟后佐命,共承天地。
「朝夕うやうやしく慎み、朕と労苦を等しくした。内の教えは整い、礼義に過ちがなかった。寛容で慈しみ深く恵み深く、淑やかで麗しい徳があった。民も臣も仰ぎ望み、遠近が心を寄せた。朕は世の難がいまだ平らがず、大統がいまだ一つにならないので、后の雅なる志に従い、常に謙遜の思いを抱いた。それゆえそのときには名号を授けなかったが、后が天より授かった寿命は長く、永く朕とともに天の美しき恵みを顕揚するものと思っていた。にわかに天命が尽きようとは悟らなかった。」
虔恭夙夜,與朕均勞。內教修整,禮義不愆。寬容慈惠,有淑懿之德。民臣懸望,遠近歸心。朕以世難未夷,大統未一,緣后雅志,每懷謙損。是以於時未授名號,亦必謂后降年有永,永與朕躬對揚天休。不寤奄忽,大命近止。
「朕は本意を早く明らかにしなかったことを恨み、后が逝去して天禄を全うしなかったことを傷む。哀れみ悼む思いはきわまり、心は痛む。いま使持節の丞相を遣わして策を奉じ号を授け、先后に配食させる。魂に霊あらば、この寵栄を嘉せよ。ああ、哀しいかな。」
朕恨本意不早昭顯,傷后殂逝,不終天祿。愍悼之至,痛於厥心。今使使持節丞相奉策授號,配食先后。魂而有靈,嘉其寵榮。嗚呼哀哉!
蒋陵に葬られた。
葬於蔣陵。
呉主孫権の王夫人は、琅邪の人である。夫人は選ばれて宮中に入り、黄武年間に寵愛を受けて孫和を生み、寵愛は歩氏に次いだ。歩氏が亡くなったのち、孫和が太子に立てられ、孫権は夫人を皇后に立てようとした。ところが全公主はかねて夫人を憎み、少しずつ讒言して貶めた。孫権が病に臥すと、全公主は夫人が喜びの色を見せていると言った。これによって孫権は深く責め怒り、夫人は憂えて死んだ。孫和の子の孫皓が即位すると、夫人を大懿皇后と追尊し、三人の弟をみな列侯に封じた。
吳主權王夫人,琅邪人也。1夫人以選入宮,黃武中得幸,生和,寵次步氏。步氏薨後,和立為太子,權將立夫人為后,而全公主素憎夫人,稍稍譖毀。及權寢疾,言有喜色,由是權深責怒,以憂死。和子皓立,追尊夫人曰大懿皇后,封三弟皆列侯。
裴松之注(1)
1《吳書》曰:夫人父名盧九。
呉主孫権の王夫人は、南陽の人である。選ばれて宮中に入り、嘉禾年間に寵愛を受けて孫休を生んだ。孫和が太子となると、孫和の母が貴く重んじられ、寵愛を受けていた諸姫はみな宮外に出て住んだ。夫人は公安に出て亡くなり、そのままそこに葬られた。孫休が即位すると、使者を遣わして敬懐皇后と追尊し、敬陵に改葬した。王氏には後継ぎがなかったので、同母弟の王文雍を亭侯に封じた。
吳主權王夫人,南陽人也。以選入宮,嘉禾中得幸,生休。及和為太子,和母貴重,諸姬有寵者,皆出居外。夫人出公安,卒,因葬焉。休即位,遣使追尊曰敬懷皇后,改葬敬陵。王氏無後,封同母弟文雍為亭侯。
呉主孫権の潘夫人は、会稽句章の人である。父は役人であったが、法に触れて死んだ。夫人は姉とともに織室に送られたが、孫権はこれを見て非凡に思い、召して後宮に入れた。寵愛を受けて身ごもったとき、ある者が龍の頭を自分に授け、自分がそれを蔽膝で受ける夢を見て、やがて孫亮を生んだ。赤烏十三年、孫亮が太子に立てられると、夫人は姉を宮中から出して嫁がせるよう請い、孫権はこれを許した。翌年、夫人を皇后に立てた。
吳主權潘夫人,會稽句章人也。父為吏,坐法死。夫人與姊俱輸織室,權見而異之,召充後宮。得幸有娠,夢有以龍頭授己者,己以蔽膝受之,遂生亮。赤烏十三年,亮立為太子,請出嫁夫人之姊,權聽許之。明年,立夫人為皇后。
