正胡潜とそしり合い鞭打ちに及び、書物も貸さなかった蜀書 巻12 §27
演直接の記録なし第80回 §38
許慈は字を仁篤といい、南陽郡の人で、蜀の学者である。劉熙を師として鄭玄の学に優れ、建安年間に許靖らとともに交州から蜀に入った。劉備が蜀を平定すると胡潜とともに博士となったが、二人が互いにそしり争ったので、劉備は臣下が集まった宴席で芸人にその様子をまねさせ、彼らを悟らせた。 正史 蜀書 巻12 §26–28
建安26年(221)、劉備が帝位に即く前に臣下が奉った文は、博士許慈・議郎孟光とともに礼儀を立てると述べた。許慈は後主劉禅の時に次第に昇進して大長秋に至り、死去した。 正史 蜀書 巻2 §64–65正史 蜀書 巻12 §28
陳寿は評で、許慈・孟光・来敏・李譔は広く渉猟して見聞が多く、徳行と功業で称えられはしなかったが、みな一時代の学士であったとした。演義では第80回にのみ登場し、全120回のうち1回の登場で、名が回目に入った回はない。博士として諫議郎孟光とともに劉備の即位の儀礼を担当する。 正史 蜀書 巻12 §102演義 第80回 §38
許慈は字を仁篤といい、南陽郡の人である。劉熙を師として鄭氏(鄭玄)の学に優れ、『易』・『尚書』・『三礼』・『毛詩』・『論語』を修めた。建安年間に許靖らとともに交州から蜀に入った。 正史 蜀書 巻12 §26
当時、蜀には魏郡の人胡潜もいた。字は公興で、どうして益州の地にいたのかはわからない。胡潜は学問が広く行き渡ってはいなかったが、記憶力が抜きん出て強く、祖宗の制度の儀礼や喪礼の五服の等級を、いずれも掌を指し地に描くように示し、手を挙げればすぐに取り出せた。 正史 蜀書 巻12 §26
劉備が蜀を平定した時は、戦乱が多年続いた後で学業が衰え廃れていたので、典籍を集め、諸学を選り分けた。許慈と胡潜はともに博士となり、孟光・来敏らとともに旧い文献を司った。孟光伝も、劉備が益州を平定すると孟光が議郎となり、許慈らとともに制度を司ったと記す。 正史 蜀書 巻12 §27 · 31
ちょうど万事が草創の時期で、ことあるごとに疑義や論議が多かったが、許慈と胡潜はかわるがわる互いにそしり攻め、誹謗して怒り争い、それが声や顔色に表れた。書籍の有無を互いに融通して貸し借りせず、時には鞭打ちにまで及んで互いに威嚇した。陳寿は、自らを誇り相手を妬むことがここまで至ったと記した。 正史 蜀書 巻12 §27
劉備は彼らがこのようであるのを憐れみ、群臣が大いに集まった席で、芸人に二人の姿に扮させてその争う様子をまねさせた。酒がたけなわで音楽が鳴る中でこれを座興とし、初めは言葉と道理で互いに論難し、最後は刀と杖で互いを屈服させるようにして、これによって二人を悟らせ恥じ入らせた。 正史 蜀書 巻12 §28
建安26年(221)、太傅許靖・安漢将軍麋竺・軍師将軍諸葛亮らは劉備に帝位に即くよう請う文を奉り、「臣らは謹んで博士許慈・議郎孟光とともに礼儀を立て、吉日を選んで尊号を奉ります」と述べた。劉備はその年の4月、成都の武担の南で皇帝の位に即いた。 正史 蜀書 巻2 §60 · 64–65
胡潜が先に死に、許慈は後主劉禅の時に次第に昇進して大長秋に至り、死去した。子の許勲がその学業を受け継ぎ、再び博士となった。陳寿の本文は許慈の生年と没年を記していない。 正史 蜀書 巻12 §28
陳寿は蜀書巻12末尾の評で、許慈・孟光・来敏・李譔は広く渉猟して見聞が多く、尹黙は『左氏伝』に精通しており、徳行と功業で称えられはしなかったが、まことにみな一時代の学士であったと述べた。 正史 蜀書 巻12 §102
