紀陟
人物紹介
紀陟は孫皓の時代の呉の光禄大夫である。正史には独立した伝がなく、魏書巻4三少帝紀と呉書巻3三嗣主伝に登場する。甘露元年(265)3月、孫皓は魏の相国である晋の文帝(司馬昭)が送ってきた書簡に返書を送る際、彼を五官中郎将の弘璆とともに使者とした。 正史 呉書 巻3 §51–52
三少帝紀は、その年の夏4月に呉が使者の紀陟・弘璆を遣わして和睦を求めたと記す。二人が洛陽に着いたとき、ちょうど晋の文帝が世を去ったため、11月になってようやく送り返された。 正史 魏書 巻4 §145正史 呉書 巻3 §54
陳寿の本文は彼の字と出身、そのほかの事績と死を記しておらず、彼を評してもいない。演義には登場しない。 正史 魏書 巻4 §145正史 呉書 巻3 §52 · 54
正史の記録
元興元年(264)、孫皓が即位した年に、魏の相国となった晋の文帝(司馬昭)は、かつて呉の寿春城で降伏した将の徐紹と孫彧に命を奉じて書簡を携えて行かせ、情勢と利害を述べて孫皓を諭させた。 正史 呉書 巻3 §50–51
甘露元年(265)3月、孫皓は使者を徐紹と孫彧に同行させて返書を送った。返書は、貴殿が世に抜きんでた才をもって宰輔の任にあり、次第に導いてきた功は勤勉でまことに至れるものであることを知っている、自分は徳がないのに大統を継ぎ、賢良とともに世の道を救いたいと思うが、隔てられていて縁を結ぶすべがなかったと述べ、いま光禄大夫紀陟と五官中郎将弘璆を遣わして至誠の思いを明らかにさせると結んだ。道中の徐紹は濡須に着いたところで呼び戻されて殺されたが、それは徐紹が中国を褒めたと告げた者がいたからである。 正史 呉書 巻3 §52–53
魏の三少帝紀は、咸熙2年(265)夏4月に呉が使者の紀陟と弘璆を遣わして和睦を求めたと記す。5月の詔は、呉が使者を送って貢ぎ物を献じ服従の意を明らかにしたのに、相国晋王が謙譲して受け取ったものをすべて帳簿に記して送ってきたとして、孫皓が献じたものをすべて晋王に返すよう命じたが、晋王が固く辞退したのでやめた。 正史 魏書 巻4 §145–147
その年の秋8月、相国晋王が死んだ。呉の三嗣主伝は、紀陟と弘璆が洛陽に着いたとき、ちょうど晋の文帝が世を去ったため、11月になってようやく彼らを送り返したと記す。その間の9月、孫皓は西陵督歩闡の上表に従って都を武昌に移し、12月に晋が禅譲を受けた。 正史 魏書 巻4 §148正史 呉書 巻3 §54
陳寿の本文で紀陟が登場するのはこの三か所である。彼の字と出身、使者の務め以外の事績と死は記されておらず、彼に対する評もない。 正史 魏書 巻4 §145正史 呉書 巻3 §52 · 54
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率33
- 武力31
- 知力45
- 政治45
- 魅力40
- 徳45
- 処世42
- 文芸42
- 弁舌58
- 用人38
項目別の根拠
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正光禄大夫として弘璆とともに魏・晋に使いし、和睦を求めた呉書 巻3 §52魏書 巻4 §145呉書 巻3 §54
正直接の記録なし — 光禄大夫・使者としての役割から推定呉書 巻3 §52
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。