董允

正史演義 蜀 字 休昭 Dong YunXiuzhao동윤휴소

プロフィール
職業正演文官 · 侍中所属蜀
登場正演収録蜀書
出生正? 推定出身地南郡
死去正246年 推定死去地
実在実在言及正24回

人物紹介

董允は字を休昭といい、南郡の人で、掌軍中郎将董和の子である。劉備が太子を立てたとき舎人に選ばれ、後主劉禅が位を継ぐと黄門侍郎となった。 正史 蜀書 巻9 §26正史 蜀書 巻14 §20

諸葛亮が北伐を前に奉った上疏で、宮中のことを任せる人として挙げられ、侍中となった。後主を正し、宦官黄皓を叱責したので、彼が生きている間、黄皓の地位は黄門丞を越えなかった。延熙9年(246)に死去した。 正史 蜀書 巻9 §26–27 · 29 · 31

正史を著した陳寿は評で「董允は君主を正し、義が顔色に表れた」と述べ、董和・劉巴・馬良・陳震とともに蜀の臣のなかの優れた者に数えた。演義では第85回に黄門侍郎として初めて登場し、全120回のうち5回に登場するが、回目に名が入った回はない。第91回の出師表で、郭攸之・費禕とともに宮中を任せる人として名が挙がる。 正史 蜀書 巻9 §45演義 第85回 §36演義 第91回 §34

正史の記録

董允は字を休昭といい、掌軍中郎将董和の子である。費禕伝によれば、蜀にとどまっていた費禕は、汝南の許叔龍、南郡の董允と並んで名を知られた。許靖が子を亡くしたとき、董允と費禕がともに葬儀の場に行こうとすると、董和は後ろの開いた小さな鹿車を出した。董允は乗るのをためらう様子で、諸葛亮や多くの貴人の華やかな車が集まった場でも顔色が落ち着かなかったが、費禕は泰然自若としていた。これを知った董和は董允に、いつもおまえと文偉(費禕)の優劣をつけかねていたが、今はっきりしたと言った。 正史 蜀書 巻9 §26正史 蜀書 巻14 §20–21

劉備が太子を立てたとき、董允は費禕とともに選ばれて舎人となり、洗馬に移った。後主劉禅が位を継ぐと黄門侍郎となった。 正史 蜀書 巻9 §26正史 蜀書 巻14 §22

建興5年(227)、諸葛亮は北伐のため漢中にとどまることになると、後主がまだ年若く朱と紫を見分けにくいことを案じ、心ばえが公正で明らかな董允に宮中のことを任せようとした。彼は上疏で、侍中郭攸之・費禕と侍郎董允は先帝が選び抜いて残した者たちであるから、宮中のことは大小を問わずすべて彼らに諮るよう述べ、徳を興す言葉がなければ董允らを誅してその怠慢を明らかにせよと言った。 正史 蜀書 巻5 §24正史 蜀書 巻9 §26–27

諸葛亮はまもなく費禕を参軍とするよう願い、董允は侍中に移って虎賁中郎将を兼ね、宿衛の親兵を統べた。郭攸之は性格がもともと温和で従順で、員数をそろえているだけであったので、諫言と献策の任は董允がすべて引き受けた。董允は事を処理するにあたって防ぎ抑えることに努め、正し救う道理を尽くした。 正史 蜀書 巻9 §27–28

後主がたびたび女性を選んで後宮を満たそうとすると、董允は、古の天子の后妃の数は十二を越えず、今は妃嬪がすでにそろっているので増やすべきではないとして、最後まで従わず、後主はいっそう彼をはばかった。尚書令蒋琬は益州刺史を兼ねると、上疏して費禕と董允に位を譲ろうとし、董允は長年宮中に仕えて王室を補佐したので爵位と封土を賜るべきだと上表したが、董允は固く辞退して受けなかった。 正史 蜀書 巻9 §28–29

建興12年(234)に諸葛亮が死んだのち、魏延と楊儀が互いに相手が反逆したと上表し、一日のうちに急な檄文が次々と届くと、後主は侍中董允と留府長史蒋琬に問うた。二人はともに楊儀を保証し、魏延を疑った。 正史 蜀書 巻5 §38正史 蜀書 巻10 §61 · 63