夫人は性格が陰険で嫉妬深く、媚びへつらった。始めから終わりまで、袁夫人らを讒言して害したことはきわめて多かった。孫権が病に伏すと、夫人は人をやって中書令の孫弘に呂后が専権をふるった故事を尋ねさせた。看病に疲れ果てて衰弱し病んだところ、宮女たちは彼女が昏々と眠るのをうかがい、共謀して絞め殺し、急な悪気にあたって死んだと偽った。のちに事が露見し、連座して死んだ者は六、七人であった。孫権もまもなく崩御し、蒋陵に合葬された。孫亮が即位すると、夫人の姉の夫の譚紹を騎都尉とし、兵を授けた。孫亮が廃されると、譚紹は家族とともに郷里の廬陵に送り返された。
性險妒容媚,自始至卒,譖害袁夫人等甚眾。1權不豫,夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏臥,共縊殺之,託言中惡。後事洩,坐死者六七人。權尋薨,合葬蔣陵。孫亮即位,以夫人姊婿譚紹為騎都尉,授兵。亮廢,紹與家屬送本部廬陵。
裴松之注(1)
1《吳錄》曰:袁夫人者,袁術女也,有節行而無子。權數以諸姬子與養之,輒不育。及步夫人薨,權欲立之。夫人自以無子,固辭不受。
孫亮の全夫人は、全尚の娘である。従祖母の公主(全公主)が彼女を可愛がり、参内して拝謁するたびに必ず連れて行った。潘夫人母子が寵愛を受けるようになると、全公主は自分が孫和の母と不和であったので、孫権に勧めて潘氏の子の孫亮のために夫人を娶らせ、孫亮はついに後継ぎとなった。夫人が皇后に立てられると、全尚を城門校尉とし、都亭侯に封じ、滕胤に代わって太常・衛将軍とし、永平侯に進封して、録尚書事とした。
孫亮全夫人,全尚女也。從祖母公主愛之,每進見輒與俱。及潘夫人母子有寵,全主自以與孫和母有隙,乃勸權為潘氏男亮納夫人,亮遂為嗣。夫人立為皇后,以尚為城門校尉,封都亭侯,代滕胤為太常、衛將軍,進封永平侯,錄尚書事。
そのとき全氏で侯に封ぜられた者は五人おり、みな兵馬をつかさどった。そのほかの者は侍郎・騎都尉となって左右に宿衛し、呉が興って以来、外戚の貴さと盛んなことはこれに及ぶものがなかった。魏の大将諸葛誕が寿春をもって帰服してくると、全懌・全端・全禕・全儀らはみなこの機に乗じて魏に降った。全熙は謀が漏れて殺され、これによって全氏一族は衰えた。おりしも孫綝が孫亮を廃して会稽王とし、のちにさらに退けて候官侯とした。夫人はこれに従って封国に赴き、候官に住み、全尚は家族を率いて零陵に移されたが、追っ手によって殺された。
時全氏侯有五人,並典兵馬。其餘為侍郎、騎都尉,宿衛左右,自吳興,外戚貴盛莫及。及魏大將諸葛誕以壽春來附,而全懌、全端、全禕、全儀等並因此際降魏。全熙謀洩見殺,由是諸全衰弱。會孫綝廢亮為會稽王,後又黜為候官侯。夫人隨之國,居候官,尚將家屬徙零陵,追見殺。1
裴松之注(1)
1《吳錄》曰:亮妻惠解有容色,居候官,吳平乃歸,永寧中卒。
孫休の朱夫人は、朱拠の娘で、孫休の姉の公主(朱公主)が生んだ。赤烏の末年、孫権は孫休のために彼女を迎えて妃とした。孫休が琅邪王となると、これに従って丹陽に住んだ。建興年間、孫峻が政権をほしいままにし、公族はみなこれを憂えた。全尚の妻は孫峻の姉であったので、ただ全公主だけが庇護を受けた。これより先、孫和が太子であったとき、全公主は王夫人を讒言して害し、太子を廃して魯王を立てようとしたが、朱公主が従わなかったので、これによって不和が生じていた。
孫休朱夫人,朱據女,休姊公主所生也。1赤烏末,權為休納以為妃。休為琅邪王,隨居丹楊。建興中,孫峻專政,公族皆患之。全尚妻即峻姊。故惟全主祐焉。初,孫和為太子時,全主譖害王夫人,欲廢太子,立魯王,朱主不聽,由是有隙。
裴松之注(1)
1臣松之以為休妻其甥,事同漢惠。荀悅譏之已當,故不復廣言。
