山涛 山濤
人物紹介
山涛は陳寿の本文に名が出てこない。魏書巻4の三少帝紀は、咸熙元年(264)3月己卯の日に晋公の爵位を進めて王とし、同年冬丙午の日に司馬炎を晋の世子としたと記すが、世子を定めるにあたって誰がどのようなことを言ったかは記していない。 正史 魏書 巻4 §128–129 · 139 · 144
演義では120回のうち第119回の1回だけに登場し、回目に名は入らない。晋王に封じられた司馬昭が次男司馬攸を世子に立てようとすると、山涛は長子を廃して幼い子を立てるのは礼に背き不吉であると真っ先に諫める。演義は彼の官職や出身を明らかにしていない。 演義 第119回 §31–32
正史の記録
陳寿の本文には山涛の名は出てこない。演義で彼が諫める晋の世子問題について、魏書巻4の三少帝紀は、咸熙元年(264)3月己卯の日に晋公の爵位を進めて王とし十郡を封じ、同年8月に中撫軍司馬炎に相国の事を補佐させ、9月に撫軍大将軍とし、冬丙午の日に撫軍大将軍・新昌郷侯司馬炎に命じて晋の世子としたとだけ記す。世子をめぐって臣下が諫めた言葉は陳寿の本文にない。 正史 魏書 巻4 §128–130 · 134 · 139 · 144
演義の描写
演義第119回で朝廷の大臣たちは、司馬昭に西川を収めた功があるとして彼を王に尊ぼうと魏主曹奐に上表し、名ばかりの天子である曹奐は晋公司馬昭を晋王に封じる。司馬昭の妻である王粛の娘は二人の子を産んでいた。長子司馬炎は風采が堂々として立派で、聡明で胆力が人並み外れ、次男司馬攸は性格が穏やかで孝行であり司馬昭に深く愛されたが、子のない兄司馬師の跡を継がせていた。 演義 第119回 §31
司馬昭は常に「天下はわが兄の天下である」と言っていたので、晋王に封じられると司馬攸を世子に立てようとする。この時、山涛が「長子を廃して幼い子を立てるのは礼に背き不吉です」と諫める。続いて賈充・何曽・裴秀が長子は人臣の相ではないと諫め、司馬昭がためらうと、太尉王祥と司空荀顗も前代に幼い子を立てた例は多く国を乱したと諫める。司馬昭はついに長子司馬炎を世子に立てる。 演義 第119回 §32–33
演義と異なる点
世子をめぐって諫めた人:演義第119回では司馬昭が司馬攸を世子に立てようとすると山涛が真っ先に諫め、賈充・何曽・裴秀と王祥・荀顗が続いて諫めて司馬炎が世子となる。正史の三少帝紀は咸熙元年(264)冬丙午の日に司馬炎を晋の世子としたとだけ記し、山涛をはじめ諫めた臣下は登場しない。 演義 第119回 §32–33正史 魏書 巻4 §144
世子となった経緯:演義第119回では司馬昭が晋王に封じられるとすぐに世子の議論が起こる。正史では咸熙元年3月己卯の日に晋王となった後、司馬炎が8月に相国の事を補佐し、9月に撫軍大将軍となり、冬丙午の日に世子となる。 演義 第119回 §31–33正史 魏書 巻4 §129–130 · 134 · 144
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
陳寿『三国志』本文に記録がないため、演義の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力48
- 政治42
- 魅力40
- 徳55
- 処世42
- 文芸45
- 弁舌50
- 用人40
項目別の根拠
演直接の記録なし — 軍事の記録なし第119回 §32
演直接の記録なし — 武勇の記録なし第119回 §32
演直接の記録なし — 世子問題を諫めた記録から推定第119回 §32
演直接の記録なし — 晋王の臣として推定第119回 §32
演直接の記録なし — 名前のみ登場第119回 §32
演長子を廃して幼い子を立てるのは礼に背くと諫めた第119回 §32
演直接の記録なし — 諫言は一度だけ第119回 §32
演直接の記録なし — 礼を挙げて諫めた記録から推定第119回 §32
演司馬昭に世子問題を真っ先に諫めた第119回 §32
演直接の記録なし — 人材に関する記録なし第119回 §32
演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。