許靖

正史演義 蜀 字 文休 Xu JingWenxiu허정문휴许靖

プロフィール
職業正演文官 · 司徒所属蜀
登場正演収録蜀書
出生正? 推定出身地汝南郡 平輿県
死去正222年 推定死去地
実在実在言及正38回

人物紹介

許靖は字を文休といい、汝南郡平輿県の人である。若くして従弟の許劭とともに人物評で名を知られ、董卓が政権を握ったときには官吏の選抜に携わった。 正史 蜀書 巻8 §2

董卓に処刑されるのを恐れて逃れたのち、揚州と会稽を経て交州まで流浪し、劉璋の招きで蜀に入って郡の太守を務めた。劉備が蜀を平定したのち左将軍長史・太傅を経て、劉備が帝位に即くと司徒となり、章武2年(222)に死去した。 正史 蜀書 巻8 §4–5 · 17–19

正史を著した陳寿は評で、許靖は早くから名声があり篤実で温厚だと称えられ、その行動はすべてが妥当ではなかったものの、蒋済は彼を「おおむね廟堂の器」とみなしたと記した。演義では第65回に成都を守る劉璋の蜀郡太守として初めて登場し、全120回のうち4回に登場するが、回目に名が載ることはない。 正史 蜀書 巻8 §59演義 第65回 §41

正史の記録

許靖は字を文休といい、汝南郡平輿県の人である。若くして従弟の許劭とともに名を知られ、二人とも人物評で名声があったが、私的には仲が悪かった。許劭が郡の功曹になると許靖を排斥して官の序列に加われないようにしたので、許靖は馬に石臼を引かせて自活した。潁川の劉翊が汝南太守になると彼を計吏に推挙し孝廉に選んだので、許靖は尚書郎となって官吏の選挙を担当した。 正史 蜀書 巻8 §2

霊帝が崩御して董卓が政権を握ると、吏部尚書周毖が許靖とともに天下の士の登用と罷免を行った。彼らは荀爽・韓融・陳紀らを抜擢し、韓馥を冀州牧、劉岱を兗州刺史、孔伷を豫州刺史、張邈を陳留太守などとし、許靖は巴郡太守に移されたが赴任せず、御史中丞となった。ところが韓馥らは官に就くとそれぞれ兵を挙げて董卓を誅しようとし、董卓は怒って周毖を斬った。 正史 蜀書 巻8 §2–4

従兄の許瑒も孔伷とともに謀っていたので、許靖は誅殺を恐れて孔伷のもとへ逃れた。孔伷が死ぬと揚州刺史陳禕に身を寄せ、陳禕が死ぬと旧知の呉郡都尉許貢と会稽太守王朗のもとへ行って身を託し、親族や郷里の人々を引き取って面倒を見た。孫策が長江を渡って来ると皆で交州へ逃れたが、許靖は岸辺に座って従ってきた人々を先に船に乗せ、親族が皆出発したのちにようやく後から去ったので、これを見た者で嘆息しない者はなかった。交阯太守士燮は彼を手厚く敬い遇した。 正史 蜀書 巻8 §4–5

交州に身を寄せていた陳国の袁徽は荀彧に書簡を送り、許靖は流浪の間、心配事や急な事態があるたびに常に人を先にし自分を後にしたと伝えた。王命を奉じて交州に来た張翔は彼を招いて盟約を結ぼうとしたが、許靖は拒んだ。 正史 蜀書 巻8 §5–6

許靖は曹操に長い書簡を送った。袁術の軍が押し寄せて会稽が崩れると海を渡って交州に逃れたが、万里の道のりで食糧が尽きて草を食べ、死者は大半に及び、さらに疫病に遭って伯母や従兄弟たち、妻子までほとんどが死に、十人に一、二人しか残らなかったと述べた。荊州と益州へ向かう道がすべて塞がっているので道を開いてほしいと願い、曹操には旧怨を忘れ、官職のために人を選んで用いるよう勧めた。しかし張翔は許靖が自分のもとに来なかったことを恨み、彼が託した書簡を探し出してすべて水中に投げ捨てた。 正史 蜀書 巻8 §6–10 · 14 · 16

のちに劉璋が使者を送って招くと、許靖は蜀に入って巴郡太守・広漢太守となり、建安16年(211)に蜀郡太守に移った。許慈もこのころ許靖らとともに交州から蜀に入った。建安19年(214)に劉備が成都を包囲すると、蜀郡太守許靖は城壁を越えて降伏しようとしたが事が発覚して果たせず、劉璋は滅亡が近かったので彼を殺さなかった。 正史 蜀書 巻8 §17正史 蜀書 巻12 §26正史 蜀書 巻7 §26