演義第80回で曹丕が漢を簒奪すると、孔明(諸葛亮)は太傅許靖・光禄大夫譙周と相談し、漢中王劉備を皇帝に推戴しようとする。漢中王が逆賊のふるまいにならうことはできないと再三退けると、孔明は病を口実に出仕せず、見舞いに来た漢中王から、病が治れば行おうという言葉を引き出す。すると外にいた文武の官僚がみな入ってきてひれ伏し、日を選んで大礼を行うよう請う。 演義 第80回 §30–31 · 33–37
孔明はただちに漢中王を宮中に帰し、博士許慈と諫議郎孟光に儀礼を担当させて、成都の武担の南に壇を築く。すべてが整うと、官僚たちは鸞駕を整え、漢中王を迎えて壇に登り祭祀を行うよう請い、譙周が壇上で建安26年4月12日丁巳の祭文を高らかに読み上げる。演義で許慈の名が出るのはこの場面だけである。 演義 第80回 §38–39
学問と蜀に来た経緯:演義第80回で許慈は儀礼を担う博士として名が出るだけで、出身や学問は描かれない。正史で許慈は南陽郡の人で、劉熙を師として鄭氏の学に優れ、建安年間に許靖らとともに交州から蜀に入った。 演義 第80回 §38正史 蜀書 巻12 §26
儀礼を担った経緯:演義第80回では、孔明が病を口実に漢中王の承諾を引き出したのち、博士許慈と諫議郎孟光に儀礼を担当させる。正史の先主伝では、許靖・麋竺・諸葛亮らが帝位に即くよう請うて奉った文の中で、博士許慈・議郎孟光とともに礼儀を立てると述べた。 演義 第80回 §34–38正史 蜀書 巻2 §60 · 64
胡潜との争い:演義には胡潜が登場せず、許慈が博士として争ったこともない。正史で許慈と胡潜は博士として互いにそしり、書物を貸さず、時には鞭打ちにまで及び、劉備は臣下が集まった宴席で芸人に二人の争いをまねさせて彼らを悟らせた。 演義 第80回 §38正史 蜀書 巻12 §27–28
その後の官職:演義は第80回以後、許慈を描かない。正史で許慈は後主の時に次第に昇進して大長秋に至って死去し、子の許勲が学業を継いで再び博士となった。 演義 第80回 §38正史 蜀書 巻12 §28
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正胡潜とそしり合い鞭打ちに及び、書物も貸さなかった蜀書 巻12 §27
演直接の記録なし第80回 §38
正鄭玄の学に優れ、易・尚書・三礼などを修めた。評:一時代の学士蜀書 巻12 §26蜀書 巻12 §102
演博士として大礼の儀礼を担当した第80回 §38
正直接の記録なし — 学者であることから推定蜀書 巻12 §26
演直接の記録なし第80回 §38
正直接の記録なし — 学者であることから推定蜀書 巻12 §26
演直接の記録なし第80回 §38
正直接の記録なし — 学者としての事績から推定蜀書 巻12 §26
演直接の記録なし第80回 §38
正博士として旧い文献を司り、尊号の儀礼を立てた蜀書 巻12 §27蜀書 巻2 §64
演博士として即位の儀礼を担当した第80回 §38
正胡潜と争う姿を芸人にまねされ、笑いものにされた蜀書 巻12 §27蜀書 巻12 §28
演直接の記録なし第80回 §38
正直接の記録なし — 大長秋まで昇進蜀書 巻12 §28
演直接の記録なし第80回 §38
正議論の際に互いに誹謗し、怒り争った蜀書 巻12 §27
演直接の記録なし第80回 §38
正直接の記録なし — 子が学業を継いで博士となった蜀書 巻12 §28
演直接の記録なし第80回 §38
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。