後主はしだいに成長すると、宦官黄皓を寵愛した。黄皓はへつらいに長けて利口で、自ら内に入り込もうとしたが、董允はいつも上には顔色を厳しくして君主を正し、下にはたびたび黄皓を叱責した。黄皓は董允を恐れてあえて悪事をせず、董允が生きている間、黄皓の地位は黄門丞を越えなかった。 正史 蜀書 巻9 §29

董允はかつて尚書令費禕、中典軍胡済らと遊宴を約束し、車の支度まで整えたことがあったが、そのとき郎中で襄陽の人董恢が訪ねてきて敬意を表した。年若く官位の低い董恢が退こうとすると、董允は、もともと気の合う人々と語らうために出かけようとしたのであり、君が自ら訪ねてきたのに、この語らいを捨ててあの宴に行くのは正しくないとして、添え馬を解かせ、費禕らも車を止めて行かなかった。陳寿は、彼が正しい道を守り士にへりくだることはおおむねこのようであったと記した。 正史 蜀書 巻9 §30–31

延熙6年(243)に輔国将軍を加えられ、7年(244)には侍中のまま尚書令を代行して大将軍費禕の副となった。9年(246)に死去した。呂乂が董允に代わって尚書令となり、陳祗が董允に代わって侍中となって黄皓と互いに内外をなすと、黄皓は初めて政事に関与した。陳祗が寵愛を受けてから、後主は董允が自分を軽んじたとして恨みを日ごとに深め、黄皓はついに権勢をふるって国を覆すに至った。蜀の人で董允を慕わない者はなかった。孫の董宏は晋の巴西太守であった。 正史 蜀書 巻9 §31 · 33 · 36–37 · 41

陳寿は評で董和・劉巴・馬良・陳震とともに董允を挙げ、「董允は君主を正し、義が顔色に表れた」とし、みな蜀の臣のなかの優れた者であると述べた。 正史 蜀書 巻9 §45

演義の描写

演義第85回で、劉備が死んで後主劉禅が位に就いたばかりのところへ曹丕が五路の軍勢で攻め寄せるが、丞相諸葛亮は病と称して出てこない。後主は黄門侍郎董允と諫議大夫杜瓊を丞相の病床の前へ遣わすが、二人は丞相府に入ることができず、嘆息して帰る。 演義 第85回 §36–37

後主が百官を率いて皇太后に申し上げると、太后は自ら丞相府に行くと言う。董允は、太后が軽々しく行くべきではなく、丞相には必ず高明な考えがあるはずなので、まず主上が先に行って様子を見て、もし丞相が怠けているのであれば、そのとき太廟に呼んで問うても遅くないと申し上げる。太后はその言に従う。 演義 第85回 §38–39

第91回で孔明が奉った出師表は、郭攸之・費禕・董允を先帝が選び抜いて残した忠実な者たちとして挙げ、宮中のことはすべて彼らに諮ってから行うよう述べ、漢室を再興する言葉がなければ彼らの過ちを責めよと言う。孔明は出陣にあたって郭攸之・董允・費禕を残して侍中とし、宮中のことを総括させる。 演義 第91回 §34 · 38 · 40

第105回で魏延と楊儀が互いに相手が背いたと上表すると、蒋琬に続いて董允も、魏延は功が高いことを恃んでいつも不平の心を抱き恨み言を言っており、今まで背かなかったのは丞相を恐れていたからにすぎず、楊儀は決して背かないと申し上げる。後主は董允に節を与えて和解を勧めさせるが、董允が南鄭に着く前に、馬岱がすでに魏延を斬っている。 演義 第105回 §9–11 · 23

第107回で費禕は姜維の出陣を止めようとして、蒋琬と董允が相次いで世を去り、内の政事を見る者がいないと言う。第115回で後主は、黄皓を殺すよう求める姜維に、かつて董允がいつも歯ぎしりして黄皓を憎んでいたのをひどく不思議に思っていたと言う。 演義 第107回 §39演義 第115回 §26