五鳳年間、孫儀が孫峻を殺そうと謀ったが、事が発覚して誅殺された。全公主はこれに乗じて朱公主が孫儀と共謀したと言い、孫峻は無実の朱公主を殺した。孫休は恐れて、夫人を建業に帰らせ、手を取り合って泣いて別れた。夫人が着くと、孫峻は彼女を孫休のもとに送り返した。太平年間、孫亮は朱公主が全公主に害されたことを知り、朱公主が死んだわけを問うた。全公主は恐れて言った。「私はまことに知りません。すべて朱拠の二人の子、朱熊と朱損が申し上げたことです。」孫亮は朱熊と朱損を殺した。
五鳳中,孫儀謀殺峻,事覺被誅。全主因言朱主與儀同謀,峻枉殺朱主。休懼,遣夫人還建業,執手泣別。既至,峻遣還休。太平中,孫亮知朱主為全主所害,問朱主死意?全主懼曰:「我實不知,皆據二子熊、損所白。」亮殺熊、損。
朱損の妻は孫峻の妹であったので、孫綝はいよいよ孫亮を忌み、ついに孫亮を廃して孫休を立てた。永安五年、夫人を皇后に立てた。孫休が亡くなると、群臣は夫人を尊んで皇太后としたが、孫皓は即位してひと月余りで景皇后に格下げし、安定宮と称させた。甘露元年七月、迫られて亡くなり、定陵に合葬された。
損妻是峻妹也,孫綝益忌亮,遂廢亮,立休。永安五年,立夫人為皇后。休卒,群臣尊夫人為皇太后,孫皓即位月餘,貶為景皇后。稱安定宮。甘露元年七月,見逼薨,合葬定陵。1
裴松之注(1)
1《搜神記》曰:孫峻殺朱主,埋於石子岡。歸命即位,將欲改葬之。塚墓相亞,不可識別,而宮人頗識主亡時所著衣服,乃使兩巫各住一處以伺其靈,使察鑑之,不得相近。久時,二人俱白:見一女人年可三十餘,上著青錦束頭,紫白袷裳,丹綈絲履,從石子岡上半岡,而以手抑膝長太息,小住須臾,進一塚上便住,徘徊良久,奄然不見。二人之言,不謀而同,於是開塚,衣服如之。
何姫
孫和の何姫は、丹陽句容の人である。父の何遂は、もとは騎士であった。孫権がかつて諸営を巡幸したとき、何姫は道端で見物していた。孫権は遠くから見て非凡に思い、宦官に命じて召し入れさせ、子の孫和に賜った。男子を生むと、孫権は喜び、彭祖と名づけた。これが孫皓である。太子孫和が廃されたのち、南陽王となって長沙に住んだ。孫亮が即位すると、孫峻が政治を補佐した。孫峻はかねて全公主に媚びて仕えており、全公主は孫和の母と不和であったので、孫峻に勧めて孫和を新都に移し住まわせ、使者を遣わして死を賜った。正妃の張氏もまた自殺した。
孫和何姬,丹楊句容人也。父遂,本騎士。孫權嘗遊幸諸營,而姬觀於道中,權望見異之,命宦者召入,以賜子和。生男,權喜。名之曰彭祖,即皓也。太子和既廢,後為南陽王,居長沙。孫亮即位,孫峻輔政。峻素媚事全主,全主與和母有隙,遂勸峻徙和居新都,遣使賜死,嫡妃張氏亦自殺。
何姫は言った。「みな殉死したならば、誰が遺児を育てるのでしょうか。」こうして孫皓とその三人の弟を慈しみ育てた。孫皓が即位すると、孫和を昭献皇帝、何姫を昭献皇后と尊び、昇平宮と称し、ひと月余りののち皇太后に進めた。弟の何洪を永平侯、何蒋を溧陽侯、何植を宣城侯に封じた。何洪が死ぬと、子の何邈が後を継ぎ、武陵監軍となったが、晋に殺された。何植は官が大司徒に至った。
何姬曰:「若皆從死,誰當養孤?」遂拊育皓及其三弟。皓即位,尊和為昭獻皇帝,1何姬為昭獻皇后,稱昇平宮,月餘,進為皇太后。封弟洪永平侯,蔣溧陽侯,植宣城侯。洪卒,子邈嗣,為武陵監軍,為晉所殺。植官至大司徒。
裴松之注(1)
1《吳錄》曰:皓初尊和為昭獻皇帝,俄改曰文皇帝。
呉の末期に政治が暗く乱れると、何氏は驕って分を越え、子弟は横暴放縦で、民はこれに苦しんだ。そのため民の間に「孫皓はとうに死んでおり、立っているのは何氏の子である」という流言が起こったという。
吳末昏亂,何氏驕僭,子弟橫放,百姓患之。故民訛言「皓久死,立者何氏子」云。1
