曹沖

正史 字 倉舒 Cao ChongCangshu조충창서曹衝曹冲

プロフィール
職業正その他 · 鄧哀王所属
登場正収録魏書
出生正196年 推定出身地沛国 譙県 推定
死去正208年 推定死去地
死因正病死 推定
実在実在言及正12回

人物紹介

曹沖は字を倉舒といい、太祖(曹操)の子で、環夫人の生んだ子である。幼いころから聡明で物事の道理に明るく、五、六歳のときにはすでに考えの及ぶところが大人の知恵のようであった。孫権が贈ってきた象の重さを、船に載せて水の跡で量る方法を考え出し、刑罰が厳しかった時期には、死罪となる人々の事情をひそかに明らかにして、前後数十人を救った。 正史 魏書 巻20 §2 · 9–11

太祖はたびたび群臣の前で彼を称え、跡を継がせようという意向をもっていたが、曹沖は建安13年(208)、13歳で病死した。黄初2年(221)に鄧哀侯を追贈され、太和5年(231)に鄧哀王となった。 正史 魏書 巻20 §11–13

正史の魏書巻20武文世王公伝に伝がある。陳寿の評は、魏の王公たちが封国の名だけあって社稷の実がなかったとまとめて論じたもので、曹沖を個別に評してはいない。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §8–13 · 93

正史の記録

曹沖は字を倉舒という。武皇帝の二十五人の男子の一人で、環夫人が生み、同じ母から彭城王曹拠と燕王曹宇が生まれた。 正史 魏書 巻20 §2 · 9

幼いころから聡明で物事の道理に明るく、並外れて優れており、五、六歳のときにはすでに考えの及ぶところが大人の知恵のようであった。そのころ孫権が巨大な象を贈ってきたので、太祖はその重さを知ろうとして配下に尋ねたが、誰も方法を示せなかった。曹沖は、象を大きな船の上に載せ、水が達したところに刻みをつけてから、物を量って船に積み、その刻みに至らせれば比べて知ることができると言った。太祖は大いに喜び、すぐにそのとおりに行った。 正史 魏書 巻20 §9

そのころ軍事と国事に多事であったため、刑罰は厳しく重く用いられていた。倉庫に置いてあった太祖の馬の鞍を鼠がかじると、倉庫の役人は必ず死罪になると恐れ、自ら身を縛って出頭し罪を自白しようと考えたが、それでも免れないのではないかと恐れた。曹沖は彼に、三日待ってから自ら出頭するように言った。そして刀で単衣に穴をあけて鼠がかじったように見せかけ、わざと気落ちしたふりをして顔に憂いの色を浮かべた。 正史 魏書 巻20 §10

太祖がわけを尋ねると、曹沖は、世間では鼠が衣をかじるとその持ち主に不吉なことがあるというが、いま単衣がかじられたので、それで憂えているのだと答えた。太祖は、それはでたらめな話にすぎないから悩むことはないと言った。まもなく倉庫の役人が鞍をかじられたことを申し上げると、太祖は笑って「子どもの衣はそばにあってもかじられたのだ。まして柱に掛けた鞍はなおさらであろう」と言い、まったく問いたださなかった。 正史 魏書 巻20 §10–11

陳寿は、曹沖の仁愛と物事を見通す識見がみなこのようであったと記した。罪に問われて死ぬはずであったが、曹沖がひそかに事情を明らかにしてくれたおかげで救われ許された者は、前後数十人に及んだ。太祖はたびたび群臣の前で曹沖を称え、彼に跡を継がせようという意向をもっていた。 正史 魏書 巻20 §11

13歳となった建安13年(208)に病にかかると、太祖は自ら彼のために命乞いの祈りをした。彼が死ぬと、太祖はひどく悲しんだ。文帝(曹丕)が太祖を寛やかに慰めると、太祖は「これは私の不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」と言い、このことを話すたびに涙を流した。方技伝には、愛児の倉舒が病で危篤になると、太祖が「華佗を殺したことが悔やまれる。この子を天寿を全うさせずに死なせてしまった」と嘆いたという記録がある。 正史 魏書 巻20 §12正史 魏書 巻29 §23

太祖は甄氏の家の亡くなった娘を娶らせて合葬し、騎都尉の印綬を追贈し、宛侯曹拠の子曹琮に命じて曹沖の跡を継がせた。また、太祖が早く亡くなった邴原の娘と倉舒を合葬しようとしたが、邴原が合葬は礼にかなわないとして辞退したので取りやめたという記録が邴原伝にある。 正史 魏書 巻20 §12正史 魏書 巻11 §71

建安22年(217)、曹琮が鄧侯に封じられた。黄初2年(221)、曹沖に諡を追贈して鄧哀侯とし、さらに号を公に加え、太和5年(231)には号を加えて鄧哀王とした。曹琮は冠軍公・己氏公に移封されたが、景初元年(237)に中尚方で禁制の品を作らせたことに連座して300戸を削られ、都郷侯に降格された。景初3年(239)に再び己氏公となり、正始7年(246)に平陽公に移封され、食邑はたびたび増やされて以前のものと合わせて1,900戸となった。 正史 魏書 巻20 §12–13

陳寿は巻20の評で、魏の王公たちは国土の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、骨肉の恩情が損なわれたと記した。曹沖一人を個別に評してはいない。 正史 魏書 巻20 §93

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力70
  • 政治52
  • 魅力62
  • 徳78
  • 処世45
  • 文芸45
  • 弁舌55
  • 用人40
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

家族

父母曹操 正史
兄弟姉妹曹均 正史, 曹宇 正史, 曹徽 正史, 曹整 正史, 曹熊 正史, 曹節 演義, 曹峻 正史, 曹林 正史, 曹丕 正史, 曹幹 正史, 曹植 正史, 曹彰 正史, 曹袞 正史, 曹昂 正史, 曹彪 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。