正直接の記録なし — 皇后として推定魏書 巻1 §145
曹節
人物紹介
曹節は曹操の娘で、後漢の献帝の皇后である。正史には独立した伝がなく、陳寿の本文では魏書巻1武帝紀と巻4三少帝紀に出てくる。武帝紀は建安20年(215)春正月に天子が曹操の中の娘を皇后に立てたと記し、三少帝紀は景元元年(260)夏6月己未の日に、もとの漢の献帝の夫人節が死ぬと献穆皇后と追諡したと記す。陳寿の本文は彼女の生年やそのほかの事績を記していない。 正史 魏書 巻1 §145正史 魏書 巻4 §114
演義では第66回に曹貴人として初めて登場し、全120回のうち第66・80回の2回に登場するが、回目に名が挙がる回はない。第66回で伏皇后が死んだのち、曹操の願いによって建安20年正月元日に正宮皇后に冊立され、第80回では曹后と呼ばれ、剣を帯びて入って来て献帝に殿へ出るよう求める曹洪・曹休を「乱賊」と罵る。 演義 第66回 §51演義 第80回 §6–7
正史の記録
武帝紀によれば、曹操が魏公となった建安18年(213)秋7月、初めて魏の社稷と宗廟が建てられ、天子は曹操の三人の娘を迎えて貴人とし、最も幼い娘は年頃になるまで魏国で待たせた。武帝紀は三人の娘の名を記さない。 正史 魏書 巻1 §121 · 134
建安19年(214)11月、漢の皇后伏氏が、かつて父である元屯騎校尉伏完に手紙を送り、皇帝が董承の誅殺のことで曹操を恨んでいると書いたことが露見した。皇后はこれに連座して廃されて死に、兄弟もみな法によって処刑された。翌年の建安20年(215)春正月、天子は曹操の中の娘を皇后に立てた。 正史 魏書 巻1 §136 · 142 · 145
文帝紀によれば、漢の皇帝は使者を遣わして璽綬を奉じさせ、魏王に位を譲る冊文を下し、魏王曹丕は繁陽の壇に登って帝位に即いたのち、元号を黄初と改めた。黄初元年(220)11月癸酉の日、曹丕は河内郡山陽邑の1万戸をもって漢の皇帝を山陽公に封じ、漢の正朔を行わせ、上書の際に臣と称さなくてよいこととした。明帝紀は、青龍2年(234)3月庚寅の日に山陽公が死ぬと、漢の孝献皇帝と追諡し、漢の礼で葬ったと記す。 正史 魏書 巻2 §13 · 16–17正史 魏書 巻3 §35
三少帝紀によれば、景元元年(260)夏6月己未の日、もとの漢の献帝の夫人節が死んだ。皇帝曹奐は華林園で哭礼を行い、使持節を遣わして夫人に献穆皇后と追諡し、葬儀の車服の制度はすべて漢の故事のとおりとした。陳寿の本文で彼女の名「節」が出てくるのはこの条だけである。 正史 魏書 巻4 §114–115
演義の描写
演義第66回は、建安19年11月に伏皇后が殺されたのちのこととして、献帝が何日も食事をとらないと、曹操が入って来て、臣には二心はなく、すでに陛下の貴人となった臣の娘はまことに賢く孝行であるから、正宮に置かれるのがよいと奏上する様子を描く。献帝はあえて従わないわけにはいかず、建安20年正月元日、新年を祝う節に合わせて曹操の娘曹貴人を正宮皇后に冊立し、臣下のうちあえて口を開く者はいない。 演義 第66回 §49 · 51
第80回で華歆らは献帝に、堯・舜の道にならって魏王に禅譲するよう奏上し、李伏と許芝は祥瑞と図讖を挙げて催促する。献帝は、祥瑞も図讖もすべて虚妄であると言って大いに泣き、後殿へ入ってしまう。翌日、官僚たちは再び大殿に集まり、宦官を遣わして献帝を請うが、献帝は憂え恐れてあえて出ていかない。 演義 第80回 §1–6
曹后は、百官が朝議を開くよう願っているのに、なぜ先延ばしにして拒むのかと問い、献帝は、そなたの兄が帝位を簒奪しようと百官に迫らせているので出ないのだと泣きながら答える。曹后は大いに怒って「わが兄がどうしてこのような乱逆のことをするのですか」と言うが、言い終わらないうちに曹洪と曹休が剣を帯びて入って来て、献帝に殿へ出るよう求める。 演義 第80回 §6
曹后は二人に「すべてお前たち乱賊が富貴をむさぼり、ともに謀反を企てたのだ」と大いに罵り、父は功が天下を覆い威が天下を震わせても、あえて神器を簒奪しなかったのに、兄は位を継いでまもなく漢を簒奪しようと考えており、天は決して福を下さないであろうと言う。言い終えた曹后は声を上げて泣きながら宮中へ入り、そばに仕える者たちはみなむせび泣く。献帝は迫られてやむなく衣を替え、前殿へ出る。演義はその後、曹后のことを記さない。 演義 第80回 §7