裴松之注(1)
1《江表傳》曰:皓以張布女為美人,有寵,皓問曰:「汝父所在?」答曰:「賊以殺之。」皓大怒,棒殺之。後思其顏色,使巧工刻木作美人形象,恆置座側。問左右:「布復有女否?」答曰:「布大女適故衛尉馮朝子純。」即奪純妻入宮,大有寵,拜為左夫人,晝夜與夫人房宴,不聽朝政,使尚方以金作華燧、步搖、假髻以千數。令宮人著以相撲,朝成夕敗,輒出更作,工匠因緣偷盜,府藏為空。會夫人死,皓哀愍思念,葬於苑中,大作塚,使工匠刻柏作木人,內塚中以為兵衛,以金銀珍玩之物送葬,不可稱計。已葬之後,皓治喪於內,半年不出。國人見葬太奢麗,皆謂皓已死,所葬者是也。皓舅子何都顏狀似皓,云都代立。臨海太守奚熙信訛言,舉兵欲還誅都,都叔父植時為備海督,擊殺熙,夷三族,訛言乃息,而人心猶疑。
孫皓の滕夫人は、もとの太常滕胤の一族の娘である。滕胤が一族皆殺しにされたとき、夫人の父の滕牧は縁が遠かったので辺境の郡に移された。孫休が即位して大赦を行うと、帰ることができ、滕牧は五官中郎となった。孫皓が烏程侯に封ぜられると、滕牧の娘を迎えて妃とした。孫皓が即位すると、彼女を皇后に立て、滕牧を高密侯に封じ、衛将軍に任じて録尚書事とした。のちに朝廷の士人たちは、滕牧が尊い外戚であることから、しきりに彼を押し立てて諫め争わせた。
孫皓滕夫人,故太常胤之族女也。胤夷滅,夫人父牧,以疏遠徙邊郡。孫休即位,大赦,得還,以牧為五官中郎。皓既封烏程侯,聘牧女為妃。皓即位,立為皇后,封牧高密侯,拜衛將軍,錄尚書事。後朝士以牧尊戚,頗推令諫爭。
そして夫人への寵愛はしだいに衰え、孫皓はますます喜ばなかったが、孫皓の母の何氏が常にこれをかばった。また太史が、運暦からみて皇后を替えてはならないと言い、孫皓は巫覡を信じていたので、廃されずにすみ、常に昇平宮に仕えて供養した。滕牧は蒼梧郡に送られて住まわされ、爵位は奪われなかったものの、実際は辺境への追放であり、そのまま道中で憂えて死んだ。長秋宮の官僚は員数をそろえているだけであったが、朝賀や表疏は以前のとおり受けた。しかし孫皓の後宮の寵姫たちのうち、皇后の璽綬を帯びる者が多かった。天紀四年、孫皓に従って洛陽に移った。
而夫人寵漸衰,皓滋不悅,皓母何恆左右之。又太史言,於運歷,后不可易,皓信巫覡,故得不廢,常供養昇平宮。牧見遣居蒼梧郡,雖爵位不奪,其實裔也,遂道路憂死。長秋官僚,備員而已,受朝賀表疏如故。而皓內諸寵姬,佩皇后璽紱者多矣。1天紀四年,隨皓遷於洛陽。
裴松之注(1)
1《江表傳》曰:皓又使黃門備行州郡,科取將吏家女。其二千石大臣子女,皆當歲歲言名,年十五六一簡閱,簡閱不中,乃得出嫁。后宮千數,而採擇無已。
評
評
評に曰く:『易』に「家を正して天下定まる」と称し、『詩』に「寡妻に刑(のっと)り、兄弟に至り、以て家邦を御む」と言う。まことなるかな、この言は。遠くは斉の桓公を観、近くは孫権を察するに、ともに士を見抜く明と傑人の志を持ちながら、嫡庶を分かたず、閨庭が錯乱し、笑いを古今に遺し、禍は後嗣に流れた。これによって論ずるに、ただ道義を心とし、公平で一なることを主とする者のみが、はじめてこの累を免れることができるのであろう。
評曰:《易》稱「正家而天下定」。《詩》云:「刑於寡妻,至於兄弟,以御於家邦」。誠哉,是言也!遠觀齊桓,近察孫權,皆有識士之明,傑人之志,而嫡庶不分,閨庭錯亂,遺笑古今,殃流後嗣。由是論之,惟以道義為心、平一為主者,然後克免斯累邪!
日本語現代語訳 — 3KDEX訳(検収前) · 原文:ウィキソース本『三國志』(繁体字、裴松之注を含む) · 裴松之注は原文のみ掲載(翻訳なし)。