歩闡 步闡

正史演義 Bu Chan보천步阐

プロフィール
職業正武将 · 西陵督所属
登場正演収録
出生正? 推定出身地下邳国 淮陰県 推定
死去正272年 推定死去地正演夷陵県
死因正処刑 演処刑 推定
実在実在言及正13回

人物紹介

歩闡は呉の丞相歩騭の子で、歩騭の跡を継いだ歩協の弟である。正史には独立した伝がなく、歩騭の伝の末尾と三嗣主伝、陸抗の伝に登場する。家業を継いで西陵督となり、昭武将軍を加えられ、西亭侯に封じられた。 正史 呉書 巻7 §87

鳳皇元年(272)に繞帳督として召されると、自ら職を失うと考え、讒言の禍を恐れて西陵城に拠って晋に降った。呉の陸抗が西陵を包囲して晋の救援軍を退け、城を陥落させ、歩闡は一族とともに殺された。 正史 呉書 巻7 §87–88正史 呉書 巻3 §64正史 呉書 巻13 §76

演義には、第120回で晋の羊祜が部将に語る言葉の中に、呉主の命を受けた陸抗が西陵を攻め取り、歩闡とその将兵数十人を斬ったというくだりにだけ登場する。全120回のうちこの1回に登場し、回目に名が載る回はない。 演義 第120回 §12

正史の記録

歩騭は西陵に20年おり、赤烏10年(247)に死んだ。子の歩協が跡を継いで歩騭の率いていた軍勢を統率し、撫軍将軍を加えられ、歩協が死ぬとその子歩璣が侯爵を継いだ。歩協の弟歩闡は家業を継いで西陵督となり、昭武将軍を加えられ、西亭侯に封じられた。 正史 呉書 巻7 §86–87

甘露元年(265)9月、孫皓は西陵督歩闡の上表に従って都を武昌に移し、御史大夫丁固と右将軍諸葛靚に建業を守らせた。 正史 呉書 巻3 §52 · 54

鳳皇元年(272)秋8月、歩闡は繞帳督として召された。歩闡は代々西陵にいたが、突然召されると、自ら職を失うと考え、また讒言の禍を恐れて、召しに応じず城に拠って晋に降った。そして歩璣とその弟歩璿を洛陽に送って人質とした。 正史 呉書 巻7 §87正史 呉書 巻3 §64

晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司とし、侍中を加え、仮節を与えて交州牧を兼ねさせ、宜都公に封じた。歩璣は監江陵諸軍事・左将軍となって散騎常侍を加えられ、廬陵太守を兼ねて江陵侯に移封され、歩璿は給事中・宣威将軍となって都郷侯に封じられた。晋は車騎将軍羊祜と荊州刺史楊肇に歩闡を救援に向かわせた。 正史 呉書 巻7 §87–88

呉の陸抗は歩闡が城に拠って背いたと聞くと、その日のうちに諸軍を配置し、将軍左奕・吾彦・蔡貢らをまっすぐ西陵に向かわせた。そして赤谿から故市まで厳重な包囲陣を改めて築かせ、内には歩闡を囲み外には敵を防がせた。諸将が晋の救援軍が来る前に急いで歩闡を攻めようと言うと、陸抗は、この城は地勢が堅固で糧穀も十分であり、整えてある防御の道具はみな自分がかつて計画したものなので、すぐには勝てないとして許さなかった。宜都太守雷譚が懇切に願うと一度だけ攻撃させたが、果たして得るところはなかった。 正史 呉書 巻13 §70–72

羊祜が軍を率いて江陵に向かうと、陸抗は、江陵は城が堅く兵も十分なので心配はないが、西陵が敵と固く結びつけば南山の諸夷がみな動揺するだろうとして西陵に向かった。荊州刺史楊肇が西陵に至ると、陸抗は自ら三軍を率いて包囲陣に拠って対峙し、楊肇はひと月たつと策が尽きて夜に逃げた。陸抗は、歩闡が力を蓄えて隙をうかがっており兵を分けるには足りないことを案じて、太鼓だけを鳴らして追撃するかのように見せ、身軽な兵に後をつけさせた。楊肇は大敗し、羊祜らもみな軍を率いて引き返した。 正史 呉書 巻13 §72 · 74–75

陸抗はついに西陵城を陥落させ、歩闡の一族とその主な将・官吏を誅殺し、それ以下で赦免を請われた者は数万人に上った。三嗣主伝は、歩闡の軍勢はみな降伏し、歩闡とともに謀った数十人はみな三族を滅ぼされたと記す。歩騭の伝は、陸抗が城を陥れて歩闡らを斬ると歩氏は滅び、ただ歩璿だけが祭祀を継いだと記す。 正史 呉書 巻13 §76正史 呉書 巻3 §64正史 呉書 巻7 §88

鳳皇3年(274)夏、病にかかった陸抗は上疏で、西陵は国の西門であるという父陸遜の言葉を挙げ、自分の率いる兵力が歩闡の一件以来いっそう減ったと述べた。 正史 呉書 巻13 §84–85

演義の描写

演義第120回で晋の司馬炎は賈充の言に従い、襄陽の羊祜に兵を率いて呉を防がせる。呉の軍がたるんでいるので奇襲しようという部将の言葉に、羊祜は陸抗を侮るのかと言い、彼は智略に富み計略が多いと笑う。先ごろ呉主が彼に命じて西陵を攻め取らせると、陸抗は歩闡とその将兵数十人を斬ったが、自分は救援に向かっても間に合わなかったというのである。演義で歩闡の名が出てくるのはこのくだりだけである。 演義 第120回 §10–12

演義と異なる点

登場:演義で歩闡は第120回の羊祜の言葉の中に名が出るだけである。正史では歩騭の家業を継いで西陵督となり、甘露元年(265)には彼の上表に従って呉が都を武昌に移しもした。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻7 §87正史 呉書 巻3 §54

背いた理由:演義には歩闡が晋に降ったことは出てこず、羊祜は呉主が陸抗に西陵を攻め取らせたとだけ言う。正史で歩闡は繞帳督として召されると、職を失うと考え讒言の禍を恐れて、西陵城に拠って晋に降った。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻7 §87

晋の救援:演義第120回で羊祜は、自分が救援に向かっても間に合わなかったと言う。正史では晋が羊祜と楊肇に歩闡を救援させ、羊祜は江陵に向かったが、西陵に至った楊肇が大敗すると軍を率いて引き返した。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻7 §88正史 呉書 巻13 §72 · 75

殺された人々:演義第120回では、陸抗が歩闡とその将兵数十人を斬ったという。正史では陸抗が歩闡の一族と主な将・官吏を誅殺し、歩闡とともに謀った数十人は三族を滅ぼされ、それ以下で赦免を請われた者は数万人に上った。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻13 §76正史 呉書 巻3 §64

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率5240−12
  • 武力3835−3
  • 知力4035−5
  • 政治4033−7
  • 魅力4033−7
  • 徳2235+13
  • 処世2531+6
  • 文芸3131±0
  • 弁舌3531−4
  • 用人3331−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

近い項目 8件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

家族

父母歩騭 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

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