正冀州の名士と称され、一時の正士に数えられた魏書 巻9 §130魏書 巻27 §59
演直接の記録なし — 推定第107回 §16
許允は高陽の人で、魏の侍中・中領軍を務めた。正史では夏侯玄伝の末尾に短い伝が付されており、曹爽伝と王基伝にも登場する。陳寿は、清河の人王経が許允とともに冀州の名士と称されたと記した。 正史 魏書 巻9 §127–128 · 130
嘉平元年(249)正月、司馬宣王(司馬懿)が兵を挙げると、尚書の陳泰とともに曹爽に早く自ら罪を認めるよう説いた。のちに中領軍として李豊・夏侯玄と親しく交わり、李豊らのことが発覚すると鎮北将軍に移されたが、出発前に官物をみだりに分け与えたことで捕らえられ、楽浪へ流される途中で死んだ。 正史 魏書 巻4 §28正史 魏書 巻9 §85 · 128
陳寿は魏書巻9の評で彼を別に評していない。王基は司馬景王(司馬師)に送った書で、許允・傅嘏・袁侃・崔賛を「みな一時の正士」と述べた。演義には第107回にのみ登場し、120回のうち1回に登場する。司馬懿の言葉を曹爽に伝え、印綬を受け取っていく侍中として描かれる。 正史 魏書 巻9 §132正史 魏書 巻27 §59演義 第107回 §9 · 19
嘉平元年(249)正月、天子の車駕が高平陵に参拝に出かけ、曹爽兄弟がみな従うと、司馬宣王(司馬懿)は兵を挙げ、曹爽兄弟の吏兵を罷めさせるよう上奏した。曹爽は上奏文を天子に取り次がないまま窮地に追い込まれ、大司農の桓範が天子の車駕を許昌に移し、外地の兵を呼び集めるよう説いたが、曹爽兄弟はためらって決められなかった。 正史 魏書 巻4 §28正史 魏書 巻9 §80 · 83–85
このとき侍中の許允と尚書の陳泰が、曹爽に早く自ら罪を認めるよう説いた。そこで曹爽は許允と陳泰を司馬宣王のもとへ遣わして罪を認め死を請い、ようやく司馬宣王の上奏文を天子に取り次いだ。曹爽兄弟は免職されて列侯の身分で邸宅に帰り、のちに張当の供述によって何晏らとともに処刑された。 正史 魏書 巻9 §85 · 87–88
司馬景王(司馬師)が新たに政治を総べるようになると、王基は書を送って戒め、許允・傅嘏・袁侃・崔賛はみな一時の正士で、まっすぐな資質があって流されやすい心がないので、ともに政事を行うに足る人々であると述べた。景王はその言を受け入れた。 正史 魏書 巻27 §59
中領軍で高陽の人である許允は、李豊・夏侯玄と親しく交わっていた。これより先、何者かが一尺一寸の詔書を偽作し、夏侯玄を大将軍に、許允を太尉として、ともに録尚書事とするとした。夜が明ける前、ある者が馬に乗って来て詔版を許允の門番に渡し、「詔がある」と言うとそのまま馬を走らせて去った。許允はすぐにその書を火に投じて焼き、開いて見ることも司馬景王に差し出すこともしなかった。 正史 魏書 巻9 §128
中書令の李豊は、皇后の父である光禄大夫張緝と結んで夏侯玄に政治を補佐させようと謀り、嘉平6年(254)2月に貴人を冊立する時に乗じて大将軍を殺そうとした。大将軍司馬景王はその謀議をうすうす聞きつけて李豊を呼び、その場で殺し、夏侯玄・張緝らは捕らえられて廷尉に送られた。 正史 魏書 巻9 §122–124
李豊らのことが発覚した後、許允は鎮北将軍に移され、節を仮されて河北の諸軍事を監督することになった。しかしまだ出発しないうちに、官物をみだりに分け与えたことで捕らえられて廷尉に引き渡され、楽浪へ流される途中、道中で死んだ。 正史 魏書 巻9 §128
陳寿は、清河の人王経も許允とともに冀州の名士と称されたと記し、郡守となった王経が、もうやめるようにという母の言葉に従えず、ついに破滅したことを付け加えた。また、許允の友人で同郡の崔賛も、かつて処世が盛んにすぎると許允を戒めたことがあったとした。 正史 魏書 巻9 §130
魏書巻9末の評で陳寿は曹爽と夏侯玄を評しただけで、許允を別に評してはいない。陳寿の本文は許允の字と没年を記していない。 正史 魏書 巻9 §132 · 127–128
