演義の場面
皇叔敗走投袁紹
事件紹介
「皇叔敗走投袁紹」は演義第24回の回目「国賊行兇殺貴妃 皇叔敗走投袁紹」の後半の場面で、徐州之戦で曹操に敗れた劉備が単騎で青州の袁譚のもとへ行き、袁紹に身を寄せる話である。演義は、董承一党が処刑された後に曹操が20万の大軍で徐州を攻めるくだりにこの場面を置く。 演義 第24回 §13 · 24–28
陳寿の本文にも同じことがある。蜀書巻2先主伝と魏書巻1武帝紀・巻6袁紹伝は、建安5年(200)正月に曹操が自ら劉備を攻めて破ると、劉備は青州へ逃れて袁譚の出迎えを受け、袁紹のもとへ行ったと記す。 正史 蜀書 巻2 §16–17正史 魏書 巻1 §58–59正史 魏書 巻6 §50
演義の描写
第24回で曹操が20万の大軍を五手に分けて徐州へ下ってくると、劉備は孫乾を河北に送って袁紹に救援を求める。袁紹は最もかわいがる末子が疥癬を患っていると言って兵を出さず、許昌が空いた隙を突こうと説いた田豊は、幼子の病のために機会を逃すと杖で地を打つ。袁紹は孫乾に、思いどおりにいかなければ自分のもとへ身を寄せに来いと告げる。 演義 第24回 §13–16
劉備は張飛の言に従って着いたばかりの曹操の陣営を夜襲するが、曹操は狂風で牙旗が折れたのを見て、荀彧・毛玠の解き明かしどおりに兵を九隊に分けて八方に伏兵を置く。張飛は八人の将に囲まれ、率いていた元曹操軍の兵が降ってしまったため芒碭山へ向かい、劉備も夏侯惇・夏侯淵に追われて三十余騎だけが残り、小沛城に火が上がって帰る所を失う。 演義 第24回 §17–24
劉備は袁紹の言葉を思い出して青州への道を逃れ、道を塞いだ将を避けて単騎で抜け出す。一日三百里を駆けて青州に着くと刺史袁譚が迎え入れて父に知らせ、袁紹は自ら鄴郡から三十里出て平原の境の入り口で劉備を迎える。袁紹が幼い子の病のために救援できなかったと詫びると、劉備は妻子まで敵の手に落ちたと言って受け入れてほしいと請い、袁紹は彼を手厚くもてなして冀州にとどまらせる。 演義 第24回 §25–28
演義と異なる点
救援の要請と袁紹の拒絶:演義第24回では、曹操が攻め込んだ後に劉備が孫乾を送って救援を求め、袁紹は末子の疥癬を理由に断る。正史の先主伝で孫乾が袁紹と手を結びに行ったのはそれより前の昌霸が反乱した頃であり、袁紹伝で子の病を口実に退けたのは曹操の背後を突こうという田豊の策である。 演義 第24回 §13–16正史 蜀書 巻2 §16正史 魏書 巻6 §50
敗戦の経緯:演義第24回では張飛の計略で曹操の陣営を夜襲し、八方の伏兵にかかって劉備と張飛が散り散りになる。正史の武帝紀は曹操が劉備を攻めて破り、その将夏侯博を生け捕りにしたとし、先主伝は劉備が大敗したとだけ記して、陣営の夜襲と伏兵は出てこない。 演義 第24回 §17 · 21–24正史 魏書 巻1 §58正史 蜀書 巻2 §16
袁紹のもとへの道:演義第24回で劉備は単騎で青州に着いて袁譚の護送を受け、袁紹は鄴郡から三十里出て迎える。正史の先主伝では、かつて劉備が茂才に推挙した青州刺史袁譚が歩兵と騎兵を率いて迎えてともに平原へ行き、袁紹は鄴から二百里離れた所まで出て会い、劉備はひと月余りとどまる間に散った兵を再び集めた。 演義 第24回 §25–27正史 蜀書 巻2 §17
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