曹拠 曹據

正史演義 魏 Cao Ju조거曹据

プロフィール
職業正演その他 · 彭城王所属魏
登場正演収録魏書
出生出身地沛国 譙県 推定
実在実在言及正6回

人物紹介

曹拠は魏の武皇帝曹操の子で、環夫人が産んだ。建安16年(211)に范陽侯に封じられた後、宛侯・公・章陵王を経て、義陽・彭城・済陰・定陶県へとたびたび移封され、太和6年(232)に再び彭城に封じられて彭城王となった。 正史 魏書 巻20 §2 · 15–16

景初元年(237)、私的に人を中尚方に遣わして禁制品を作らせた件に連座して二千戸を削られたが、3年に返還され、正元・景元年間に食邑が加増されて、前と合わせて四千六百戸となった。 正史 魏書 巻20 §16

正史の魏書巻20武文世王公伝に短い記録がある。陳寿は巻末の評で、魏の王や公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらなかったと述べた。演義には第109回に一度登場し、回目に名が見える回はない。司馬師が曹芳を廃した後に新しい君主に立てようとするが、太后が反対する。 正史 魏書 巻20 §14–16 · 93演義 第109回 §39

正史の記録

武皇帝曹操には二十五人の男子があり、環夫人は鄧哀王曹沖・彭城王曹拠・燕王曹宇を産んだ。 正史 魏書 巻20 §2

曹拠は建安16年(211)に范陽侯に封じられ、22年(217)に宛侯に移封された。黄初2年(221)に爵位が公に進み、3年(222)に章陵王となり、その年のうちに義陽に移封された。文帝は、南方は低湿であり、また環太妃が彭城の人であることから、彼を彭城に移封し、さらに済陰に移封した。 正史 魏書 巻20 §15

黄初5年(224)、文帝は詔を下し、先王が国を建てるときは時勢に応じて制度を定めたとして、漢の高祖は秦が置いた郡を増やしたが、光武帝は天下の人口が減って疲弊すると郡県を併せ省いた、今はそのときよりもさらに劣るのだから、諸王をすべて県王に改封せよと命じた。これにより曹拠は定陶県に改封された。太和6年(232)、諸王を改封してみな郡を国としたとき、曹拠は再び彭城に封じられた。 正史 魏書 巻20 §15–16

景初元年(237)、曹拠は私的に人を中尚方に遣わして禁制品を作らせた件に連座し、県を削られて二千戸が減った。景初3年(239)に削られた戸と食邑を返還され、正元・景元年間に食邑がたびたび加増されて、前と合わせて四千六百戸となった。 正史 魏書 巻20 §16

武皇帝の別の子である郿戴公子曹整は、従叔父である郎中曹紹の後継ぎとなったが、建安23年(218)に子のないまま死んだ。黄初2年(221)に爵位を追贈して進め、戴公と諡し、彭城王曹拠の子曹范を曹整の後継ぎとした。曹范は平氏侯に封じられた後に成武に移封され、太和3年(229)に爵位が公に進み、青龍3年(235)に死んで悼公と諡されたが、後継ぎはなかった。 正史 魏書 巻20 §2 · 58

陳寿の本文は曹拠の字と没年を記していない。巻20の評で陳寿は、魏の王や公たちは国土という名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず封国が毎年のように変わったと述べ、制度の弊害を嘆いた。 正史 魏書 巻20 §14–16 · 93

演義の描写

演義第109回で、司馬師は、曹芳は酒色に溺れて道理がなく、漢の昌邑王よりも罪が重いとして、伊尹・霍光の法にならって新しい君主を立てると臣下たちに言う。司馬師が諸官とともに永寧宮に入って太后に奏上すると、太后は誰を立てるつもりかと問う。 演義 第109回 §38–39

司馬師は、彭城王曹拠は聡明で仁孝であり天下の主となるにふさわしいと答える。しかし太后は、彭城王はこの老身の叔父であり、彼を君主に立てれば自分はどうして身を処せようかと言い、文皇帝の孫で温和・恭順で謙譲を知る高貴郷公曹髦を立てようと言う。司馬孚が太后の言葉はもっともだと口添えすると、司馬師は元城へ使者を送って高貴郷公を呼び寄せる。演義で曹拠が登場するのはこの場面だけである。 演義 第109回 §39–40

演義と異なる点

新君の候補:演義第109回では、司馬師は曹芳を廃した後に彭城王曹拠を立てようとするが、太后が叔父だとして反対し、高貴郷公曹髦が立てられる。陳寿の本文の三少帝紀は、太后の令によって曹芳を廃し、丁丑の日の令によって高貴郷公曹髦を明帝の後継ぎとしたと記すだけで、曹拠を立てようとした議論は出てこない。 演義 第109回 §39–40正史 魏書 巻4 §44–46

人柄:演義第109回で司馬師は曹拠を聡明で仁孝であると評する。陳寿の本文は曹拠の性格を記さず、封爵がたびたび変わったことと、景初元年(237)に中尚方で禁制品を作らせた件で食邑を削られたことだけを記す。 演義 第109回 §39正史 魏書 巻20 §15–16

太后との関係:演義第109回で太后は彭城王を自分の叔父だと言う。陳寿の本文の曹拠の記録には太后との関係を記した言葉はなく、彼が武皇帝と環夫人の子であることだけを記す。 演義 第109回 §39正史 魏書 巻20 §2 · 15–16

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3333±0
  • 武力3331−2
  • 知力3850+12
  • 政治3538+3
  • 魅力4050+10
  • 徳3258+26
  • 処世4040±0
  • 文芸3838±0
  • 弁舌3535±0
  • 用人3535±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

徳正32演58 +26

正私的に中尚方で禁制品を作らせて県を削られた魏書 巻20 §16

演司馬師が仁孝であると評した第109回 §39

知力正38推定演50 +12

正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

演司馬師が聡明で仁孝であり君主にふさわしいと言った第109回 §39

近い項目 7件 — 根拠を見る
  • 統率正33推定演33推定 ±0

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

  • 武力正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

  • 政治正35推定演38推定 +3

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

  • 処世正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

  • 文芸・学術正38推定演38推定 ±0

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

  • 弁舌・外交正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

  • 識人・用人正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §15魏書 巻20 §16

    演直接の記録なし — 司馬師が新君に挙げた彭城王であることから推定第109回 §39

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻20 「彭城王據,建安十六年封范陽侯」