戦い

西陵の戦い 西陵之戰

事件紹介

西陵の戦いは、鳳皇元年(272)呉の西陵督歩闡が召還に応じず城に拠って晋に降ると、呉の陸抗が西陵を包囲し、救援に来た晋の羊祜・楊肇を退けた後に城を落とした戦いである。陸抗は幾重もの包囲網を築いて内に歩闡を閉じ込め外に救援軍を防ぎ、西陵に至った荊州刺史楊肇がひと月で夜に逃げると、後をつけて大いに破った。羊祜らも軍を返し、陸抗は西陵城を落として歩闡の一族と主な将・吏を誅した。 正史 呉書 巻3 §64正史 呉書 巻13 §70 · 75–76

陳寿はこの戦いを呉書巻13陸遜伝の陸抗の記事に最も詳しく記し、巻3三嗣主伝と巻7張顧諸葛歩伝の歩騭伝の末尾にも記した。演義は第120回で、晋の羊祜が将たちに、陸抗が西陵を攻め取って歩闡を斬った時、自分は救援に向かったが間に合わなかったと語るくだりでのみこの戦いを伝える。 正史 呉書 巻13 §70–76正史 呉書 巻3 §64正史 呉書 巻7 §87–88演義 第120回 §12

正史に見る経過

歩闡は歩騭の子で歩協の弟であり、家業を継いで西陵督となり、昭武将軍を加えられた。鳳皇元年(272)秋8月、孫皓が西陵督歩闡を召還すると、歩闡は応じずに城に拠って晋に降った。歩騭伝の末尾は、歩闡が代々西陵にいたところ急に繞帳督として召されたので職を失うと考え、また讒言の禍を恐れて、歩協の子歩璣とその弟歩璿を洛陽に人質として送ったと記す。晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司とし、宜都公に封じた。 正史 呉書 巻7 §87正史 呉書 巻3 §64

陸抗は知らせを聞くとその日のうちに諸軍を配置して将軍左奕・吾彦・蔡貢らをまっすぐ西陵へ向かわせ、赤谿から故市までさらに厳重な包囲網を築かせて、内には歩闡を囲み外には敵を防がせた。昼夜督促したので兵たちはひどく苦しんだ。将たちが晋の救援軍が来る前に急いで攻めようと言ったが、陸抗は、この城は地勢が堅固で糧穀も足りており、防御の備えもすべて自分がかつて計画したものなのですぐには勝てず、北の救援軍が来れば内外から苦境に陥るとして許さなかった。宜都太守雷譚が懇切に願うと、兵たちを納得させるために一度攻めさせたが、果たして得るところはなく、そこでようやく包囲と備えが完成した。 正史 呉書 巻13 §70–72

晋の車騎将軍羊祜が軍を率いて江陵へ向かうと、将たちは陸抗が西へ上ってはならないと言った。陸抗は、江陵は城が堅固で兵も足りているが、西陵が敵と結びつけば南山の諸夷がみな動揺するだろうとして西陵へ赴いた。これより先、陸抗は江陵督張咸に大きな堰を築かせて水をせき止めていたが、羊祜がその水に船を浮かべて糧食を運ぼうとして、堰を破って歩兵を通すと言いふらすと、陸抗はかえって張咸に急いで堰を破らせた。当陽に至った羊祜は車で糧食を運ばねばならず、多大な費用と労力を費やした。 正史 呉書 巻13 §72–73

晋の巴東監軍徐胤は水軍で建平に、荊州刺史楊肇は西陵に至った。陸抗は張咸に江陵を固守させ、公安督孫遵に南岸で羊祜を、水軍督留慮と鎮西将軍朱琬に徐胤を防がせたうえで、自ら三軍を率いて包囲網に拠って楊肇と対峙した。将軍朱喬と営都督兪賛が楊肇のもとへ逃げると、陸抗は兪賛が虚実を知っているとして、その夜、訓練の行き届かない夷兵の持ち場を古参の将で入れ替え、翌日楊肇が果たしてそこを攻めると矢石を浴びせ、楊肇の軍に死傷者が相次いだ。 正史 呉書 巻13 §74–75

ひと月が過ぎて計の尽きた楊肇が夜に逃げると、陸抗は歩闡が隙をうかがうことを恐れて兵を分けず、太鼓だけ鳴らして追うふりをした。おびえた楊肇の軍勢が鎧を脱いで身ひとつで逃げると、精鋭の兵に後をつけさせて大いに破り、羊祜らもみな軍を率いて帰った。歩騭伝の末尾は、孫皓が陸抗を西へ遣わすと羊祜らは逃げ退いたと記す。 正史 呉書 巻13 §75正史 呉書 巻7 §88

陸抗はついに西陵城を落として歩闡の一族と主な将・吏を誅し、それ以下で赦免を請われた者は数万人に上った。三嗣主伝は歩闡の軍勢がみな降伏し、歩闡をはじめともに謀った数十人はみな三族を滅ぼされたとし、歩騭伝の末尾は歩氏が絶え、ただ歩璿だけが祭祀を継いだと記す。陸抗は城の囲いを修めた後に東の楽郷へ帰ったが、顔に誇る色がなく普段どおり謙虚だったので、将兵の心をつかんだ。翌年春3月、陸抗は大司馬となった。 正史 呉書 巻13 §76正史 呉書 巻3 §64–65正史 呉書 巻7 §88

演義の描写

演義は西陵の戦いを場面として描かない。第120回で、襄陽を守る晋の都督羊祜に将たちが呉を奇襲しようと言うと、羊祜は、陸抗は知恵が豊かで策謀が多く、先ごろ呉主が彼に西陵を攻め取らせると歩闡とその将兵数十人を斬り、自分は救援に向かったが間に合わなかったと言う。そして、その国の内に変事が起こるのを待たねばならないとして、将たちに境界を守らせるだけにする。 演義 第120回 §10–12

演義と異なる点

誅した人々:演義第120回で羊祜は、陸抗が歩闡とその将兵数十人を斬ったと言う。正史の陸抗の記事は歩闡の一族と主な将・吏を誅し、それ以下で数万人の赦免を請うたとし、三嗣主伝は歩闡をはじめともに謀った数十人の三族を滅ぼしたと記す。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻13 §76正史 呉書 巻3 §64

羊祜の救援:演義第120回で羊祜は救援に向かったが間に合わなかったとだけ言う。正史では羊祜は軍を率いて江陵へ向かったが、当陽で堰が破られたとの知らせを受けて車で糧食を運び多大な費用を費やし、西陵に至った楊肇が大敗すると軍を率いて帰った。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻13 §72–73 · 75

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交戦勢力

区分甲乙
勢力呉晋
指揮官陸抗羊祜, 歩闡

勢力・指揮官・兵力・死傷者は原文と照合(3KDEX)。兵力・死傷者は原文に記された数値のみ掲載。 出典:呉書 巻13 §76

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (3)