演義と異なる点

宮中を任された者:演義第91回で孔明は出陣にあたり、郭攸之・董允・費禕をともに侍中として残し、宮中のことを総括させる。正史では諸葛亮が上疏ののちまもなく費禕を参軍とするよう願い、董允が侍中に移って虎賁中郎将を兼ね、宿衛の親兵を統べた。郭攸之は員数をそろえるだけで、諫言の任は董允が引き受けた。 演義 第91回 §40正史 蜀書 巻9 §27

丞相府へ行った件:演義第85回で董允は、病と称して出てこない諸葛亮のもとへ杜瓊とともに使者として行き、自ら行こうとする太后を止める。正史の董允伝にはこの件はない。 演義 第85回 §37–39正史 蜀書 巻9 §25–31

魏延と楊儀の争い:演義第105回で董允は魏延を疑って楊儀を保証したのち、節を受けて和解を勧めに南鄭へ向かい、魏延が死んだあとに着く。正史では後主の問いに蒋琬とともに楊儀を保証し魏延を疑っただけで、和解を勧めに行ったことはない。 演義 第105回 §9–11 · 23正史 蜀書 巻10 §63

後宮と爵位:正史で董允は後宮を満たそうとする後主に最後まで従わず、蒋琬が爵位と封土を賜るよう上表したが固く辞退した。演義で董允が登場する第85・91・105回の場面には、このようなことはない。 正史 蜀書 巻9 §28–29演義 第85回 §38演義 第91回 §40演義 第105回 §11

黄皓:演義では第115回に後主が姜維に、董允がいつも黄皓を憎んでいたと語ることでしか出てこない。正史では董允が生きている間、黄皓の地位は黄門丞を越えず、陳祗が董允に代わって侍中となってから初めて黄皓が政事に関与し、後主は陳祗と黄皓のために董允を日ごとに恨むようになった。 演義 第115回 §26正史 蜀書 巻9 §29 · 33 · 36

死:演義第107回は、費禕の言葉で蒋琬と董允が相次いで世を去ったと伝えるだけである。正史で董允は延熙7年(244)に侍中のまま尚書令を代行して大将軍費禕の副となり、9年(246)に死去した。 演義 第107回 §39正史 蜀書 巻9 §31

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4031−9
  • 武力3131±0
  • 知力5855−3
  • 政治7055−15
  • 魅力6845−23
  • 徳9075−15
  • 処世5045−5
  • 文芸4540−5
  • 弁舌6255−7
  • 用人4842−6
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

近い項目 7件 — 根拠を見る
  • 統率正40推定演31推定 −9

    正直接の記録なし — 虎賁中郎将として宿衛の親兵を統べた職から推定蜀書 巻9 §27

    演直接の記録なし — 宮中のことを任された文官として推定第91回 §40

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 文官の経歴から推定蜀書 巻9 §27

    演直接の記録なし — 文官の経歴から推定第91回 §40

  • 知力正58演55 −3

    正魏延・楊儀の争いで楊儀を保証し魏延を疑った蜀書 巻10 §63

    演魏延が功を恃んで恨みを抱いているとして反逆の可能性を指摘第105回 §9

  • 処世正50演45推定 −5

    正生前は黄皓を抑えたが、後主の恨みを買った蜀書 巻9 §29蜀書 巻9 §36

    演直接の記録なし — 全体の事績から推定第85回 §38

  • 文芸・学術正45推定演40推定 −5

    正直接の記録なし — 太子舎人・洗馬の経歴から推定蜀書 巻9 §26

    演直接の記録なし — 文官の経歴から推定第91回 §34

  • 弁舌・外交正62演55 −7

    正後宮の増員を最後まで阻むなど諫言を一手に担った蜀書 巻9 §28蜀書 巻5 §30

    演太后の軽率な行幸を止め、魏延との和解の使者として遣わされた第85回 §38第105回 §11

  • 識人・用人正48推定演42推定 −6

    正直接の記録なし — 位の低い郎中董恢を礼遇したことから推定蜀書 巻9 §30

    演直接の記録なし — 推定第91回 §34

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(5回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 正史 · 正史 巻39 「後主襲位,遷黃門侍郎」

家族

父母董和 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

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