許攸

正史演義 袁紹勢力 字 子遠 Xu YouZiyuan허유자원许攸

プロフィール
職業正演謀士所属袁紹勢力
登場正演収録
出生出身地南陽郡
死去死去地演冀州
死因正処刑 演殺害 推定
実在実在言及正18回

人物紹介

許攸は字を子遠といい、南陽の人である。霊帝のとき冀州刺史の王芬らと霊帝の廃位を謀って失敗し、のちに袁紹の謀主となった。 正史 呉書 巻17 §32正史 魏書 巻1 §4正史 魏書 巻6 §49

建安5年(200)、官渡で袁紹と曹操が対峙したとき、袁紹が彼の財貨への欲を満たせず、審配がその妻子を捕らえたため、曹操のもとへ逃れて淳于瓊らを討つよう勧め、これによって袁紹の軍は大いに崩れた。のちに旧縁を恃んで不遜であったため、曹操に殺された。 正史 魏書 巻10 §31–32正史 魏書 巻1 §69–70正史 魏書 巻12 §19

正史には許攸の伝が別になく、陳寿の評もない。演義では第7回に袁紹が冀州の政務を分担させた者の一人として初めて登場し、全120回のうち6回に現れ、第32回の回目「漳河を決して許攸 計を献ず」に名が入る。第30回で曹操に烏巣の兵糧を焼く計を献じ、第33回で許褚に殺される。 演義 第7回 §7演義 第32回 §46演義 第30回 §32演義 第33回 §7

正史の記録

正史には許攸の伝が別になく、事績は武帝紀と袁紹・荀彧・荀攸・崔琰らの伝に散らばっている。武帝紀によれば、霊帝のとき冀州刺史の王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らが豪傑と結んで霊帝を廃し合肥侯を立てようと謀り、これを太祖(曹操)に告げたが、太祖は拒み、王芬らは結局失敗した。 正史 魏書 巻1 §4

袁紹は易京で公孫瓚を破ってその手勢を併せたのち許を攻めようとし、審配と逢紀に軍事を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主とし、顔良・文醜を将とした。 正史 魏書 巻6 §49

荀彧伝によれば、孔融は荀彧に、田豊と許攸は智謀の士として袁紹のために謀っているので、勝つのは難しいのではないかと言った。荀彧は、袁紹の兵は多いが法が整っておらず、許攸は貪欲で身を治められないと言った。また、審配と逢紀が留まって後事を担うであろうが、許攸の家が法を犯せば必ず見逃せず、そうなれば許攸は必ず変を起こすであろうと言った。 正史 魏書 巻10 §29–30

建安5年(200)、太祖は官渡を守って袁紹と対峙した。その年の冬10月、袁紹は淳于瓊ら5人に兵1万あまりを率いさせて穀物の車を護送させ、彼らは袁紹の陣営の北40里のところに宿営した。袁紹の謀臣許攸は財貨を貪ったが、袁紹がその欲を満たせなかったので太祖のもとへ逃れてきて、淳于瓊らを討つよう勧めた。荀攸伝は、許攸が降ってきて、淳于瓊らが1万あまりの兵で運ばれてくる兵糧を迎えているが、将は驕り兵は怠けているので、待ち伏せして討てると言ったと記す。 正史 魏書 巻10 §31 · 59正史 魏書 巻1 §68–69

左右はこれを疑ったが、荀攸と賈詡が勧めたので、太祖は曹洪を留めて守らせ、自ら歩騎5千を率いて夜に出向き、淳于瓊らを大いに破ってみな斬った。袁紹の将の張郃と高覧が来降して袁紹の軍は大いに崩れ、袁紹と袁譚は軍を捨てて黄河を渡って逃げた。 正史 魏書 巻1 §69–70

荀彧伝は、審配が許攸の家が法を犯したとしてその妻子を捕らえると、許攸は怒って袁紹に背いたと記し、顔良と文醜が戦場で首を斬られ、田豊が諫めて処刑されたこととあわせて、すべて荀彧の見立てどおりであったとする。 正史 魏書 巻10 §32