劉璋が降伏したのち、劉備はこの件で許靖を軽んじて用いようとしなかった。法正は、許靖は虚名を得ただけで実のない人物だが、その名声は天下に広まっているので、礼遇しなければ主公が賢者を軽んじていると言われるだろうとし、昔の燕王が郭隗を遇した例に倣うよう勧めた。劉備はそこで許靖を厚遇して左将軍長史とし、先主伝は許靖を麋竺・簡雍とともに賓客・友としたと記している。 正史 蜀書 巻7 §26–27正史 蜀書 巻8 §17正史 蜀書 巻2 §33

建安24年(219)秋、群臣が劉備を漢中王に推戴する上表を出したとき、許靖は左将軍長史として馬超の次に名を連ね、劉備が漢中王になると太傅となった。曹丕が漢を簒奪すると、太傅許靖は麋竺・諸葛亮らとともに劉備に帝位に即くよう願い出た。章武元年(221)、劉備は帝位に即いて策文を下し、彼を司徒とした。 正史 蜀書 巻2 §40 · 60 · 68正史 蜀書 巻8 §17–18

許靖は七十歳を過ぎても人物を愛し、後進を導き、清談を怠らず、丞相諸葛亮をはじめ皆が彼に拝礼した。許靖が子を亡くしたときには、董允と費禕が連れ立って葬儀に赴こうとした。兄の外孫の陳祗は幼くして父を失い、許靖の家で育った。許靖は章武2年(222)秋8月に死去し、子の許欽はそれより先に死んでいた。 正史 蜀書 巻8 §19正史 蜀書 巻14 §20正史 蜀書 巻9 §34正史 蜀書 巻2 §72

許靖はかつて潁川の陳紀に兄として仕え、袁渙・華歆・王朗らと親しくした。華歆・王朗と陳紀の子陳群は魏の初めに高位の大臣となり、皆が許靖に書簡を送って旧交を重ねて表した。 正史 蜀書 巻8 §19

陳寿は評で、許靖は早くから名声があり、篤実で温厚なことで称えられ、人物に心を寄せたと述べた。その行動はすべてが妥当ではなかったものの、蒋済は彼を「おおむね廟堂の器」とみなしたと記した。 正史 蜀書 巻8 §59

演義の描写

演義第65回で劉備が成都を包囲すると、劉璋が譙周の話を聞いている間に、蜀郡太守許靖が城壁を越えて出て降伏したとの報せが入り、劉璋は大声で泣いて府中に戻る。劉備は益州牧となったのち、降伏した文武官の名号と爵位を定め、許靖を左将軍長史とする。 演義 第65回 §41 · 46

第73回では、建安24年(219)秋7月に沔陽に壇を築くと、許靖と法正が劉備を壇に上らせ、冠冕と玉璽・印綬を奉る。漢中王となった劉備は許靖を太傅に、法正を尚書令にする。 演義 第73回 §8–9

第77回では、軍師府に機密を知らせに行った許靖が宮門の外で諸葛亮に会い、東呉の呂蒙が荊州を襲い関公が害されたという外の噂を伝える。殿中から劉備が出てきて、このような凶報をなぜ隠すのかと言うと、許靖は諸葛亮とともに、ただの流言なので深く信じるには足りないとなだめる。その間に馬良と伊籍、続いて廖化が来て、荊州が陥落したことを知らせる。 演義 第77回 §40 · 42–43

第80回で曹丕が漢を簒奪すると、諸葛亮は太傅許靖、光禄大夫譙周と相談して漢中王を皇帝に戴こうとし、許靖とともに官僚を率いて上表する。漢中王が逆賊のすることを真似ることはできないと退けると、三日後に許靖は、漢の天子はすでに曹丕に弑されたのだから、帝位に即いて逆賊を討たなければ忠義とは言えないと奏上する。劉備が帝位に即くと、許靖は司徒となる。 演義 第80回 §30–32 · 42

演義と異なる点

城壁越え:演義第65回では、許靖は実際に城壁を越えて出て劉備に降伏する。正史では、蜀郡太守許靖は城壁を越えて降伏しようとしたが事が発覚して果たせず、劉璋は滅亡が近かったので彼を殺さなかった。この件は許靖伝ではなく法正の伝に載っている。 演義 第65回 §41正史 蜀書 巻7 §26