演義と異なる点
皇后になった経緯:演義第66回では、伏皇后が死んだのち曹操が献帝に自分の娘を正宮に置くよう願い、献帝はあえて従わないわけにはいかず、曹貴人を皇后に立てる。正史の武帝紀は、建安19年(214)11月に伏皇后が廃されて死んだことと、翌年春正月に天子が曹操の中の娘を皇后に立てたことを記すだけで、曹操が願い出た言葉は記さない。 演義 第66回 §51正史 魏書 巻1 §142 · 145
貴人と姉妹:演義第66回の曹操は「臣の娘はすでに陛下の貴人となった」と言うだけである。正史の武帝紀は、建安18年(213)秋7月に天子が曹操の三人の娘を貴人に迎え、最も幼い娘は年頃になるまで魏国で待たせたと記し、皇后となった者を「中の娘」と呼ぶ。 演義 第66回 §51正史 魏書 巻1 §134 · 145
禅譲の時の叱責:演義第80回で曹后は、剣を帯びて入って来て献帝に殿へ出るよう求める曹洪・曹休を乱賊と罵り、兄曹丕の簒奪を責める。正史の文帝紀は、漢の皇帝が使者を遣わし、璽綬と冊文によって魏王に位を譲り、魏王が繁陽の壇に登って帝位に即いたと記すだけで、皇后は出てこない。 演義 第80回 §6–7正史 魏書 巻2 §13–16
死:演義には曹后の死は出てこない。正史の三少帝紀は、景元元年(260)夏6月己未の日、もとの漢の献帝の夫人節が死ぬと、皇帝曹奐が哭礼を行って献穆皇后と追諡し、葬儀を漢の故事のとおりに行ったと記す。 演義 第80回 §7正史 魏書 巻4 §114–115
呼び名:演義は彼女を第66回で曹貴人、第80回で曹后と呼び、名を記さない。正史は武帝紀で「曹操の中の娘」、三少帝紀で「もとの漢の献帝の夫人節」と呼び、死後に贈られた諡を献穆皇后と記す。 演義 第66回 §51演義 第80回 §6正史 魏書 巻1 §145正史 魏書 巻4 §114
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力3845+7
- 政治3533−2
- 魅力4052+12
- 徳4585+40
- 処世4035−5
- 文芸3535±0
- 弁舌3545+10
- 用人3333±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 皇后として推定魏書 巻1 §145
演泣きながら宮中へ入ると、そばの者たちがみなむせび泣いた第80回 §7
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §145
演曹洪・曹休を大いに罵ったが止められなかった第80回 §7
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正直接の記録なし — 皇后として推定魏書 巻1 §145
演直接の記録なし — 皇后として推定第80回 §7
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演直接の記録なし — 皇后として推定第80回 §7
正直接の記録なし — 皇后として推定魏書 巻1 §145
演直接の記録なし — 簒奪を叱責した言葉から推定第80回 §7
正直接の記録なし — 皇后として推定魏書 巻1 §145
演直接の記録なし — 皇后として推定第80回 §6
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §145
演直接の記録なし — 事績から推定第80回 §7
正直接の記録なし — 皇后として推定魏書 巻1 §145
演直接の記録なし — 皇后として推定第80回 §7
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §145
演直接の記録なし — 事績から推定第80回 §6
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。