陳紀

正史 後漢 字 元方 Chen JiYuanfang진기원방陈纪

プロフィール
職業正文官 · 大鴻臚所属後漢
登場正収録
出生出身地潁川郡
実在実在言及正6回

人物紹介

陳紀は潁川の人で、陳寔の子であり陳群の父である。陳群伝は、祖父陳寔・父陳紀・叔父陳諶がいずれも大きな名声を得ていたと記す。董卓が政権を握ったとき、吏部尚書周毖と許靖は潁川の荀爽・韓融・陳紀らを抜擢して公・卿・郡守とし、陳紀はのちに子の陳群とともに徐州へ難を避けた。 正史 魏書 巻22 §11 · 12正史 蜀書 巻8 §2–3

許靖は彼に兄として仕え、広陵太守陳登は家門が睦まじく徳と行いがあることで「陳元方兄弟」を敬うと言った。正史には彼の伝も評もなく、陳寿の本文では陳群・許靖・陳矯の伝に名が見える。陳寿は彼の官職と年齢、死を記していない。演義には登場しない。 正史 蜀書 巻8 §19正史 魏書 巻22 §58 · 11

正史の記録

陳群伝によれば、陳群は潁川郡許昌県の人で、祖父陳寔・父陳紀・叔父陳諶はいずれも大きな名声を得ていた。魯国の孔融は才能が高く傲慢であったが、年齢は陳紀と陳群の間であった。はじめは陳紀と友であったが、のちに陳群と交わるようになると、陳紀には改めて目上として拝礼し、これによって陳群の名が知られた。 正史 魏書 巻22 §11

許靖伝によれば、霊帝が崩御し董卓が政権を握ると、漢陽の人周毖が吏部尚書となり、許靖とともに天下の士を進退させた。このとき潁川の荀爽・韓融・陳紀らを抜擢して公・卿・郡守とし、尚書韓馥を冀州牧に、侍中劉岱を兗州刺史に、潁川の張咨を南陽太守に、陳留の孔伷を豫州刺史に、東郡の張邈を陳留太守に任じた。韓馥らは任地に着くとそれぞれ兵を挙げて董卓を殺そうとしたので、董卓は周毖を叱りつけて退出させ、外で斬った。 正史 蜀書 巻8 §2–4

陳群は劉備が豫州を治めていたとき別駕となり、劉備が徐州へ行くのを止めたが、劉備は聞き入れなかった。陳群は茂才に推挙されて柘県の令に任じられたが赴任せず、陳紀に従って徐州へ難を避けた。 正史 魏書 巻22 §11–12

陳矯伝によれば、広陵太守陳登は功曹陳矯を許へ遣わし、自分の評判を探らせた。陳矯が帰って、明府は驕って自らを誇っているという者が多いと伝えると、陳登は「家門が睦まじく徳と行いがあることでは、わしは陳元方兄弟を敬う」と言い、続けて華子魚・趙元達・孔文挙・劉玄徳を敬う理由を挙げ、敬う相手がこのようであるのに、どうして驕っていると言えようかと述べた。 正史 魏書 巻22 §58

許靖伝は、許靖がはじめ潁川の陳紀に兄として仕え、陳郡の袁渙、平原の華歆、東海の王朗らと親しくしていたと記す。華歆・王朗と陳紀の子陳群は魏の初めに三公や輔政の大臣となり、みな許靖に手紙を送って旧交を重ねて表明し、その情義はきわめて懇ろであった。 正史 蜀書 巻8 §19

陳寿の本文は陳紀が受けた官職と年齢、没年を記さず、彼のことを別に評してもいない。陳紀は陳群伝・許靖伝・陳矯伝に名が見えるだけである。 正史 魏書 巻22 §11–12 · 58正史 蜀書 巻8 §3 · 19

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力45
  • 政治45
  • 魅力66
  • 徳74
  • 処世48
  • 文芸52
  • 弁舌40
  • 用人45
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 後漢 · 正史 · 正史 巻22 「紀歷位平原相、侍中、大鴻臚」

家族

父母陳寔 正史
子陳群 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。