正大将軍費禕のたび重なる大赦を面前で責めた蜀書 巻12 §32蜀書 巻12 §33
演直接の記録なし — 記録なし第80回 §38
孟光は字を孝裕といい、河南洛陽の人で、漢の太尉孟鬱の一族である。霊帝の末に講部吏となり、献帝が長安に遷都すると蜀に逃れ、劉焉父子に賓客の礼で遇された。古事に通じ、漢朝の旧典に長けていた。 正史 蜀書 巻12 §30
先主が益州を平定すると議郎となって許慈らとともに制度を司り、後主の時に大司農に至った。延熙9年(246)の大赦をめぐって大将軍費禕を衆人の前で責めるなど直言をはばからなかったため、爵位は上がらなかった。のちに事に連座して免職となり、九十余歳で死んだ。 正史 蜀書 巻12 §31 · 32–33 · 37
陳寿は評で、許慈・孟光・来敏・李譔は広く渉猟して見聞が多く、徳行と功業で称えられはしなかったが、みな一時代の学士であったとした。演義では第80回に劉備の即位の儀礼を担う諫議郎として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、名が回目に入った回はない。 正史 蜀書 巻12 §102演義 第80回 §38演義 第91回 §40
孟光は字を孝裕といい、河南洛陽の人で、漢の太尉孟鬱の一族である。霊帝の末に講部吏となった。献帝が長安に遷都すると、ついに逃れて蜀に入り、劉焉父子は彼を賓客の礼で遇した。 正史 蜀書 巻12 §30
博識で古事に通じ、読まない書物はなく、とりわけ三史に意を注いで漢朝の旧典に長けていた。『公羊春秋』を好んで『左氏伝』をそしり、いつも来敏とこの二つの学説をめぐって争ったが、孟光は常にやかましく騒ぎ立てた。 正史 蜀書 巻12 §30
先主が蜀を平定した時は、戦乱が多年続いた後で学業が衰えていたので、典籍を集め、諸学を選り分けた。許慈と胡潜が博士となり、孟光・来敏らとともに旧い文献を司った。先主が益州を平定すると、孟光は議郎に任じられ、許慈らとともに制度を司った。 正史 蜀書 巻12 §27 · 31
先主が建安26年(221)4月に成都の武担の南で皇帝の位に即くのに先立ち、太傅許靖・安漢将軍麋竺・軍師将軍諸葛亮らが上奏した文は、「謹んで博士許慈・議郎孟光とともに礼儀を立て、吉日を選んで尊号を奉ります」と述べた。 正史 蜀書 巻2 §60 · 64–65
後主が即位すると、孟光は符節令・屯騎校尉・長楽少府となり、大司農に移った。 正史 蜀書 巻12 §31
延熙9年(246)秋に大赦があると、孟光は衆人の前で大将軍費禕を責めた。赦とは半身が枯れる病のようなもので明らかな世にあるべきものではなく、衰弊が極まってやむを得ない時に限って仮に行えるだけのものであるのに、主上が仁賢で百官が職にかなう今、何の急迫があってたびたび非常の恩を施すのかと詰め寄った。また、鷹や隼が狩りを始める時期にかえって罪ある者を許すのは、上は天の時を犯し、下は人の道理に背くと言った。費禕はただ顧みて謝し、身の置き所もない様子であった。 正史 蜀書 巻12 §32–33
孟光が痛いところ、痒いところを指摘するのは大体この類であったので、政務を執る重臣たちは心中快く思わず、爵位は上がらなかった。彼は常に直言して憚るところがなく、世の人々に嫌われた。陳寿は、太常鐔承や光禄勲裴儁らが年齢も経歴もみな孟光より後でありながら彼より上位に昇ったのは、おそらくこのためであろうと記した。 正史 蜀書 巻12 §33–34
秘書郎郤正がたびたび訪ねて諮問すると、孟光は太子が習い読んでいるものと、その性情と好みを尋ねた。郤正が、親に敬虔恭順に仕え、群臣に接する時の振る舞いは仁と寛恕から出ていると答えると、孟光は、それはどの家にもあるものにすぎず、自分は太子の権略と知謀がどうであるかを知りたいのだと言った。郤正が、世子の道は父の志を承けて歓びを尽くすことにあり、知謀と権略の有無はあらかじめ定めることはできないと言うと、孟光は郤正が慎重で軽々しく語らないことを悟った。 正史 蜀書 巻12 §35–36
孟光は、自分は直言を好んでいつも利害と弊害を指摘しては世の人々に非難され嫌われていると言い、今は天下がまだ定まっていないので知謀が先であると述べた。儲君の読書は、自分たちのように力を尽くして広く知り諮問を待つようなものや、博士が策問を引いて講試を受け爵位を求めるようなものであってはならず、急務に努めるべきだというのである。郤正は孟光の言葉を深くもっともだと思った。 正史 蜀書 巻12 §36–37