蜀での待遇:演義第65回で、劉備は益州を得るとすぐに許靖を左将軍長史とする。正史では、劉備は城壁越えの件で許靖を軽んじて用いようとせず、法正がその名声を理由に礼遇するよう勧めてから厚遇した。 演義 第65回 §46正史 蜀書 巻7 §26–27正史 蜀書 巻8 §17

漢中王の壇:演義第73回では、許靖と法正が劉備を壇に上らせ、冠冕と玉璽・印綬を奉る。正史の先主伝は、沔陽に壇を設け群臣が陪席するなかで上奏文を読み終えたのち、先主に王冠をかぶせたとだけ記し、誰が奉ったかは明らかにしていない。許靖はその前の推戴の上表に名を連ねた。 演義 第73回 §8正史 蜀書 巻2 §47 · 40

関羽の報せ:演義第77回で、許靖は呂蒙が荊州を襲い関羽が害されたという噂を諸葛亮に伝える。正史の許靖伝にこの件はない。 演義 第77回 §40正史 蜀書 巻8 §1–19

蜀に入る前の生涯:演義は第65回に蜀郡太守として初めて登場させるだけで、許劭との不和、董卓政権で官吏の選抜に携わったこと、交州まで流浪して親族を先に船に乗せたこと、曹操に送った書簡は扱わない。正史の許靖伝はこれらを詳しく記している。 演義 第65回 §41正史 蜀書 巻8 §2–16

死:演義は第80回で司徒となったのちは許靖を扱わないため、死は描かれない。正史で許靖は章武2年(222)秋8月に司徒として死去した。 演義 第80回 §42正史 蜀書 巻2 §72正史 蜀書 巻8 §19

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3131±0
  • 武力3131±0
  • 知力5545−10
  • 政治6052−8
  • 魅力7448−26
  • 徳6442−22
  • 処世4060+20
  • 文芸5540−15
  • 弁舌5255+3
  • 用人7840−38
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

識人・用人正78演40推定 −38

正人物評で名高く、周毖とともに士を選んで抜擢した。評は人物に心を寄せたとする蜀書 巻8 §2蜀書 巻8 §59

演直接の記録なし — 文官の元老であることから推定第73回 §9

魅力正74演48推定 −26

正避難の際に人々を先に船に乗せて嘆息を誘い、諸葛亮も彼に拝礼した蜀書 巻8 §5蜀書 巻8 §19

演直接の記録なし — 官僚を率いて即位を勧めた元老の地位から推定第80回 §31

徳正64演42 −22

正評は篤実・温厚だが行動がすべて妥当ではなかったとする。城壁を越えて降伏しようとした蜀書 巻8 §59蜀書 巻7 §26

演蜀郡太守でありながら城壁を越えて出て降伏した第65回 §41

処世正40演60 +20

正城壁を越えて降伏しようとして発覚し、先主に軽んじられて用いられなかった蜀書 巻7 §26蜀書 巻7 §27

演包囲された成都で真っ先に城壁を越えて劉備に降伏した第65回 §41

文芸・学術正55演40推定 −15

正老いても人物評と清談を怠らなかった蜀書 巻8 §19

演直接の記録なし — 文官の元老であることから推定第80回 §30

知力正55演45推定 −10

正袁徽が知略は事を計るに足ると評した蜀書 巻8 §5

演直接の記録なし — 荊州陥落の噂を先に伝えた程度から推定第77回 §40

近い項目 4件 — 根拠を見る
  • 統率正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 郡を治めた文官としての経歴から推定蜀書 巻8 §17

    演直接の記録なし — 太傅・司徒の文官であることから推定第73回 §9

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 文官・清談の人物であることから推定蜀書 巻8 §19

    演直接の記録なし — 文官であることから推定第73回 §9

  • 政治正60演52 −8

    正尚書郎として官吏を選抜し、太守を経て司徒となった蜀書 巻8 §2蜀書 巻8 §18

    演左将軍長史・太傅を経て司徒に任じられた第65回 §46第80回 §42

  • 弁舌・外交正52演55 +3

    正曹公への長い書簡で自身の境遇と用人の道を述べた蜀書 巻8 §6蜀書 巻8 §13

    演漢中王に帝位に即いて逆賊を討つよう勧めた第80回 §32

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(4回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 正史 · 正史 巻38 「先主克蜀,以靖為左將軍長史」