曹林
人物紹介
曹林は武皇帝(曹操)の子で、母は杜夫人であり、中山恭王曹袞と同じ母から生まれた。建安16年(211)に饒陽侯に封じられた後、譙・鄄城へと封地が移り、太和6年(232)に沛に改封された。甘露元年(256)正月に死去し、子の曹緯が跡を継いだ。 正史 魏書 巻20 §2 · 21正史 魏書 巻4 §60
正史では武帝の子たちを集めた魏書巻20武文世王公伝に短い伝が収められており、陳寿はこの巻の評で、魏の王・公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §20–21 · 93
正史の記録
武皇帝には息子が二十五人いたが、杜夫人は沛穆王曹林と中山恭王曹袞を生んだ。 正史 魏書 巻20 §2
沛穆王曹林は建安16年(211)に饒陽侯に封じられ、22年(217)に譙に移封された。黄初2年(221)に爵位が公に進み、3年(222)に譙王となった。5年(224)に譙県に改封され、7年(226)に鄄城に移封され、太和6年(232)に沛に改封された。景初・正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて4,700戸となった。 正史 魏書 巻20 §21
済陽懐王曹玹が早くに死んで子がなかったので、建安20年(215)に曹林の子曹賛に曹玹の爵位と食邑を継がせた。曹賛も早くに死んで子がなかったので、文帝はさらに曹賛の弟曹壱に曹玹の跡を継がせた。太和6年(232)、曹賛には西郷哀侯の諡が追贈された。 正史 魏書 巻20 §33
青龍3年(235)秋、中山王曹袞が病にかかると、詔によって太医を遣わして病状を診させ、さらに太妃と沛王曹林を遣わしてともに見舞わせた。曹袞は世子に残した命で「閨門の内のことは太妃の命を奉じ、門外のことは沛王の教えを受けよ」と言った。曹袞がその年に死去すると、詔により沛王曹林を留めて葬儀を終えさせた。 正史 魏書 巻20 §27 · 30–31
甘露元年(256)春正月乙巳の日に沛王曹林が死去し、子の曹緯が跡を継いだ。列伝は彼が死んだ年を別に記さず、三少帝紀がその日を記す。 正史 魏書 巻4 §60正史 魏書 巻20 §21
陳寿はこの巻の評で、魏の王・公たちは封国と封土という名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。 正史 魏書 巻20 §93
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能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率35
- 武力33
- 知力40
- 政治40
- 魅力42
- 徳50
- 処世40
- 文芸38
- 弁舌38
- 用人35
項目別の根拠
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正皇帝が病の曹袞を見舞わせ、葬儀が終わるまで留まらせた魏書 巻20 §27魏書 巻20 §31
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正直接の記録なし — たびたび移封された王であることから推定魏書 巻20 §21
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。