曹玹

正史 魏 Cao Xuan조현

プロフィール
職業正その他 · 西郷侯所属魏
登場正収録魏書
出生出身地沛国 譙県 推定
実在実在言及正3回

人物紹介

曹玹は魏の武皇帝曹操の子で、母は秦夫人である。秦夫人は曹玹と陳留恭王曹峻を生んだ。曹玹は建安16年(211)に西郷侯に封じられたが、早くに死に、子がなかった。 正史 魏書 巻20 §2 · 33

沛王曹林の子曹賛がその爵位と食邑を継いだが、やはり早くに死に、曹賛の弟曹壱がさらに跡を継いだ。曹玹は太和4年(230)に懐公、6年(232)に懐王を追贈された。正史の魏書巻20武文世王公伝に短い伝がある。陳寿は巻末の評で、魏の王公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視で隔てられて獄に囚われたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §33 · 93

正史の記録

武皇帝曹操には25人の息子がおり、秦夫人は済陽懐王曹玹と陳留恭王曹峻を生んだ。 正史 魏書 巻20 §2

曹玹は建安16年(211)に西郷侯に封じられた。早くに死に、子がなかった。建安20年(215)、沛王曹林の子曹賛に曹玹の爵位と食邑を継がせたが、曹賛も早くに死に、子がなかった。文帝曹丕はさらに曹賛の弟曹壱に曹玹の跡を継がせた。 正史 魏書 巻20 §33

曹壱は黄初2年(221)に済陽侯に改封され、4年(223)に爵位が公に進んだ。太和4年(230)、曹玹の爵位を追って進め、懐公と諡し、6年(232)にはさらに号を進めて懐王とし、曹賛には西郷哀侯の諡を追贈した。 正史 魏書 巻20 §33

曹壱が死ぬと悼公と諡され、子の曹恒が跡を継いだ。景初・正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて1,900戸となった。 正史 魏書 巻20 §34

陳寿の本文で曹玹が現れるのは、この伝と武文世王公伝の冒頭の息子の一覧だけであり、その字と年齢、死んだ年は記されていない。陳寿は巻20末の評で、魏の王公たちは封国と封土の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視で隔てられて獄に囚われたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そして骨肉の恩が損なわれ、「常棣」の義が廃れたのであり、制度の弊害がここまで至ったのかと嘆いた。 正史 魏書 巻20 §2 · 33 · 93

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力38
  • 政治35
  • 魅力38
  • 徳42
  • 処世38
  • 文芸40
  • 弁舌35
  • 用人35
各項目100点

項目別の根拠

  • 統率正31推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 武力正31推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 知力正38推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 政治正35推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 魅力正38推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 徳正42推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 処世正38推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 文芸・学術正40推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 弁舌・外交正35推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

  • 識人・用人正35推定

    正直接の記録なし — 早世した曹操の子であることから推定魏書 巻20 §33

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻20 「黃初二年,改封濟陽侯」