のちに孟光は事に連座して免職となり、九十余歳で死んだ。正史は彼の没年を記していない。来敏伝は、当時孟光も言葉を慎まず議論が時勢に逆らったが、それでも来敏よりはましであり、二人ともに年長の名望ある学士として世に礼遇されたと記す。 正史 蜀書 巻12 §37 · 41
陳寿は評で、許慈・孟光・来敏・李譔は広く渉猟して見聞が多く、徳行と功業で称えられはしなかったものの、まことにみな一時代の学士であったとした。 正史 蜀書 巻12 §102
演義第80回で曹丕が漢を簒奪すると、孔明は官僚を率いて漢中王劉備に帝位に即くよう重ねて請い、ついに承諾を得る。孔明はただちに漢中王を宮中に帰し、博士許慈と諫議郎孟光に儀礼を担当させて、成都の武担の南に壇を築く。すべてが整うと、官僚たちは漢中王を迎え、壇に登って祭祀を行うよう請う。 演義 第80回 §31 · 37–38
第91回で孔明が上表して北伐に向かおうとすると、太史譙周は天象を挙げて諫めるが、孔明は従わない。孔明は郭攸之・董允・費禕らを侍中として残して宮中のことを任せるなど、蜀の政務を治める人々を定め、その中で孟光と来敏を祭酒とする。演義で孟光の名が出るのはこの二回だけである。 演義 第91回 §39–40
即位儀礼の官職:演義第80回で孟光は諫議郎として博士許慈とともに儀礼を担当する。正史では許靖らの上奏文が「博士許慈・議郎孟光」とともに礼儀を立てると述べ、孟光伝も先主が益州を平定すると議郎になったと記す。 演義 第80回 §38正史 蜀書 巻2 §64正史 蜀書 巻12 §31
祭酒:演義第91回で孔明は北伐に出るにあたり孟光と来敏を祭酒とする。正史孟光伝に祭酒の官はなく、後主が即位すると符節令・屯騎校尉・長楽少府を経て大司農となった。正史で諸葛亮が漢中に駐屯した時に請うて軍祭酒としたのは来敏である。 演義 第91回 §40正史 蜀書 巻12 §31 · 40
来敏との論争:正史で孟光は『公羊春秋』を好んで『左氏伝』をそしり、いつも来敏と争った。演義第91回で二人は並んで祭酒となるだけで、論争は出てこない。 正史 蜀書 巻12 §30演義 第91回 §40
費禕を責めたこと:正史で孟光は延熙9年(246)の大赦をめぐって衆人の前で大将軍費禕を責めた。演義で孟光が登場する第80回と第91回にはこの件はない。 正史 蜀書 巻12 §32–33演義 第80回 §38演義 第91回 §40
郤正との問答:正史で孟光は秘書郎郤正に太子の権略と知謀を尋ね、天下が定まっていないので知謀が先だと述べた。演義第91回で郤正は同じ名簿に秘書として名が載るだけで、二人の問答はない。 正史 蜀書 巻12 §35–37演義 第91回 §40
最期:演義で孟光は第91回を最後に登場せず、死も記されていない。正史では事に連座して免職となったのち、九十余歳で死んだ。 演義 第91回 §40正史 蜀書 巻12 §37
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正大将軍費禕のたび重なる大赦を面前で責めた蜀書 巻12 §32蜀書 巻12 §33
演直接の記録なし — 記録なし第80回 §38
正読まない書物はなく漢の旧典に長けた。評:広く渉猟蜀書 巻12 §30蜀書 巻12 §102
正言葉を慎まず昇進が阻まれ、免職となった蜀書 巻12 §33蜀書 巻12 §37蜀書 巻12 §41
演直接の記録なし — 記録なし第91回 §40
正天下が定まっていないので太子は知謀が先だと述べた蜀書 巻12 §37
演直接の記録なし — 記録なし第91回 §40
正郤正が慎重で適切であることを見抜いた蜀書 巻12 §36
演直接の記録なし — 記録なし第91回 §40
正議郎として制度を司り、大司農に至った蜀書 巻12 §31
演諫議郎として即位の儀礼を担当した第80回 §38
正来敏と常に争い、費禕を論駁したが言葉を慎まなかった蜀書 巻12 §30蜀書 巻12 §32
演直接の記録なし — 記録なし第80回 §38
正直接の記録なし — 文官として推定蜀書 巻12 §31
演直接の記録なし — 文官として推定第80回 §38
正直接の記録なし — 文官として推定蜀書 巻12 §30
演直接の記録なし — 文官として推定第80回 §38
正直言のため世の人々に嫌われ、爵位が上がらなかった蜀書 巻12 §33蜀書 巻12 §34
演直接の記録なし — 記録なし第91回 §40
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。