杜恕

正史 魏 字 務伯 Du ShuWubo두서무백

プロフィール
職業正文官 · 幽州刺史所属魏
登場正収録魏書
出生正? 推定出身地京兆尹 杜陵県 推定
死去正252年 推定死去地正章武国
実在実在言及正20回

人物紹介

杜恕は字を務伯といい、魏の尚書僕射杜畿の子で、その跡を継いだ。太和年間に散騎黄門侍郎となって朝廷に八年あり、刺史の兵権兼任や考課の制度、廉昭の告発といった当時の政事をたびたび上疏で論じた。 正史 魏書 巻16 §34–37 · 45 · 54 · 70

弘農太守・河東太守・御史中丞などを経て幽州刺史となったが、征北将軍程喜の弾劾によって死刑の判決を受けた。父杜畿の功によって死を免れ、嘉平元年(249)に庶人とされて章武郡に移され、そこで『体論』を著し、嘉平4年(252)に死去した。 正史 魏書 巻16 §71–73 · 75

正史を著した陳寿は評で「杜恕は屡しば時政を陳べ、治体を経論す。蓋し観るべき有り」と評した。演義には登場しない。 正史 魏書 巻16 §98

正史の記録

杜恕は字を務伯という。父の杜畿が船を試して溺死したのち、その跡を継いだ。太和年間に散騎黄門侍郎となった。誠を尽くして質朴に振る舞い、飾らなかったので、若い頃は名声がなかった。朝廷に入っても徒党を組んで後ろ盾を求めず、ひたすら公務に心を注ぎ、政事に得失があるたびに大綱を引いて正論を述べたので、侍中の辛毗らは彼を高く評価した。 正史 魏書 巻16 §34 · 36

公卿以下が集まって制度の増減を大いに議論した際、杜恕は、古の刺史は六条を奉じて宣べ、清静によって名を得たのだから、いま刺史には兵を率いさせず、民事に専念させるべきだと述べた。まもなく鎮北将軍呂昭が冀州までも治めることになると、上疏した。帝王の道は民を安んずることであり、その方法は本に務め用を節して財を豊かにすることにあるのに、いまは官人までが孫武と呉起を第一とし、農桑の民が先を争って干戈の業に就いている、というのである。 正史 魏書 巻16 §37–38

杜恕は続けて、魏は十州の地を有しながら戸口はかつての一州の民にも及ばず、痩せ馬に鞭打って遠い道を行くようなものだと述べた。戸口と田地が最も多い冀州に再び軍事を任せてはならず、北方に鎮守が必要ならば別に大将を置けばよいと述べた。また、皇帝が即位したときに百数十人であった断獄が年ごとに増えて五百余人に至ったのは、牧守が職責に堪えていない明らかな証拠であり、天下を人の体にたとえれば兗州・豫州・司州・冀州が腹と胸にあたると述べた。 正史 魏書 巻16 §39–44

このとき、また内外の官吏を評価する考課の制度が大いに議論された。杜恕は上疏して、考課の法は大まかに従うことはできても細部まで備えるのは難しく、「世に乱す人は有れども乱るる法は無し」という言葉を引いた。州郡が士を評価するには、四科と実績を経て推挙し、功績の順に郡守に補任することが最も急務であり、公卿や大臣もその職務によって評価すべきであると述べた。また、いまの学者が商鞅と韓非を師として法術を尊び、儒家を迂遠だとすることが風俗の最大の弊害であると述べた。考課の制度は結局施行されなかった。 正史 魏書 巻16 §45–53

楽安の人廉昭は才能によって抜擢され、事を上奏することを好んだ。尚書郎の廉昭が左丞の曹璠を弾劾し、連座すべき者は別に上奏すると言うと、尚書令の陳矯は自ら上奏して罰を辞さないと述べた。杜恕は上疏して切に諫めた。臣下が忠を尽くさないせいだけではなく、君主が彼らを使いこなせないせいでもあり、騎都尉の王才と楽人の孟思の不法は下級の役人から明るみに出て、公卿大臣は一言も言わなかった、というのである。 正史 魏書 巻16 §54–59

杜恕はまた、司隷校尉の孔羨が大将軍の狂悖な弟を辟召したのに担当の官吏は口を閉ざしたのだから、門番に厳しい役人を置くことでは請託を防ぐ根本にはならないと述べた。奸悪を摘発するのは忠義の事であるが、君主が衆に逆らうことを公に奉ずることとし、ひそかに人のことを告げ口することを節義とするならば、天下はみな道に背いて利に走るだろうとして、どうして廉昭のような輩を養うのかと問うた。 正史 魏書 巻16 §65–69

陳寿は、杜恕が朝廷に八年あって、その議論の高く真っ直ぐなことはみなこのようであったと記した。杜恕は朝廷を出て弘農太守となり、数年後に趙国の相に移ったが、病のため官を去った。再び河東太守となり、一年あまりのちに淮北都督護軍に移ったが、また病のため去った。赴任した先々で大体を保つことに努めただけで、恵愛を施して民の歓心を得る点では杜畿に及ばなかった。まもなく御史中丞となった。 正史 魏書 巻16 §70–71

杜恕は朝廷で当時の人々と和合できなかったため、たびたび地方の官に出された。再び幽州刺史となり、建威将軍を加えられ、使持節として護烏丸校尉を兼ねた。このとき征北将軍程喜が薊県に駐屯しており、尚書の袁侃らは、程喜は先帝の時に青州で田豫を失脚させた人物であるから、同じ城に駐屯することになる杜恕は深く備えるべきだと戒めた。杜恕は意に介さなかった。 正史 魏書 巻16 §72–73正史 魏書 巻26 §25

着任して一年も経たないうちに、鮮卑の大人の子が関所や砦を経ずに騎兵数十を率いてまっすぐ州に来たが、州では従ってきた若者一人を斬って、上表して報告しなかった。程喜はこれによって杜恕を弾劾し、杜恕は廷尉に下されて死罪に当たるとの判決を受けた。父の杜畿が職務に励んで溺死したので死を免れ、庶人とされて章武郡に移された。嘉平元年(249)のことである。陳寿は、杜恕は闊達で気ままに振る舞ったが禍を防ぐことを考えず、ついにこのように失敗したと記した。 正史 魏書 巻16 §73

これより先、趙国から戻ったとき、杜恕は陳留の人阮武とともに廷尉に出向いて自ら取り調べを受けたが、阮武は彼に、才はあるが用はないと言い、閑暇を得たのだから深く思索して一家の言を成してみよと勧めた。杜恕は章武でついに『体論』8篇を著し、自分自身を修めるために『興性論』1篇を著した。嘉平4年(252)、流刑地で死去した。 正史 魏書 巻16 §74–75

甘露2年(257)、九十歳を超えた河東の人楽詳が上書して杜畿の残した功績を訴えると、朝廷は杜恕の子の杜預を豊楽亭侯に封じ、食邑百戸を与えた。 正史 魏書 巻16 §77

陳寿は評で、杜恕はたびたび時政について進言し、治体を論じたので、大いに見るべきものがあると述べた。 正史 魏書 巻16 §98

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率38
  • 武力31
  • 知力58
  • 政治70
  • 魅力38
  • 徳72
  • 処世22
  • 文芸72
  • 弁舌55
  • 用人50
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻16 「明帝以恕大臣子,擢拜散騎侍郎」

家族

父母杜畿 正史
子杜預 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。