董和
人物紹介
董和は字を幼宰といい、南郡枝江県の人で、祖先はもと巴郡江州県の人であった。漢末に一族を率いて西へ移り、益州牧劉璋のもとで県長・県令と巴東属国都尉を経て益州太守を務めた。 正史 蜀書 巻9 §2–3
劉備が蜀を平定すると掌軍中郎将となり、軍師将軍諸葛亮とともに左将軍・大司馬府の事務を担当した。仕官して20年あまりであったが、死んだ日、家には一石の穀物ほどの財産もなかった。 正史 蜀書 巻9 §4
正史を著した陳寿は評で、彼が「羔羊」の詩の素朴さを実践したとし、劉巴・馬良・陳震・董允とともにみな蜀の臣下の中で優れた者たちであるとした。演義には第64回に益州太守として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が載る回はない。漢中の張魯に兵を借りようと願い出て、第65回では降伏しようとする劉璋を諫める。 正史 蜀書 巻9 §45演義 第64回 §32演義 第65回 §39
正史の記録
董和は字を幼宰といい、南郡枝江県の人で、その祖先はもと巴郡江州県の人であった。漢末に董和は一族を率いて西へ移り、益州牧劉璋は彼を牛鞞県長・江原県長・成都県令とした。 正史 蜀書 巻9 §2
蜀の地は豊かで、当時の風俗は奢侈であった。財を殖やす家は諸侯の衣を着て玉のような食事をし、婚姻や葬儀には家を傾けて財産を使い尽くした。董和は自ら倹約で率先し、粗末な衣を着て野菜を食べ、分を越えた奢侈を防いでそのための規範を作った。彼のいるところではどこでも風俗が改まって良くなり、人々は畏れて背かなかった。 正史 蜀書 巻9 §2
県内の豪族たちは董和の厳しい法を嫌い、劉璋を説いて彼を巴東属国都尉に移させた。役人や民、老人や弱者が手を取り合ってやって来て董和を留めてほしいと願った者が数千人に及んだので、劉璋は2年間留まることを許した。戻って益州太守に移ったが、清廉で倹約なことは以前と同じであった。蛮夷と事を共にするときは誠意を尽くすことに努めたので、南方の人々は彼を慕い信頼した。 正史 蜀書 巻9 §3
建寧兪元の人李恢が郡の督郵であったとき、叔母の夫爨習が建伶県令として法を犯したことがあり、李恢も連座して免官されるところであった。太守董和は爨習がその地方の大姓であったので事を伏せて許さず、のちに李恢を州に推薦した。 正史 蜀書 巻13 §12
先主が蜀を平定すると董和を召して掌軍中郎将とし、軍師将軍諸葛亮とともに左将軍・大司馬府の事務を担当させた。董和は可を献じ否を正し、諸葛亮と喜んで交わった。先主伝は、董和・黄権・李厳らもともと劉璋が任用した人々をみな高い地位に置いてその才能を尽くさせたと記す。 正史 蜀書 巻9 §4正史 蜀書 巻2 §34
董和が官に就いて禄を受けてから、外では遠方の地を治め、内では中枢の政務を担うこと20年あまりであったが、死んだ日、家には一石の穀物ほどの財産もなかった。陳寿の本文は彼の死んだ年を記していない。子は董允である。 正史 蜀書 巻9 §4 · 26
諸葛亮はのちに丞相となって諸官に教令を下し、ともに参与して事を処理するのは衆人の考えを集め、忠実で有益な意見を広めるためであると述べた。そして、ただ徐庶だけがこれに惑わず、董和は事務に参与した7年の間、事に至らないところがあれば十度までも戻ってきて知らせてくれたと述べた。また崔州平・徐庶・董和・胡済の4人を挙げ、董和とともに仕事をしたとき、彼は話すたびに言うべきことを言い尽くしたと述べた。陳寿は、諸葛亮が董和を追慕したことはこのようであったと記した。 正史 蜀書 巻9 §4–6
楊戯は「季漢輔臣賛」で掌軍中郎将董和をたたえ、清い節操で毅然として常に変わらず、直言を務めとしたので、民はその綱紀を慕ったと述べた。 正史 蜀書 巻15 §45
陳寿は評で、董和が「羔羊」の詩の素朴さを実践したとし、劉巴・馬良・陳震・董允とともにみな蜀の臣下の中で優れた者たちであるとした。 正史 蜀書 巻9 §45