演義第107回で司馬懿は、曹爽が城を出た隙に城内を掌握したのち、許允と陳泰を呼んで、曹爽に会い、太傅には他意はなく、ただその兄弟の兵権を削ろうとしているだけだと伝えさせる。司馬懿はまた殿中校尉の尹大目に蒋済の書簡を持たせて曹爽のもとへ送る。 演義 第107回 §9
司農の桓範が、天子を奉じて許都へ行き、外地の兵を呼んで司馬懿を討とうと急き立てているところへ、侍中の許允と尚書の陳泰が到着し、「太傅はただ将軍の権勢が重すぎるので兵権を削ろうとしているだけで、他意はありません」と言って、早く城内に戻るよう言う。曹爽は黙って何も言わず、続いて来た尹大目は、太傅が洛水を指して誓ったと伝える。 演義 第107回 §14–17
一昼夜ためらった曹爽が剣を投げ捨て、官を捨てて富家の翁として暮らすと言うと、許允と陳泰は曹爽にまず印綬を司馬懿に差し出させる。主簿の楊綜が印綬をつかんで泣きながら、東市で処刑されることになると引き止めるが、曹爽は太傅が信義を裏切ることはないと言い、印綬を許允・陳泰の二人に渡して先に司馬懿のもとへ持って行かせる。将の印がなくなったのを見た兵士たちは、みな四方に散っていく。 演義 第107回 §18–19
誰が遣わしたか:演義第107回では、司馬懿が許允と陳泰を呼んで曹爽のもとへ送り、兵権を削ろうとしているだけだと伝えさせる。正史曹爽伝では、侍中許允と尚書陳泰が曹爽に早く自ら罪を認めるよう説き、曹爽が二人を司馬宣王のもとへ遣わした。 演義 第107回 §9 · 16正史 魏書 巻9 §85
持って行ったもの:演義第107回で許允と陳泰は、曹爽から印綬を受け取って先に司馬懿のもとへ持って行く。正史で二人は曹爽に遣わされて司馬宣王のもとへ行き、罪を認めて死を請うたのであり、印綬を持って行ったという話は陳寿の本文にない。 演義 第107回 §19正史 魏書 巻9 §85
その後のこと:正史で許允は中領軍として李豊・夏侯玄と親しく交わり、自分を太尉とする偽の詔書を焼き捨て、李豊らのことが発覚した後に鎮北将軍に移されたが、官物をみだりに分け与えたことで楽浪へ流される途中で死んだ。演義では許允は第107回を最後に登場せず、これらの出来事と彼の死は描かれない。 正史 魏書 巻9 §128演義 第107回 §19
王基の推挙:正史王基伝で王基は、司馬景王に許允をともに政事を行うに足る正士として挙げた。演義にはこの言葉は出てこない。 正史 魏書 巻27 §59演義 第107回 §9–19
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正冀州の名士と称され、一時の正士に数えられた魏書 巻9 §130魏書 巻27 §59
演直接の記録なし — 推定第107回 §16
正直接の記録なし — 中領軍・鎮北将軍への任命から推定魏書 巻9 §128
演直接の記録なし — 侍中という文官の立場から推定第107回 §9
正正士に数えられたが、官物をみだりに分け与えて捕らえられた魏書 巻27 §59魏書 巻9 §128
演直接の記録なし — 推定第107回 §9
正直接の記録なし — 推定魏書 巻9 §128
演直接の記録なし — 推定第107回 §9
正直接の記録なし — 推定魏書 巻9 §128
演直接の記録なし — 推定第107回 §16
正直接の記録なし — 推定魏書 巻9 §128
演直接の記録なし — 推定第107回 §16
正自分を太尉とする偽の詔書を開かずにすぐ焼いた魏書 巻9 §128
演司馬懿の使者として曹爽のもとへ赴いた第107回 §9
正直接の記録なし — 名士としての評判から推定魏書 巻9 §130
演直接の記録なし — 推定第107回 §9
正直接の記録なし — 推定魏書 巻9 §128
演直接の記録なし — 推定第107回 §9
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。