正牛屯で施但の衆一万余を大いに破り、丁奉と合肥を攻撃呉書 巻3 §58呉書 巻10 §106
演直接の記録なし — 右将軍として牛渚に出た記録から推定第120回 §35
諸葛靚は魏の征東大将軍諸葛誕の幼い息子である。魏の甘露2年(257)5月に父が寿春で反乱を起こすと、長史の呉綱とともに呉へ人質として送られた。のちに呉の右将軍として御史大夫の丁固とともに建業を守り、孫皓の庶弟孫謙を脅して連れ出した山賊施但らの一党を破った。 正史 魏書 巻28 §35–36正史 呉書 巻3 §16 · 54 · 57–58
陳寿は彼の伝を別に立てず、巻28の評では父の諸葛誕だけを取り上げた。演義では第111回に、父が呉へ人質として送る息子として初めて登場し、全120回のうち2回に姿を見せる。名が回目に入った回はない。第120回では右将軍として丞相張悌に従って晋軍を迎え撃つが、張悌に逃れるよう勧め、涙を流して去る。 正史 魏書 巻28 §140演義 第111回 §30演義 第120回 §35 · 46–47
諸葛靚は魏書巻28の諸葛誕伝と、呉書巻3の三嗣主伝・巻10の丁奉伝に見える。父の諸葛誕は字を公休といい、琅邪国陽都県の人である。諸葛誕は夏侯玄・鄧颺とごく親しく、王淩と毌丘倹が相次いで一族を滅ぼされると、恐れて自ら安んじられなかった。魏の甘露2年(257)5月に朝廷が彼を司空として召すと、いっそう恐れてついに反乱を起こした。 正史 魏書 巻28 §29 · 34–35
諸葛誕は長史の呉綱に幼い息子の諸葛靚を連れて呉へ行かせ、救援を求めた。呉書は、同じ月に魏の征東大将軍諸葛誕が将軍朱成を遣わして臣を称して上疏し、また子の諸葛靚と長史の呉綱、諸牙門の子弟を人質として送ったと記す。呉は6月、文欽・唐咨・全端らに歩騎3万を与えて諸葛誕を救援させた。 正史 魏書 巻28 §36正史 呉書 巻3 §16
寿春は翌年の甘露3年(258)2月に陥落した。諸葛誕は単騎で小さな城門から突破して出たところを大将軍司馬胡奮の部隊に斬られ、三族を滅ぼされた。 正史 魏書 巻28 §42–43
呉の孫皓の甘露元年(265)9月、西陵督歩闡の上表に従って都を武昌に移す際、御史大夫の丁固と右将軍の諸葛靚に建業を守らせた。 正史 呉書 巻3 §53–54
宝鼎元年(266)冬10月、永安の山賊施但らが数千人の衆を集め、孫皓の庶弟である永安侯孫謙を脅して烏程から連れ出した。建業に近づく頃には衆は一万余人に達したが、丁固と諸葛靚が牛屯でこれを迎え撃って大いに戦うと、施但らは敗走した。孫謙は捕らえられて自殺した。 正史 呉書 巻3 §57–58
宝鼎3年(268)、孫皓は丁奉と諸葛靚に合肥を攻めさせた。丁奉は晋の大将石苞に書簡を送って離間を図り、石苞はこのために召還された。陳寿の本文で諸葛靚の名が見えるのはここまでで、その後の事績と死は記されていない。 正史 呉書 巻10 §106
演義第111回で、司馬昭が司空に召す詔を送ると、諸葛誕は揚州刺史楽綝を殺し、長史の呉綱に命じて息子の諸葛靚を呉へ人質として送り、救援を求めさせる。呉綱は諸葛靚を連れて石頭城に至り、政を補佐する孫綝に拝礼して、諸葛誕は信ずるに足る証がないことを恐れ、実の子の諸葛靚を人質として送ってきたのだと言って兵を請う。孫綝は全懌・全端を主将、朱異・唐咨を先鋒、文欽を案内役として兵7万を起こす。 演義 第111回 §28 · 30–32
第120回で、晋の大軍が呉を攻めると、丞相の張悌は孫皓に、自ら軍師となって左将軍沈瑩と右将軍諸葛靚を率い、兵10万で牛渚に進んで諸方面の軍馬を支援すると上奏する。 演義 第120回 §35–36
王濬の水軍が鉄鎖を断ち切って川を下ってくると、張悌は沈瑩と諸葛靚に晋軍を迎え撃たせる。沈瑩が、川を渡って戦い不幸にして敗れれば大事は終わりだと言うと、諸葛靚は「公の言われるとおりだ」と答える。晋軍の勢いは当たるべからずとの報せに二人は張悌を訪ね、諸葛靚は「東呉は危うい。なぜ逃れないのですか」と勧める。 演義 第120回 §44–46
張悌が涙を流し、君臣がみな降伏して国難に死ぬ者が一人もいなければ恥ではないかと言うと、諸葛靚も涙を流して去る。張悌は乱軍の中で戦って死に、沈瑩は晋の将周旨に殺される。演義で諸葛靚が登場するのはこの場面が最後である。 演義 第120回 §46–47
人質となった経緯:演義第111回では、呉綱が諸葛靚を連れて石頭城に至り、孫綝に拝礼して救援を請う。正史の呉書は、諸葛誕が将軍朱成を遣わして臣を称して上疏し、子の諸葛靚と長史の呉綱、諸牙門の子弟を人質として送ったと記しており、孫綝に拝礼した場面はない。 演義 第111回 §31–32正史 呉書 巻3 §16正史 魏書 巻28 §36
呉の救援軍:演義第111回では、孫綝が全懌・全端・朱異・唐咨・文欽らに兵7万を与えて送る。正史の魏書は全懌・全端・唐咨・王祚らが3万人を率いて文欽とともに来たとし、呉書は文欽・唐咨・全端らに歩騎3万を与えたと記す。 演義 第111回 §32正史 魏書 巻28 §36正史 呉書 巻3 §16
建業の守備と施但の乱:正史の呉書では、諸葛靚は孫皓の甘露元年(265)に右将軍として丁固とともに建業を守り、宝鼎元年(266)に牛屯で施但らを破る。演義では諸葛靚は第111回と第120回にしか登場せず、これらのことは出てこない。 演義 第111回 §30–32演義 第120回 §35正史 呉書 巻3 §54 · 57–58
合肥攻撃:正史の丁奉伝は、宝鼎3年(268)に孫皓が丁奉と諸葛靚に合肥を攻めさせたと記す。演義には諸葛靚が合肥を攻めたことはない。 演義 第111回 §30–32演義 第120回 §35正史 呉書 巻10 §106
牛渚の戦い:演義第120回では、諸葛靚は右将軍として張悌・沈瑩とともに晋軍を迎え撃ち、張悌に逃れるよう勧めたのち去る。正史の三嗣主伝は、天紀4年(280)春に王渾が丞相張悌と丹楊太守沈瑩らを斬ったと記すだけで、諸葛靚は登場しない。 演義 第120回 §35 · 45–47正史 呉書 巻3 §81
沈瑩の官職と死:演義第120回では、沈瑩は左将軍として登場し、晋の将周旨に殺される。正史の三嗣主伝では、沈瑩は丹楊太守であり、張悌とともに王渾に斬られた。 演義 第120回 §35 · 47正史 呉書 巻3 §81
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正牛屯で施但の衆一万余を大いに破り、丁奉と合肥を攻撃呉書 巻3 §58呉書 巻10 §106
演直接の記録なし — 右将軍として牛渚に出た記録から推定第120回 §35
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。