曹幹
人物紹介
曹幹は魏の武皇帝曹操の子で、王昭儀が生んだ。建安20年(215)に高平亭侯に封じられた後、頼亭侯・弘農侯を経て、黄初年間に燕公・河間王・楽城県・鉅鹿へと爵位と封地が変わり、太和6年(232)に趙王に改封された。 正史 魏書 巻20 §2 · 40
母が太祖の寵愛を受け、文帝が後継ぎとなる際に力を添えた。文帝が臨終に遺詔を残したため、明帝は常に彼に恩愛を加えた。青龍2年(234)に私的に賓客と交わって弾劾されたが、明帝は璽書を下して戒め諭し、その過ちを許した。景元2年(261)8月に死去した。 正史 魏書 巻20 §40–41 · 44正史 魏書 巻4 §121
正史の魏書巻20武文世王公伝に短い伝がある。陳寿は巻末の評で、魏の王・公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §39–45 · 93
正史の記録
武皇帝曹操には息子が二十五人いたが、王昭儀は趙王曹幹を生んだ。 正史 魏書 巻20 §2
曹幹は建安20年(215)に高平亭侯に封じられた。建安22年(217)に頼亭侯に移封され、その年に弘農侯に改封された。黄初2年(221)に爵位が進んで燕公に移封され、黄初3年(222)に河間王となった。黄初5年(224)に楽城県に改封され、黄初7年(226)に鉅鹿に移封された。太和6年(232)に趙王に改封された。 正史 魏書 巻20 §40
曹幹の母は太祖の寵愛を受け、文帝が後継ぎとなる際に曹幹の母が力を添えた。文帝が臨終に遺詔を残したため、明帝は常に彼に恩愛を加えた。 正史 魏書 巻20 §40–41
青龍2年(234)、曹幹が私的に賓客と交わって有司に弾劾されると、明帝は彼に璽書を下して戒め諭した。璽書は『易』の「国を開き家を承くるに小人は用うる勿れ」と、『詩』の「大車惟れ塵のみ」という戒めを挙げた。そして太祖が初めて諸侯を封じた際、恭しく慎めという至言で教え、天下の端正な士を補佐とし、常に馬援の遺した戒めを唱えて諸侯が賓客と交わる禁令を厳しくし、妖悪を犯したのと同じに扱ったと述べた。これは骨肉を冷遇しようとしたのではなく、子弟には過ちがないように、士民には害を受ける悔いがないようにしようとしたのだと述べた。 正史 魏書 巻20 §41–42
璽書は続けて、高祖(文帝)が即位して諸侯は入朝できないという命令を重ねて明らかにしたが、明帝自身は詔があれば京都に来ることができるという文言に従って諸王に朝聘の礼を行わせたところ、楚王と中山王がともに交通の禁令を犯し、趙宗と戴捷がその罪で処罰されたと述べた。近ごろは東平王が属官に寿張県の吏を殴らせて有司の弾劾を受け、明帝が県を削るよう裁決したと述べた。 正史 魏書 巻20 §42–43
有司は、曹纂・王喬らが九族の節日を機に曹幹の家に集まり、時にはその時期でないこともあったので、いずれも禁令に違反したと述べた。明帝は璽書で、王は幼いころから恭順な素質があり、そのうえ先帝の顧命を受けているので、恩礼を厚くして子孫にまで及ぼしたいと言い、聖人でなければ誰が過ちなしにいられようかと述べた。そしてすでに有司に詔して王の過ちを許させたと告げ、君子は独りを慎むという古言を挙げて、叔父上は先帝の遺命を継ぎ、戦々兢々としてその地位を慎み敬って守るよう求めた。 正史 魏書 巻20 §43–44
景初・正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて5000戸となった。魏書の三少帝紀は、景元2年(261)秋8月戊寅の日に趙王曹幹が死去したと記す。 正史 魏書 巻20 §45正史 魏書 巻4 §121
陳寿は巻20末の評で、魏の王・公たちは封国と封土という名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そして骨肉の恩情が損なわれ、「常棣」の義が廃れたとして、制度の弊害がここまで至ったのかと嘆いた。 正史 魏書 巻20 §93
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力38
- 政治35
- 魅力40
- 徳38
- 処世35
- 文芸40
- 弁舌35
- 用人33
項目別の根拠
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正賓客と交わる禁令を破って弾劾されたが、詔は恭順と評した魏書 巻20 §41魏書 巻20 §43
正禁令違反で弾劾されたが、先帝の遺詔によって許された魏書 巻20 §41魏書 巻20 §44
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正直接の記録なし — 封爵を移されただけの曹操の子として推定魏書 巻20 §40
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。