崔琰伝によれば、太祖は性格が猜疑深く、耐えられない者があれば放っておかず、魯国の孔融と南陽の許攸・婁圭はみな旧縁を恃んで不遜であったため殺された。陳寿の本文は許攸が死んだ年を明らかにしていない。 正史 魏書 巻12 §19

のちに呉の胡綜は魏の将呉質の名をかたって降伏文書を作ったが、その中に、昔許子遠(許攸)が袁氏を捨てて曹氏に就き、計略を立てるとすぐに受け入れられ、ついに袁氏の軍を破って曹氏の大業を定めた、そのとき曹氏が彼を信じずにためらっていれば天下は袁氏のものになっていたであろう、というくだりがある。許攸には伝が別にないため、陳寿の評もない。 正史 呉書 巻17 §19 · 32

演義の描写

演義第7回で、袁紹は冀州に入って韓馥の権力をすべて奪い、田豊・沮授・許攸・逢紀に州の政務を分担させるが、このとき許攸が初めて登場する。第22回で鄭玄の手紙を受け取った袁紹が兵を起こすべきか迷うと、許攸は荀諶とともに入ってきて、漢の賊を討って王室を助けるのだから兵を起こすのが正しいと声をそろえて答える。袁紹は田豊・荀諶・許攸を謀士とする。同じ回で荀彧は孔融に、許攸は貪欲で知恵がないと評する。 演義 第7回 §7演義 第22回 §8–9 · 30

第30回で演義は、許攸を字を子遠といい、若いころ曹操の友であったと紹介する。曹操が荀彧に兵糧を催促するために送った使者が捕らえられてくると、許攸はその手紙を見つけ、許昌はきっと空になっているので一隊で夜を徹して奇襲しようと袁紹に勧める。袁紹は計略だとして聞き入れないが、ちょうどそこへ審配から、許攸は冀州で民の財物をみだりに受け取り、息子や甥たちに税を多く取り立てさせたので、彼らを獄に入れたという手紙が届く。袁紹は許攸を曹操の間者だと罵って追い出し、許攸は剣で自ら首をはねようとするが、左右に勧められて曹操のもとへ行く。 演義 第30回 §21–25

曹操は南陽の許攸が来たと聞くと、履物も履かずに裸足で出迎え、先に地に伏して拝礼する。許攸が兵糧はどれほど残っているかと尋ねると、曹操は1年、半年、3か月、今月分と答えを変え、許攸は捕らえた使者の手紙を見せて兵糧はすでに尽きていると指摘する。続けて、袁紹の兵糧はすべて烏巣に積まれており、守る淳于瓊は酒を好んで備えがないので、袁紹の将の蒋奇が兵糧を守りに来たと偽って入り焼き払うよう言う。張遼は許攸の偽りを疑うが、曹操は彼の計を用いる。 演義 第30回 §27–33

烏巣の兵糧を失い、張郃と高覧までもが去って袁紹の軍心が動揺すると、許攸は曹操に急いで進軍するよう勧める。第32回で曹操が兵を返して冀州を攻めると、許攸は漳河の水を決壊させて城を水浸しにしようと言い、曹操は城外に周囲40里の塹壕を掘る。 演義 第30回 §51演義 第32回 §46

第33回で許攸は、冀州城の門に入る曹操を鞭で指して「阿瞞よ、お前はわしを得なければ、どうしてこの門に入れたか」と呼びかけ、諸将の不満を買う。東門で出会った許褚にも、お前たちはわしなしでどうしてこの門を出入りできようか、お前たちはみな匹夫だと大口をたたき、許褚の剣で殺される。曹操は、古い友だから戯れただけだと言って許褚を責め、許攸を手厚く葬らせる。第45回で周瑜は、曹操が袁紹に勝ったのは許攸の計を用いてまず烏巣の兵糧を断ったからだと言う。 演義 第33回 §3 · 7–8演義 第45回 §3