演義の描写
演義第64回で劉璋が妻の弟費観と李厳に綿竹を守らせるとき、南郡枝江の人である益州太守董和は劉璋に書を奉り、漢中へ行って兵を借りようと願い出る。張魯は代々の仇なのにどうして救ってくれようかと言う劉璋に、董和は、仇同士ではあっても劉備の軍が雒城にあって情勢が危急であり、唇亡びて歯寒しというから、利害をもって説けば必ず従うだろうと言う。劉璋はそこで書を作って使者を漢中に送る。 演義 第64回 §31–33
張魯は劉璋の救援要請に初めは応じなかったが、劉璋が再び送った黄権が楊松を通じて20州を謝礼に与えると申し出ると、その利を喜ぶ。第65回で張魯は馬超に兵2万を与えて葭萌関を攻めさせる。 演義 第64回 §49–50演義 第65回 §1
第65回で劉備に帰順した馬超が城下で降伏を呼びかけると、劉璋は城門を開いて降伏し、城中の民を救うほうがよいと言う。董和は、城中にはまだ兵が3万余りおり、銭や絹、兵糧や秣も1年は持ちこたえられるのに、どうしてすぐに降伏しようとするのかと諫める。劉璋は、父子で蜀にあること20年あまり、民に施した恩徳はなく、3年の戦いで血肉が野に捨てられたのはみな自分の罪であると言って降伏しようとする。 演義 第65回 §38–40
劉備が自ら益州牧を兼ね、降伏した文武の官員に厚く褒美を与えて名号と爵位を定めるとき、董和は掌軍中郎将となる。演義で彼の名はこの回を最後に二度と出てこない。 演義 第65回 §46
演義と異なる点
兵を借りる提案:演義第64回では董和が劉璋に漢中の張魯から兵を借りるよう願い出る。正史の董和伝にこの出来事はない。 演義 第64回 §32正史 蜀書 巻9 §1–6
降伏を諫めた言葉:演義第65回では董和が城中の兵3万余りと1年分の物資を挙げて劉璋の降伏を諫める。正史の劉璋伝は、城中にはまだ精兵3万人がおり、穀物と絹は1年を支えられ、役人も民もみな死戦しようとしていたと述べるだけで、それを言った人物を記していない。董和伝にもこの出来事はない。 演義 第65回 §39正史 蜀書 巻1 §17正史 蜀書 巻9 §1–6
劉璋のもとでの官職:演義第64回は彼を益州太守としてのみ紹介する。正史では牛鞞県長・江原県長・成都県令を務め、豪族の説得で巴東属国都尉に移るとき役人や民数千人が留めてほしいと願い、2年留まったのち益州太守となった。 演義 第64回 §32正史 蜀書 巻9 §2–3
倹約:演義の董和は兵を借りる提案と降伏を諫める場面にだけ登場する。正史では奢侈な蜀の地の風俗の中で、粗末な衣と野菜の食事で率先して規範を作り、死んだ日、家には一石の穀物ほどの財産もなかった。 演義 第64回 §32演義 第65回 §39正史 蜀書 巻9 §2 · 4
諸葛亮との仕事:演義第65回では掌軍中郎将の任命に名が出たのち、二度と登場しない。正史では諸葛亮とともに左将軍・大司馬府の事務を担当して可を献じ否を正し、諸葛亮は丞相となったのち教令で、事務に参与した7年の間に十度までも戻ってきて知らせてくれた董和の懇ろな誠意を見習って国に忠を尽くせるなら、自分の過ちは少なくなるだろうと述べた。 演義 第65回 §46正史 蜀書 巻9 §4–5
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3138+7
- 武力3131±0
- 知力5562+7
- 政治8048−32
- 魅力7840−38
- 徳9062−28
- 処世5250−2
- 文芸4035−5
- 弁舌6052−8
- 用人5535−20
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正李恢の連座を伏せて州に推薦した蜀書 巻13 §12
演直接の記録なし — 推定第64回 §32
近い項目 6件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。