張臶

正史 魏 字 子明 Zhang JianZiming장천자명张臶

プロフィール
職業正学者所属魏 異説
登場正収録魏書
出生正136年 推定出身地鉅鹿郡
死去正240年 推定死去地
実在実在言及正7回

人物紹介

張臶は字を子明といい、鉅鹿の人である。魏の時代に隠棲した学者で、正史では魏書巻11に管寧の伝の後、潁川の胡昭とともに伝が載せられている。 正史 魏書 巻11 §99–100

若くして太学に遊学したのち、袁紹・高幹・曹操の招きをすべて受けず、上党・常山・任県へと移り住み、常山に隠れたときには門徒が数百人に及んだ。正始元年(240)、家の門の陰に戴鵀の鳥が巣を作ったのを凶兆とし、十日後に死去した。時に105歳であった。 正史 魏書 巻11 §100 · 103

陳寿は評で、張臶と胡昭は門を閉ざして静を守り、当世のことを営まなかったので、あわせて記録したと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻11 §111

正史の記録

鉅鹿の張臶は字を子明といい、潁川の胡昭とともに志を養って仕官しなかった。張臶は若くして太学に遊学し、経学と讖緯学をあわせて学び、のちに郷里に帰った。 正史 魏書 巻11 §100

袁紹が再三招いたが応じず、上党に移り住んだ。并州牧高幹が上表して楽平令に任じたが赴任せず、常山に移り隠れると門徒は数百人に及び、さらに任県に移り住んだ。曹操が丞相となって招いたが赴かなかった。太和年間に、隠れた学者で災いを消し異変を鎮めることのできる士を求める詔が下ると、郡は幾度も張臶を推挙して送り出そうとしたが、老いて病んでいたので行かなかった。 正史 魏書 巻11 §100

広平太守盧毓が着任して三日後、綱紀の属官が、前例に従って名刺を送り張臶を訪ねるべきだと申し上げた。盧毓は「張先生はいわゆる、上は天子に仕えず、下は諸侯を友としない人である。このような人を名刺を送って訪ねることで飾り立てられようか」と教令を下し、ただ主簿を遣わして書簡を奉じ、羊と酒の礼物を届けさせた。 正史 魏書 巻11 §101

青龍4年(236)の詔書は、張掖郡の玄川で図を負った宝石が現れ、太史令高堂隆がこれを魏の受けた吉祥の命であると述べたと記し、このことは天下に頒布された。任県令の于綽がこれを持って張臶に尋ねると、張臶はひそかに于綽に「そもそも神は来たるべきことを知らせるもので、過ぎたことを追うものではない。吉祥はまず現れ、その後に興亡が従うのだ。漢はすでに久しく滅び、魏はすでに天下を得ているのに、どうして遡って興隆の兆しを示すことがあろうか。この石は今の変異であり、将来の吉兆である」と語った。 正史 魏書 巻11 §101–102

正始元年(240)、戴鵀という鳥が張臶の家の門の北側の陰に巣を作った。張臶は門人たちに「そもそも戴鵀は陽の鳥であるのに門の陰に巣を作った。これは凶兆である」と言った。そして琴を引き寄せて歌い、詩二篇を作ったが、十日後に死去した。時に105歳であった。 正史 魏書 巻11 §103

この年、広平太守王粛が着任し、管下の諸県に教令を下した。都にいたとき張子明の名を聞き、訪ねようと思っていたが、すでに世を去っていたのはまことに惜しいとし、彼が篤く学んで隠居し、世と争わず道をもって身を楽しませたのに、老いるまで栄誉と恩寵を受けなかったとして、役人を遣わしてその家を慰問させ、門に目立つよう標識を掲げて格別に遇させた。 正史 魏書 巻11 §103–104

陳寿は巻11の評で、管寧は深く雅やかで高尚であり、確固として揺るがなかったと述べたのに続けて、張臶と胡昭は門を閉ざして静を守り、当世のことを営まなかったので、彼らをあわせて記録したと記した。 正史 魏書 巻11 §111

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力62
  • 政治33
  • 魅力66
  • 徳72
  • 処世60
  • 文芸72
  • 弁舌35
  • 用人40
各項目100点

項目別の根拠

スペシャル — 才能 正史 +10

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 異説 · 正史 · 「亦養志不仕」