演義と異なる点

袁紹のもとへ行った時期:演義第7回では、袁紹が冀州に入って韓馥の権力を奪うときに許攸らに州の政務を分担させる。正史の袁紹伝は、公孫瓚を破ったのち田豊・荀諶・許攸を謀主としたと記す。それより前、武帝紀には霊帝を廃そうとした王芬の謀に南陽の許攸が加わっているが、演義にはこの謀がない。 演義 第7回 §7正史 魏書 巻6 §49正史 魏書 巻1 §4

許昌奇襲の進言:演義第30回で許攸は曹操の使者を捕らえ、許昌を奇襲しようと袁紹に勧める。正史の武帝紀と荀彧・荀攸の伝にはこの進言がなく、許攸は逃れてきて淳于瓊を討つよう勧めたことだけが見える。 演義 第30回 §21–22正史 魏書 巻1 §68–69正史 魏書 巻10 §32 · 59

背いた理由:演義第30回では審配が許攸の息子と甥たちを獄に入れたという手紙を送り、袁紹が許攸を曹操の間者だと罵って追い出す。正史の武帝紀は、許攸が財貨を貪ったが袁紹がその欲を満たせなかったので逃れたとし、荀彧伝は、審配が許攸の家が法を犯したとしてその妻子を捕らえると、怒って背いたと記す。 演義 第30回 §23–24正史 魏書 巻1 §69正史 魏書 巻10 §32

曹操の出迎え:演義第30回で曹操は裸足で許攸を出迎え、兵糧はどれほどかという問いに答えを変えて見破られる。正史の武帝紀には許攸が逃れてきて淳于瓊らを討つよう勧めたとあるだけで、裸足の出迎えと兵糧の問答はない。 演義 第30回 §27–30正史 魏書 巻1 §69

烏巣襲撃の決定:演義第30回では許攸が袁紹の将の蒋奇を名乗って入るよう教え、張遼が許攸を疑う。正史の武帝紀では左右が疑ったが、荀攸と賈詡が太祖に勧めた。蒋奇は正史の袁紹伝で、沮授が別に送って曹公の略奪を断とうと袁紹に言った将である。 演義 第30回 §32–33正史 魏書 巻1 §69正史 魏書 巻6 §53

水攻めの計:演義第32回では許攸が漳河の水を決壊させて冀州城を水浸しにしようと言う。正史の袁紹伝と武帝紀では、太祖が鄴を囲んで周囲40里の塹壕を最初は浅く掘り、一晩で深く掘って漳水を決壊させて水を注いだとあり、この計を立てた人は記されていない。 演義 第32回 §46正史 魏書 巻6 §64正史 魏書 巻1 §82

死:演義第33回で許攸は許褚に大口をたたいて許褚の剣で殺され、曹操は許褚を責めて許攸を手厚く葬る。正史の崔琰伝では、太祖が旧縁を恃んで不遜であった許攸を殺したと記し、許褚は登場しない。 演義 第33回 §7–8正史 魏書 巻12 §19

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3635−1
  • 武力3131±0
  • 知力8086+6
  • 政治3825−13
  • 魅力3535±0
  • 徳1820+2
  • 処世4045+5
  • 文芸3840+2
  • 弁舌5565+10
  • 用人3642+6
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

政治正38推定演25 −13

正直接の記録なし — 袁紹の謀主としての役割から推定魏書 巻6 §49

演冀州で民の財物を受け取り、子弟が税を多く取り立てた第30回 §23

弁舌・外交正55演65 +10

正淳于瓊襲撃を太祖に説き、廃立の謀を太祖に告げたが拒まれた魏書 巻1 §4魏書 巻1 §69

演三か月分、今月分と言い繕う曹操に、兵糧はすでに尽きていると指摘した第30回 §29

近い項目 8件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(6回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷 所属変更 1回

  1. 袁紹勢力 (190~200) 仕官 · 正史 · 正史 巻12 「初平中隨紹在冀州」
  2. 魏 (200~204) 亡命 · 正史 · 正史 巻1 「紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。」

関連事件(3)

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